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趣味の歴史感想文!(データなんかいらね!w 感想だからね!www

「姫は、博多が好きですが、理由があるのですか?」

「博多の街は、古い!京都、奈良、あたりより遥かな古代から、人とモノの流れを担うこの島国の入り口の一つだったからね!」

「伊勢の安濃津、鹿児島の坊津(ぼうのつ)と並び、日本古代三津の一つ、博多津(那珂川の河口にあった那津(なのつ)と同じと推定されるね!)以来の伝統があり、街にもそこはかとなく、多国籍性があるとこかな?」

「ああ、古代から、様々な人がいろいろな文物をもって往来を繰り返してきたような匂いが古代から染み付いていますね、確かに。」

「そうそう、現代的な浮ついた感じでなく、街に染み付いた多国籍性と言うかね。そういった歴史好きには感じられる匂いがあるね!」

「街並みに、古い寺などが埋め込まれるように入っているし、その寺も、時代による伽藍の違いなど御構い無しに、街の中に、点在している。」

「はいはい、古い街ほど、分離していない特徴が感じられますね!博多はさすがって感じられる街並みが多いですね!空港や大学なども街中にあって、バブル期以降に浮かれて移転した諸々とは、見識の違いを見せていますよね!」

「麻生財閥のように、古代、藤原氏に端を発するしっかりとした文化、文明の基礎を持っているね。原発政策などでも時流に浮かれたところがなく、言うべきことはしっかりと言う!」

「福岡大学などいいところにあるし、付属の大濠高校などは、文武両道で、バスケやラグビーなども強いですね!w」

「そうだね。文化施設の郊外移転は良いことがない。文化は街から生まれ、街で洗練されるのでね。」

「そう言う意味では、寺や神社なども、昔ほど、街に必要な機能を果たしていたからね。時代が下るに連れて、例えば、寺や神社仏閣などは、ただの観光用の施設になっていくから、街の中から消えて、少し鄙(ひな)にまとめられていくね。」

「博多は、西日本の玄関であり中心ですね。」

「だが、日本には、中央から東側には別の玄関口もあったね。」

「姫の好きな、新羅、伽耶関係ですかね!?」

「そうそう、坊津、那津が、西の方からの玄関口なら、敦賀あたりには、北側からの道があったはずだよね!」

「そうですね。古代の貴人としては、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)なども出てくるが、日本書紀ではあまり良い方に書かれていないね。それは、でも、妾の記事を読んでくれている人たちなら、理由はわかるよね!」



「今でも、気比神宮や角鹿(つぬが)神社もあり、これらを含む、山陰、北陸、越(こし)地域はもともとの現天皇家のお膝元の一つであったはずだね!」

「実際、応神王朝が、倭の5王の最後、”武”の時代後、後嗣が堪えそうになった時、応神の5代の孫といって、北陸にいた(『日本書紀』では男大迹王、『古事記』では袁本杼命と書かれている)”継体天皇”を連れてきて天皇に仕立てた時のお話は、古代史好きには有名すぎるね!」

「これは、日本書紀では、特にさらっとしか触れていないのが返って、おかしい。藤原不比等はあまり、触れたくなかったんだろうけど、あまりにも有名でごまかせなかったんだろうね。でも、さらっとしか、触れていないせいで、返って、古代史家や歴史好きのアマチュアの興味を掻き立てる結果になっている。山陰、北陸、越あたりの勢力が、尾張あたりまでおりてきた後、西に行った勢力の大いなるものが、中国地方や畿内の連中を従えて、まとめたのが大和朝廷の原型だろう。しかし、博多を中心とする西の勢力も非常に大きかったと思うんだ。」

「やはり、乙巳の変(大化の改新)があったのが大きいですね。この時、日本の歴史がひっくり返るんですね!文字通り、”クーデター”だったんですよね。」

「大陸や半島の歴史とこの島国の歴史は、古代から8、9世紀くらいまでは切り離して考えられないですよね。もともと、西の「馬韓ー百済」地域は、大陸側の勢力と近く、箕子朝鮮なども、殷(商)の箕子さまが作ったもので、彼らの目は、常に、中原の国に向いており、半島でも南東部やそこから、その先の海を越えた島々など眼中になかったと思うんだよね!むしろこの辺りはまつろわぬものたちの跋扈する”汚い”地域で、罪人や大戦の後、大陸中央から逃げてきた部族、小隊の敗戦兵たちを”首都所払い”(百済の王都の近くからは出て行かせて、半島南東部へ放逐するようなことが行われていたことは中国や韓半島国家の正式な歴史書の記録にもある)を繰り返していたから、それでも、それはそれで、新羅や新羅系伽耶地域にももともと住んでいたものたちや前の時代に来ざるを得なくてきてしばらく住んでいるものたちもいるから、それら同士、諍いもあって、さらに海を超えたものもいたように思う。」

「新羅系伽耶、昔、任那と呼ばれていた地域には、”倭人”が住んでいた、と中国の歴史書、魏志などにも記述があるね。前にも、触れたが、海峡を自分たちの”勢力圏”として、海産物を取ったり、海峡を通る他の民族・部族の船から通行料をとったり、言うこと聞かない奴らからは襲って強奪したりするのは、ヒトの歴史では、古今東西、どこにでもあったことで、古代では強大勢力の一つであったね。新羅に追い落とされることになる滅亡国家、百済側からの国王の親戚:豊璋ら落人一族の藤原氏が日本書紀の製作者であることを忘れてはいけないくて、その意図的な誤記述だと思うけど、任那が倭に征服されたとか、そう言うことではなく、”海の国家”と言うのは、元々、両岸を支配し、海峡を通る異部族たちを挟み撃ちしなければ成り立たない。同時期に、半島内陸部や大陸部とは異なる部族たちが、両側に蟠踞していたと思うね。」

「イギリスも、今の王家に繋がるウイリアム征服王(1066年に今のイングランドの歴史を開始した。イングランドはこの時を今の国家の開闢としていて、それ以前は、イングランドの自国史としては扱わない!)は、ノルマンディー公を兼ねるギヨーム2世と同一人物で、これは、ノルマン人の海賊王ロロの子孫であることがはっきりしている。日本の天皇家も、元々、日本海の対馬海峡あたりを根城にした新羅系伽耶と山陰、北陸、越地域を根城にしていた”海の民、兼、海賊”ではなかったかと思うね。古代では、海賊は本当に強かった。その一派が山に入ってゆき、諏訪から尾張へと出たんだと思う。そこで、さらに東へ行った連中と西に行って、大和朝廷を作る奴らに分離していく。ただし、ヤマトへ行った連中は、そこで、別ルートからの強力な勢力と出会うことになる。それが博多あたりから、瀬戸内海を通って、ヤマトへきていた連中だと思うね。海を豊かにするのは山なので、海の民は、その一族のうち有志を募って、近くの山側に入っていくのは良くあることだしね。」

「聖書でも、紀元前4000年前後くらいから、系列不明の”海の民”と言うのがシナイ半島からアラビア、さらには小アジアまで襲っていますね!ヒッタイトなんて、鉄の生産・管理に長けた強国も、この”海の民”にヤラれて弱体化し、滅んでいく。」

「そう考えると、イギリスと日本は本当に似ている。大陸の東西の端っこという、類似の島環境で、似たような王族が成立したんだと考えると面白いね!www ただ、イギリスは、1066年と比較的新しい時代に起こったので、割と正確に記述された正史が残っているが、日本は古すぎて残っていない。その上、乙巳の変(大化の改新)があり、それ以前の歴史のうち、藤原氏ー百済王家に都合の悪いところは、日本書紀からは改変されたり、意図的に脱落させられたりしている。出雲王朝など有名だが、正式な史学会では、ずっと、神話の夢物語として、相手にされていなかった!しかし、梅原猛さんなど、京都学派の重鎮も最晩年は、出雲王朝の存在を、考古学的な出土品から認めざるを得なくなり、論考を本にまとめて出版されているね。」



「それでも江戸時代までは、敦賀は福井の主要の街として、家康は親藩:松平氏を配置して、そのあたりの地域の抑えをしっかりとしてるね。」

「幕末の4賢公の一人、福井藩藩主、松平春獄は有名ですね。幕府にもモノが言える藩であり続けたのは、古代からの主要地に配された親藩だった影響もあるね。」

「しかし、特に、第二次大戦後、東京から太平洋に向かって開けて行って、日本海側はどんどん寂れる結果になったね。日本自体を後世から見る立場からは残念な気もしますね。」

「この稿は、実は、こないだあった”ブラタモリ”(敦賀の回)を見て、思い立って書いているんだけど:

お題;”すべての道は敦賀に通ず?”なら、もう少し、古代の話にも突っ込んだところが欲しかったなぁ・・・。」

「特に、韓半島との関係は、難しいですよね。ブラタモリでも、渤海には触れていたけど、それ以前の新羅や百済、新羅系伽耶、延いては、高句麗などの中国東北部の異民族国家には触れていませんでしたね!」

「妾のように歴史にしっかりとした興味あるものの共通認識としては、大陸の中原帝国国家とそれを取り巻く辺境の国々とは、常に一種の緊張があるし、また、あったほうがいい。どこかが抜け駆けのようなことをすると、そこからつけ込まれて、周辺国家群が結局、滅んでいくね!www」

「緊張が良い意味での競争のドライビングフォースであることが大事ですね!」

「今は、ちょっとバランスが崩れているように感じるね。いつも言っているけど、歴史、歴史いうなら、キチンと歴史に学んで欲しいね!宗教的原理主義国家間の争いなどに口出ししても、全く得られるものはないよwww」




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