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チリのアートx政治ーー「エセナ・デ・アヴァンサーダ」

[見出し画像:"Una milla de cruces sobre el pavimento" ロティ・ローセンフェルド(Lotty Rosenfeld, 1979)]

世界にはいろんなアートが存在するが、美術史の授業では学ばないものが多い。特にヨーロッパや北米圏外で起こった芸術は「国際的な潮流」に含まれないことが多々ある。今回は南米の大学院で勉強して初めて知ったアートの潮流の一つを紹介したいと思う。

チリの独裁制時代には様々な形で「政治」と「アート」を交差させていたアートがあった。その一つが「エセナ・デ・アヴァンサーダ」Escena de Avanzada(以下、アヴァンサーダ)だった。アヴァンサーダを命名し、政治とアートについていくつも論文や本を出しているのが長年チリの歴史とアートに携わってきた文化理論家、評論家のネリー・リチャード。この投稿を書いている時点では日本語で「エセナ・デ・アヴァンサーダ」や「ネリー・リチャード」と検索しても該当する結果ゼロか、スペイン語の結果しか出てこない状況である。しかし政治とアートの関係性を考える上でリチャード氏の論考はジャック・ランシエールやヴァルター・ベンヤミンに並んで非常に参考になるため、将来彼女の著書が日本語にもなることを期待したい。

今回の記事は彼女が執筆したFracturas de la memoria: Arte y pensamiento crítico (2007)とLo político en el arte: arte, política e instituciones(2009)を参考にしている。

ネリー・リチャード(Nelly Richard)
1948年フランス生まれ。1970年にチリに移民。チリ国籍。
パンテオン・ソルボンヌ大学卒業(現代文学)。チリ移民後はチリのエセナ・デ・アヴァンサーダというアートムーブメントと深く関わり、それを発信してきた第一人者として知られている。1990年にRevista de Crítica Culturalという雑誌を創刊し、2008年まで編集長を務めた。当誌ではポストコロニアル論やジェンダー論なども展開し、学者としての名を広めた。現在チリの首都サンティアゴのARCIS大学文化学学科のディレクターを務める。

時代背景

アルゼンチンの様に、チリもまた、独裁制という過去を持った国である。独裁制は、一人の独裁者がいなくなれば終わるものではなく、その時代の政策や風潮が色濃く残ることも多い。それは2019年に突如ラテンアメリカ各地で緊縮政策などを巡って勃発した市民の抗議活動にも現れている。チリの場合、独裁制時代が長かったこともあり、人々の間にはたくさんの記憶が共有されている。そのため、国が新たなネオリベ化の緊縮政策を発表すると同時に、一気に人々が立ち上がった。昔は声をあげることはできなかったけど、今はできる。そして、今声を上げないと、昔の様な独裁者がまた現れるのではないかという緊張感がある。

チリの独裁制は1973年に、民主的に選ばれたサルバドール・アジェンデ大統領が米国が背後についたクーデターによって追放されることで始まり、1990年まで、アウグスト・ピノチェト大統領の独裁の下、17年間も続いた。

私の友人の父親は彼女が生まれる前、チリでフォトジャーナリストとして活動していたが、ピノチェト政権捕らえられ、写真が撮れないようにシャッターを切る右手の人差し指を切断された。命の危険を感じ、拷問直後に彼はエクアドルに亡命した。こういう話を聞くと、この時代や出来事はそんなに昔のことではないのだと改めて実感する。

独裁制時代に生まれた2種類の政治的アート

(ここからがリチャードの論考になる)

チリの歴史において、アートと政治をは大きく分けて二つの方法が見られる。それは「アルテ・デ・コンプロミソ」と「アルテ・デ・ヴァングアルドディア」である。

アルテ・デ・コンプロミソ(arte de compromiso)は社会や政治と直接関わるアートである。コンプロミソやコンプロメティードは英語ではcommitmentやengagedと訳せるが、アルテ・デ・コンプロミソを北米などで知られる「ソーシャリーエンゲージドアート」と同系であると勘違いしてはならない。
アルテ・デ・ヴァングアルドディアarte de vanguardiaは直訳すると「前衛芸術」である。

アルテ・デ・コンプロミソ
アルテ・デ・コンプロミソ(またはアルテ・コンプロメティード)は60年代のラテンアメリカのイデオロギーに応答したアートであり、アーティストの基本的な姿勢は革命や民衆のために能力を活かすことであった。アートと民衆の距離を近づけようとする意図は70年代のEl pueblo tiene arte con Allende (アジェンデと民衆のアート)や Las 40 medidas de la Unidad Popular(ウニダド・ポプラールの40の対策)といった展覧会からも伺える。これら展覧会では、シルクスクリーンの普及のおかげでアートがより広範囲に、また民衆の身近に届くようになったことを利用した作品展開が目立つ。それまではエリート層にしかアクセスできなかった堅い「芸術」を、シルクスクリーンは「民主的」にし、芸術は誰もが参加し、国の歴史や政治を共有できるメディアになるという意識も広まった。

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"LAS 40 MEDIDAS DE LA UNIDAD POPULAR"(展示風景)
MUSEO DE ARTE CONTEMPORÁNEO, SANTIAGO DE CHILE, 1971.

マルクス主義に影響されたこの時代のアルテ・コンプロメティードの芸術観は「アートは社会を描写すべきもの」であった。アートはメッセージを届ける手段として機能し、民衆のために存在するものであった。つまり、アルテ・コンプロメティードのレトリックでは思想が何より優先され、作品はその思想を表すことが期待されていた。

しかし、70年代がこのアルテ・デ・コンプロミソ一色だったわけではない。ある作家たちの中では「(アルテ・デ・コンプロミソの)社会的責任の思想に過激とも言えるほどの従属性」と「芸術制作の自律性」というアートへの二つのアプローチの間に対立や摩擦を感じた者もいた。キューバ出身でチリに移住した画家のマリオ・カレーニョはこう言う:

革命的な絵画と、革命のための絵画がある。
革命的な絵画は芸術的言語を確立し、それによって絵画作品として独立することができる。一方、革命のための絵画は革命にとって有用、便利であるものを作家が制作することを意味する。

カレーニョの発言が表すのはアートを社会的文脈の中で革命手段として利用する姿勢と、アート自体を独立した分野として制作や作品について批評することの、一見した不両立である。

チリの60年代の政治アートは次の二つの仮定によって支えられていた:
1、社会責任を果たす知識人・知識層(アーティスト含む)
2、ラテンアメリカの完全性(または全体性)

社会運動の文脈で好まれていたのは、革命のために作品を通して政治的メッセージを伝えることだけではなく、アーティスト自身が社会秩序に関する議論を流通させ、それを予言的、知的、政治的、美的に覆す使命の担い手として自らの役割や立場を自己認識し、代表することだった。

しかし、労働者階級と共に闘う左派知識人としてのアーティスト像は時期に機能しなくなるのである。それは、以前は左派知識人が「我々」を代表して活動していたが、その「我々」を表す「真実」が少しずつ変化し、多様化したことで、もはや普遍的な「我々」としてまとめることが難しくなったからである。

それは60年代左派思想を支えた「大衆」「国民」の概念が衰退したことも関係している。60年代の政治知識層を圧していた「文化従属論」(cultural dependency)はあらゆる二分化された階層(ヒエラルキー)を前提として頼っていた。それは「第一世界/第三世界」「先進国/発展途上(または未発展)」「中心/周辺」と言った二分化である。これらカテゴリーは、それまでは固定された対立構造であったが、トランスナショナルな文化の市場やアイデンティティー、国、ルーツ、出身といった概念の「脱領土化」をきっかけに「純粋なラテンアメリカ」のアイデンティティーが問われるようになった。「大衆」は同一種の集団ではなく、今では様々な文化産業の介入によって混ざり合い、ハイブリッドな取引によって「不純」であると理解した方がいい。

こうしてアルテ・デ・コンプロミソを支えた「民衆」「革命」の二つのカテゴリーの威力は時代とともに失われていった。それは、いろんな戦いや活動が様々な属性によって具体的に分解され、複数ある社会グループの間では横断的な繋がりが生まれつつも、一つの集団として全体を代表しようという意思が少しずつ薄れていったからである。

アルテ・デ・ヴァングアルドディア(前衛芸術)

アルテ・デ・コンプロミソと違い、アルテ・デ・ヴァングアルドディアは社会変化をそのまま描写しようとはせず、美学的な行為そのもので社会秩序を乱すことを目的としていた。

しかしアルテ・デ・コンプロミソ同様、ヴァングアルドディアも危機を迎えていた。簡単に言ってしまうと、それまでヴァングアルドディアは美術館や「伝統」などに対して挑戦的な芸術行為をとっていたが、「社会そのものが『イメージ(画)』と化した」というフレドリック・ジェイムソンの指摘のように、広告やデザインによって日常生活が平凡に「美的化」されたことでヴァングアルドディア作家が求めた芸術と生活の開放が追求し辛くなった。つまり、ヴァングアルドディアが対抗する伝統的で堅い「美の秩序」がポストモダニズムによって崩れたため、ヴァングアルドディアの立ち位置があやふやになってしまった。

エセナ・デ・アヴァンサーダ

そんな中、チリの独裁時代に生まれた「ネオ・ヴァングアルドディア」がエセナ・デ・アヴァンサーダと言うアートシーンだった。ビジュアル・アート、文芸・詩、映像、批評など、分野の垣根を超えた集まりだったが、共通した意識はこの三つである:アートに政治性を与えること、ラディカルな手法、そして批評的な実験性。

アヴァンサーダの作品の特徴は身体と物理的空間(特に都市空間など)の利用だった。それは形として残る作品よりパフォーマンスとして現れることが多かった。それはこの時代の独裁政権の検閲を忍ぶためでもあったが、従来のアートの概念に対抗する意図もあった。

例えば見出し画像のロティ・ローセンフェルドの作品。これは道路のつなぎ目ごとに白いペンキで十字をひたすら描く行為であった。美術史家でキュレーターのアンドレア・ヒウンタはそれを政治的コントロールと繋げてこう語る:

ローセンフェルドが儀式的なジェスチャーのように繰り返しの屈んではアスファルトに十字印を描く行為は、独裁制の下での身体の犠牲的な状態と関連付けて読み取ることができる。
(出典:"The Iconographic Turn" by Andrea Giunta. Radical Women: Latin American Art 1960-1985、展覧会カタログ、ハマー美術館)

アルテ・コンプロメティードは左派運動のメッセージや思想を発信する媒体として機能していたのに対し(それを「イラストレーション」と位置付ける見方もある)、アヴァンサーダは方法論、発表の仕方、空間や身体の利用などを通して政治性を訴え、歴史を紡いでいた。そのため、「公式な歴史」を提示する権力から抑圧されるのはもちろんのこと、アルテ・コンプロメティードのような社会的有用性をアートに求めていた、いわゆる「伝統的な左派運動」からも拒絶されていた。

権力側が残そうとする「公式な歴史」も、それに抗う伝統的左派が主張する「民衆の歴史」も、結局のところはそれらが主張する「たった一つの真実」への共感を強要している。そんな中、アヴァンサーダは完全とされるどちらの「真実」とも距離を置き、独裁主義が引き起こしたあらゆる矛盾と破壊された時間の概念を、批判性を持って表現しようとしていたのである。

アヴァンサーダと国際シーン

アヴァンサーダは独裁国家の検閲を回避するために、作品に使う記号などに何重もの意味を重ね合わ、ハイパーコード化せていた。また、記号を複雑化することは検閲対策だけではなく、権力や伝統的な左派の思想がその記号に与える覇権的な意味に抵抗するためでもあった。

この記号のハイパーコード化戦略は複雑な状況を招いた。独裁国家の検閲をくぐり抜けることができたものの、主流の左派運動からは、読解しにくい記号を使った作品は「連帯性」を妨げると批判され、アヴァンサーダは文化サーキットに疎外さる結果となった。

また、国際サーキットではアヴァンサーダのハイパーコード化された記号使いは受容されなかった。なぜなら、チリ国外の美術館などではチリ国家の検閲はもちろんないため、チリ国外の観者にとっては記号のハイパーコード化は不要で混乱を招いた。そのため、アヴァンサーダの作品は「普遍的」な解読を妨げるとして、記号の複雑さを解くよう、作家たちは頼まれた。

国際的なアート界からのこう言った要請はアヴァンサーダの作家たちにとっては新たな「検閲」となった。記号の意味を単純化することは、作品の持つ意味や言語を消すことであり、記号の複雑化を通しての権力への抵抗が無効化されることであったからだ。

今日の芸術においての政治性・批判性とは?

アヴァンサーダの芸術は政治的批判性(político-crítico)が重要だった。それは、

権力と思想的および文化的支配のネットワークに抵抗し、覇権的システムの隙間に意味を生成する芸術であった。アヴァンサーダの芸術は社会的批判と実験的な記号やコンセプトを混ぜ合わせ、芸術言語の認識を新しくした。

いまは独裁制時代からだいぶ社会も変わったことは言うまでもない。特に90年代からは民主主義とともに社会や政治の領域では「総意」という概念が主流となり、結果としてそれまではっきりと存在した「禁止されたもの」と「それに挑戦・対抗するもの」の境界線が薄れていった一方で、市場(マーケット)が新たな権力となり、様々な活動を規制するようになった。アート界に至っては、この頃から商業化が本格化し始め、ギャラリーのネットワークや新しいキュレーションの傾向によって国際化も進んだ。

アヴァンサーダのアーティストたちが活動していた時代よりも、芸術は分野ごとに確立されると同時に、それぞれのアカデミックな専門化が進んだと言える。そして、芸術理論や批評の確立、つまり芸術分野の自律性や専門化・標準化によって、アートが広範囲の社会的文脈に介入する威力を失いつつあった。

では今日の芸術における政治的批判性とはなんだろうか?

今はもう作品自体が決まった方法や行動によって政治性や批判性を持つとは言えない。政治的・批判的であるかどうかは、その作品が置かれる社会的文脈での戦略や物質性によるのである。だからニューヨークやカッセルで政治的批判とされるものはチリのサンティアゴで同じ効果や意味を持つとは限らず、逆も然りである。政治性や批判性というのは具体的な関係性を基に境界線や限界に挑戦することである。そこから権力や「社会的総意」が処方する中心性を揺るがしたり分権化するのである。

これまでは、批判性には批判の対象との「距離」が必要であるとされてきた。しかし今では資本主義システムの外側で存在すること、距離を置くことなどは不可能である。では、アートはそのシステムの内側にありながらも、社会経済的側面から切り離され、批判する力はもはやないのだろうか?そうとは限らない。グローバル化された経済から免れることはなくとも、そのロジックには矛盾や隙間があり、それを見逃さなければ、このシステムに反抗することは可能である。

ここで二つの概念をはっきりさせたい。それは「アートと政治」と「アートにおける政治性」だ。言葉にすると似ているようだが、その違いは重要である。

「アートと政治」はアートと政治は外部性の関係であると認識している。ここでは、アートは「文化」というカテゴリーの中の一部であり、政治は「歴史的・社会的全体性」を示す。アートはこの全体性と対話する形で政治と関わる。アルテ・コンプロメティードのように、そこには具体的な社会テーマをアート表現によって具現化させる工程がある。

「アートにおける政治性」とは、作品の内部で独自の意味の組織やメディアのレトリックから、その環境を批判的に考察することである。「アートと政治」が持つ定められた関係性を拒絶し、芸術と社会を仲介する記号の操作と技術に表現力を注ぐことである。

「アートにおける政治性」はメディアのグローバル化によって商業化されたイメージや表象を問う批判的な力のことである。アヴァンサーダの批判性は物事の隅や外側、境界線やボーダーを権力、従属性、分離などに置き換えて、鋭く切り込んでいた。その「権力」とは、独裁制だけではなく、「正典」(キャノン)とされる、アート界の構造の中心に対しての批判でもあった。アヴァンサーダの作品はポストモダニズムの理論とうまく相まったこともあり、チリでは当時まだ珍しかった形で、文化も政治も取り込んで批判し、統制を揺るがそうとした芸術を生み出していた。

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