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【リタ・セガート】家父長制:端から中心へ (2/3)残酷な世界の作り方

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【リタ・セガート】家父長制:端から中心へ (1/3)公共圏とジェンダー】を読む

「しつけ」と残酷性の教授法 (*1)

セガートはジェンダー暴力を読み解くことで社会の変化を読み解くことができると言う。

家父長制:端から中心へ (1/2)の冒頭で触れた「マイノリティー化」に戻ろう。女性への暴力が社会問題ではなく一部特有な問題、または少数の問題(「女性問題」「ジェンダー問題」)とする「マイノリティー化」は、村世界から「コロニアル・モダニティー型家父長制」の世界へ推移したことが一つの原因であるとセガートは言う。その結果ラテンアメリカでは、女性の殺害やLGBTコミュニティーへのヘイトクライムはかろうじてしか報道されない(少なくとも主流メディアでは)。しかし、マイノリティーに対しての暴力は偶然的でも必然的な結果でもなく、意図的である。暴力は家父長制的な権力が「マイノリティー」と見做す人間に課す「しつけ」なのである

あらゆる社会的マイノリティーはコロニアル・モダニティー型家父長制を脅かす存在である。そんなマイノリティーをしつけるため、家父長制が利用するのは暴力である。

私たちの社会には、女性の権利向上のためにこれまでにないほどの法律、研修制度、研究や文献が存在し、女性たち自身だって立場や名声を手に入れている。それなのに、女性への暴力は止まないどころか、どんどん過激で残酷になっている。なぜだ?それは、女性を迫害することこそが権力が成り立つ土台だからなのではないか。

現行の社会システムは女性がその役割や立場から逃れられないことに依存している。そのシステムを解体することで様々な差別と抑圧の構造を理解することができる。そしてその仕組みの正体は国家と大企業の合成物からできていることが見えてくる。

私たちは「マイノリティー化」されることによって [社会問題の]「スラム街」へ追放された「女性問題」を公にし、ジェンダー差別が他の抑圧や権力と従属関係(人種、帝国主義、植民地支配、階級、地域、中心対外周、ヨーロッパ対その他世界)の基盤と教授法になっていることを理解しなければならない。

セガートは続けて暴力が横行する世界の原因を具体的に述べる。

世界は今、前代未聞の富の集中と経済格差の中にいる。この極端な富の集中と加速する家産制は過去の「不平等」の定義では語りきれないのである。現代において不平等は「所有権」及び「統治権」の問題に繋がる。統治権は、少数の権力者がこの世の生と死をコントロールすることである。統治権のある者は、その富の壮大なスケールによって、どんな制度の管理からも免れる。つまり、「民主性」の理想を全て蔑ろにするのだ。ラテンアメリカに置いて、この「統治権」は商業、政治、司法制度のマフィア的な経営を意味する。このスタイルの支配は、たくさんの民族を、先祖代々暮らした土地や地域から追い出す行為へ連鎖する。「植民地支配」から「征服」へと回帰しているのがわかるだろう。ラテンアメリカに見られる極端な暴力、またその暴力の過激化を見ると、この大陸での「征服」は終わっていなかったどころか、今も地続きにあることがわかる。

これが「資本」の歴史的な巨大プロジェクトである。だから共感や慈愛、ローカルやコミュニティーへのルーツなど、団結力や関係性を保とうとする行為は全てこの資本主義の巨大プロジェクトにとっては不利益で障害と見做される

資本プロジェクトではコミュニティーの繋がりを破壊し、人間の共感能力を低下させ、お互いの存在を最小限に許容するものと思わせ、残酷な行為をさせることが重要になる。

この資本プロジェクトのモデルとも言えるのが南米チリと中東カタールだ。チリはミルトン・フリードマンのレシピをオーソドックスな形で応用している。それは市場主義の政権という形で現れる。チリ社会に蔓延する「悲しみ」はこのモデルがもたらす「不安定さ」が原因だと言われる。ここで言う「不安定」とは経済的なものより、関係性の不安定さを指す。日常生活に安定感を与えるのは人間同士の関係性であるが、資本プロジェクトによりそれが根こそぎ破壊されてしまったのだ。

一方カタールは「所有者で構成される政府」の典型例とも言える。ここでは、国家=世襲なのだ。今、ラテンアメリカ諸国の「カタール化」が進んでいる。各地で見られる一次生産の再発、大規模の資源採掘事業や搾取的な農業は市場政権の拡大、政治的権力と統治力の融合がもたらすものだ。これは人々や環境へのさらなる攻撃をもたらし、結果として命の商品化、統治者だけの安全確保、ジェノサイドといった残骸だけが残るのだ。

このような環境は、残酷性の行使とそれに対しての無関心を生む。その残酷な暴力は、アヨツィナパ事件(*2)でも見たように、女性や子供の身体に向けられる。ラテンアメリカの過去の独裁制の下起こった国家テロは、今度は組織や中心のない拡散型のテロの道を開いた。新しい形のテロは、準国家的な勢力が、法が行き届かない空間や場面に侵食し、特に無防備で排除されている人々をコントロールするのである。セガートの言葉を引用する。

もしかしたら、独裁制が終わりを迎えたのは、すでに新しい形のテロの地勢を整ったからなのかもしれない。それはもう国家のテロではなく、相関性が失われることで生産主義で競争的個人主義になった社会の中に消費者を閉じ込め、隣人の苦しみに鈍感になるよう訓練させ、慈愛も共感もない存在にすることから始まる社会テロだ。

内密に行われるフェミシディオ(*3)と、好戦的なフェミシディオには違いはないとセガートは言う。今は準国家勢力がもたらす「非公式(インフォーマル)な戦争」は家庭内に入り込んでいる。性暴力やフェミシディオは家庭で始まり、戦争へ応用されたのではなく、逆である。日常で起こる殺人は日に日に戦争を想起するような形で行われる。ドブや下水溝に捨てられた遺体、そして公共空間が現場と化す、見せ物的な殺人事件。それ以外にも、ラテンアメリカ中に広がる、警察の手によって下される説明のない法廷外の処刑もまた、新しい形のテロである。それは人間のもつ関係性の論理とルールへの攻撃なのだ。

「時代」に、その時の経済状況に合わせた「人格」を与えるのであれば(例えば産業革命時代はヒステリック、モダニズムは統合失調症)、この時代は「サイコパス」だろう。

サイコパスは、ホルモンなどの爆発をうまく感情や愛情に転換できず、感情を抱くためには常に強い刺激を必要とする。非関係的で非結束的であり、他人の痛みや感情にも共感できない。場所や集団に根を持たない。サイコパス的人格は、人の人間性を奪い、身体も土地も無制限に必要とし、それら「資源」を亡骸にすることを歯車とする経済にぴったりであろう。

資本の終末期に入った、残酷性が教授される世界はサイコパスの温床である。

「時計じかけのオレンジ」という映画の奇妙な運命を見てみよう。それは現代社会の「共感の抹殺」を裏付けるかもしれない。小説を基にしたこの映画は暴力、レイプ、殺人といった過激なシーンが多く、発表された頃はイギリスでも、他の国でも当時で最も検閲された映画だった。しかし40年後の世界ではどうだろう。映画のデビュー当時の恐ろしさがない。今の観客は、鑑賞しながら笑うこともある。主人公を演じたマクダウェルは、現代の観客が「時計じかけのオレンジ」に対して抵抗なく受容していることはまさに暴力がーーそしてストーリーの核でもある女性への暴力がーーまた、サイコパス的人格が、いかに今の社会でごく自然な現象と化したかを物語っていると発言する。

今回もセガートの言葉で締めよう。

これは、晩期資本主義が促進する倫理的感度と生活水準の減少を明らかに示している。この時代の女性の身体に課せられる暴力と苦しみや痛み、そしてそれら暴力のスペクタクル化や陳腐化から、「共感」の衰退を測定すことができる。また、[暴力は] この画期的な時代の中で大変機能し、貢献しているのである。

【リタ・セガート】家父長制:端から中心へ (3/3)これからの歴史を創造する

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*1 Discipline and the Pedagogy of Cruelty: High Intensity Modern-Colonial Patriarchy in the Apocalyptic Phase of Capital

*2 メキシコ・ゲレーロ州で起こった43人の学生の集団失踪事件 (2014年)

*3 フェミシディオ femicidio(英語:フェミサイドfemicide)女性であることが故に殺害されてしまうこと。