見出し画像

イマに戻ると消えちゃうもの

どこまでいっても自我(エゴ)とやらは不安を投げ付けてくる。面白いなあと思う。

本当にすばしっこくて回転が速くてずるがしっこい。ほんの数ミリの隙間を見つければ見逃す事なくジャジャジャーンと現れる。

そして「こうなったら大変よ?」「ああなっちゃうかもしれない」「これは良くないんじゃないのかなー」とまあ矢継ぎ早に次から次へと絶え間なくアリガタイ言葉が頭のなかを巡りめぐる。

気が付くとその自我サンの言葉の渦に巻き込まれていて、身体も萎縮し「それは大変だ」と不安や焦りや恐れといった感情がここぞ出番と我先に現れてくる。

何なのかねぇー? 君たちは。
やたら楽しそうだけど。

「いやいや、これが仕事なんで。」と大義をかざして居座ろうとするけれど。
君たちのそのアリガタイお言葉は、どこに根拠があるのかねぇ。全部「今までこうだったから」とか「前はこうなった」とか、そんな過去の記憶からしか取り出せてないよね?
そしてそれを元に「だからこうなるかも」と未来予想をしてくれてるんだよね?

で、それって『いま』起きてる事じゃーないよね? あくまでこの先「こうなるかも」と言ってるだけだよね?
じゃあ、どうなるかなんて分からないじゃん。
私がいま飲んでるこのお茶、この後こぼすかもしれないしこぼさないかもしれない。以前こぼしたことがあったかもしれないけど、この後同じようにこぼすかなんて分からないじゃない。分からない事あれこれgoodアドバイスかのように言葉貰っても、アリガタメイワクなんだよなぁ。


その時『いま』起きている事は、
「こうなるかも」という"思考"が湧いて来た、ということだけ。

それだけなんだよなー。

それだけなんだけど、ニンゲンどうしてもそのままそのお話しにズルズルと巻き込まれちゃう。「時間が過去から未来へ流れている」と感じてるから。身に付いちゃってる習慣ね。

あちらこちらで話されてる事だけれども、「過去」は以前こうだったという"記憶(思考)"だし、「未来」はその過去の記憶や経験をもとに予想されてるように感じる"思い(思考)"でしかなく。

そして「過去の記憶」という思考が『いま』現れていて、「未来予想」という思考が『いま』現れてる。どちらもその思考をとらえられるのは『いま』しかなくて。
いま、その思考が湧いて来た、というのがその時起きている全部であって、過去にトラベルしたわけでも未来に飛んでったわけでもない。

まあ思考サンのお仕事だからどんな思考でも湧いてくるけれども、そこにずーっと巻き込まれているかどうかは、練習でやわらぐことは出来るんじゃないのかなあと感じる。

『いま』に戻る練習。そして常に『いま』しかないと見抜くこと。まー、これも自我サンがものすごーくジタバタするだろうけれども。
自我が提供してくれるあれこれの「こうなっちゃうかもよ?」は、『いま』は起きてない。起きてないのだけど、それを思うことで不安になったりする。起きてないのにね。起きるかどうかも分からないのにね。でも、反応しちゃう。

だから、「不安」みたいなのが取り巻いた時、いったん立ち止まって「これは『いま』起きてる事なのか?」とちょろっとでいいから問いかけられるようになれば、少しは楽かなーと思う。

無かったことにする、のとはまたちょっと違って。「不安」が出てきた、というのは確認して、その上でその不安の元となっている「こうなるかも」は、イマ起きてはいないよね?って事で。


面白いのは、よろしかろうと感じてる事にすら自我サンは物申してくることで。もう防衛反応機能炸裂ね。

真ん中。ジブンの真ん中を安定させる。
ジブンの安心ゾーンを深める。思考ではなく、「ああこれでいいんだな」という直感的なもの。理由をつけられないところ。

思考は全くワルくはないけれども、「自分が考えている」という自我、「自分が」を外してみる。思考は湧いては消えていくもの。「自分が」を外せば、「何かを考えている(た)」で終わる。そして消えていく。

その時の『いま』起こっていたのは、思考が湧いて来た、ということだけ。
自分が考えたと言うのならば、自分のどこからその考えが作り出されたのか探してみればいいし、自分が考えを作り出しているならば、わざわざ不安やらを作らないんじゃないのかしらん。

自我(エゴ)やらはなくなるものではないのだから、ちょっと距離を置いて「今日もよく働いてるねぇー、ご苦労さん!」くらいにお付き合いするのがちょうどいい。


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。