植草歩選手のパワハラ問題から考える、空手という武道の未来
オリンピック選手がパワハラを受けるというショッキングなニュース
東京オリンピックの空手女子組手の代表である植草歩選手が、恩師である香川政夫師範(ナショナルチームの強化委員長)からパワーハラスメントを受けたとして告発するという、ショッキングなニュースが世間を騒がせています。
告発の内容はザックリまとめると以下の通りになります。
・竹刀による攻撃をかわしながら反撃するという稽古で、竹刀が植草選手の顔面を直撃
・左眼付近は以前に骨折した箇所で、現在も治療時プレートが埋め込まれており、医師からは再度負傷すると失明の可能性もあると言われていた
・竹刀が直撃した事による激痛でその場で動けなくなる程だったが、それに対する治療やケアの言葉は無かった
・その後も謝罪は無く、ナショナルチームコーチに「竹刀での稽古をやめて欲しい」と伝えるも、竹刀での稽古が続けられた
また、竹刀での稽古以外についても
・練習環境やその他プライベートの事で、自立心・自尊心を傷つけられたり、大声で怒鳴られたりした
・師範と顔を合わせる事も辛くなり、精神的に追い詰められたような状態になっていた
と、ブログに綴っています。
告発を受けて、全日本空手道連盟(全空連)の倫理委員会による植草選手と香川師範への聴取が行われました。
「竹刀が顔面を直撃した」という事実は認定されましたが、その他の部分で大きく食い違いがあるらしく、全空連による再度の聴取が行われる予定となっている他、帝京大学(植草選手の活動拠点であり、今回の事件もここで発生)による内部調査委員会も発足して、原因究明に当たるとの事です。
空手界の現状
両者の主張が食い違っている、そして香川師範の主張が公表されていないため、これ以上の詳細は聴取・調査の結果待ちとなっていますが、「竹刀で顔面を突いた」という事実は、世間を大きく騒がせています。
その一方、一部の空手界の人間(特に香川師範から指導を受けた門下生)からは、以下のような声も聞こえています。
「昔からそのぐらいのしごきはあった」
「空手はスポーツではなくて武道だから、そのぐらいは当たり前」
「強くなるためにはそのぐらい厳しい稽古が必要だ」
「今までお世話になった香川先生や空手への感謝の気持ちがあるのなら、こんな告発はできない」
※SNSなどで出た極端なコメントを要約しています
これらの意見について、多くの方が「パワハラする側の常套句」や「ブラック企業と同じ」、そして「いつの時代の話だ」と感じるのではないでしょうか。
残念な事に、一部ですがこんな主張を繰り広げる人間が、空手界にいるのが現実です。
繰り返しになりますが、もちろんごく一部の人間の極端な主張です。
ですが、こういった「一般的な感性の欠如」や「現代社会の常識との乖離」が、空手界では未だに見受けられます。
昨今、スポーツ界ではパワハラや暴力的な指導への問題意識が急激に上昇し(世界と比べると日本の事情は遅れてはいますが)、そのような問題を徹底的に排除する方向に動いています。
それでは、何故空手界ではそれと逆行するような意見や主張が未だに残っているのか、自分なりの考えを述べていきたいと思います。
スポーツと武道
そもそもの前提として、スポーツとは何なのでしょうか?
辞書で調べると、スポーツとは「楽しみを求めたり、勝敗を競ったりする目的で行われる身体運動の総称」とあります。
もっと語義や歴史的な原点に立ち返れば、「体を動かすゲームに興じ、それを楽しむ事」であり、そもそも勝敗は副次的なものです。
先ほど、「世界と比べると日本の事情は遅れている」と書きましたが、何故遅れているかと言えば、日本のスポーツ教育はスポーツの定義の中の「楽しむ」という部分が著しく欠如していたためです。
日本に西洋的なスポーツが入ってきたのは、明治の初期と言われています。
そして学校教育に取り入れられたスポーツ(特に野球)は、各学校対抗で勝敗を競う形となり、「学校の名誉のため」という目的のもとで勝敗に強く拘る様になっていきました。
このように、勝つ事を至上命題とする考え方を「勝利至上主義」と呼び、最近でも高校野球などで問題視される場合がそれなりにあります。
また、当時の「富国強兵」の一環としてスポーツが奨励されたことも強く影響しています。
つまり、「名誉のため」「国のため」に強くある事が求められ、指導する側は盲目的に厳しい指導を行い、指導を受ける側もそれを耐え忍び受け入れるような形だった訳です。
「〇〇のため」という大義があると、人間の感覚は簡単に麻痺してしまい、何の疑いもなく非人道的な行為もできてしまいます。
「わが校の勝利のために」もっと厳しい指導を、「国のために」若者を強く育てる必要があるのでもっと厳しい指導を。
そして「君たちのために」厳しい指導をしているんだという大義があれば、その厳しさは際限なく加速していき、指導を受ける側の苦しみなどは全く目に入りません。
これが、先ほど指摘した「楽しむという部分の欠如」となります。
それでは、一方の武道はどうだったのでしょうか。
「武道」という言葉は、明治以降の近代スポーツ流入とほぼ同時期に発生したというか、それまで「武術」だったものが学校教育に組み込まれる流れの中で「武道」という形でまとまったものです(かなり大雑把に説明しています)。
柔術は柔道へ、剣術は剣道へ、そして琉球から伝わってきた唐手(さらに古くは「手」と呼称)は空手道へと、その名を変えていきました。
「武道」の「道」という文字がどこから来たのかと言えば、それは「武士道」という言葉からでしょう。
「仁義」や「忠義」を重んじる武士道という思想は、当時の富国強兵という考え方には恐ろしく合致します。
そして、武術・武芸の流れの直系であった武道には、やはりその武士道的な思想が強く顕現していたと言えるでしょう。
そして他のスポーツと同様に勝敗に強く拘る流れの中で、スポーツとは呼べない厳しい指導が常態化した訳です。
現代の空手
説明が長くなりましたが、話を空手に戻しましょう。
現代の空手(流派や試合形式を問わず)は、一部の人間からは「スポーツ空手」や「競技空手」と揶揄される事があります。
「実際に当てない寸止めなんて武道とは呼べないよ」
「極真だってフルコンタクトとは言うけど、顔面への突きは禁止じゃん」
「防具付きルールなんて、動きが違いすぎるし実践的じゃないよ」
そして、こんな事を言う人がいます。
「現在の形骸化した競技空手ではなく、昔の空手が本物の空手だ」
ある意味では現在の空手の真理と問題点を突く意見ですが、一旦その是非は置いておきます。
ただ、この言葉、前述の香川師範を擁護する発言ととても似ていませんか?
どちらも「自分たちが経験した、昔ながらの厳しい稽古が正しいんだ」という考えが透けて見えませんか?
現代社会に於いて、スポーツに対する考え方や暴力に対する価値観、もっと言えば一般社会の人権に対する考え方は、昔と比べて大きく変化してきています。
競技者の事を第一に考える「プレイヤーズ・ファースト」の考えも少しずつですが認知されてきていますし、人権を脅かす暴力やハラスメントは厳しく排除されるようになってきているのです。
スポーツや武道で結果を残すためには、厳しい鍛錬と言うのは避けて通れないものなのは、事実だとは思います。
それでも、「厳しい鍛錬」と「危険な行為や人権侵害的な指導」は全くの別物です。
現代社会においては「過度なしごき」や「大きな危険を伴う指導法」はNGであり、ましてや暴力やハラスメントはあってはならないのです。
そのような指導や人権を脅かすような行為をする人間は、残念ながら現代社会に対応できていない古い考えの持ち主だと、断言せざるを得ません。
「昔ながらの厳しい稽古」は、だだの人権侵害へと価値を変えてしまっている事に、気が付かなければいけないのです。
空手の未来
植草選手と香川師範の問題がどうなるのかは、というか事実関係がどうなっているのかは、現段階(4/4時点)では正直言って分かりません。
植草選手が誇張して話をしている可能性もあれば、香川師範が常にパワハラ的な指導を行っていた可能性もありますし、植草選手に過度に期待するあまり歯止めが利かなくなっていたような可能性もあります。
とにかく、公正に事実関係が調べられ、そして判断されることを願っています。
さきほど「昔ながらの空手」という言葉が出ましたが、武道になる以前の空手を更にたどると、琉球の唐手(手)にたどり着きます。
そして、琉球時代の「手」には試合などはなく、ただひたすら己の研鑽の為に稽古を積んでいたようです。
その流れは、現在も「琉球空手」や「沖縄空手」と呼ばれる流派に残っています。
もちろん、現代スポーツ的な意味合いを持った試合も意義深いものですし、空手の普及には「スポーツ化」が大きく寄与したのは紛れもない事実です。
自分も、試合は型も組手も楽しかったですし、大会に向けて必死で稽古したのはいい思い出です。
空手に真剣に取り組んだ経験は、本当に貴重な財産になっています。
なので、「琉球の時代に立ち返って、試合をしなければいい」とは言いません。
ただ、それぞれの人間が「自分のために」稽古が出来たらいいなと思います。
「組手試合で勝ちたい」
「型の奥深さを追求したい」
「楽しく体を動かしたい」
「健康を維持したい」
空手の楽しみ方は色々あると思いますが、目的は人それぞれでいいんです。
稽古を通じてその人の人生を充実させる事こそが、空手の本当の価値なのだと思います。
それだけの力が空手にはあると、信じています。
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