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そこに含まれているもの

出先でバス待ちしていたら 停留所前の高校が卒業式だったらしく辺りがとても賑やか
花やプレゼントを持った子 写真撮っている親子 楽し気に友達と話している皆々
なんだろう 全体にやわらかい
今の子たちの雰囲気なのかな よく分からないけれど それにしても最近のお子たちはみんな何でこんなに美しいんだろう 色々頑張っているとかそういったものを外したとしても 素地がみんな美しい
もう帰る時刻だったみたいだけど みんなキラキラしてて朗らかでやわらかくて 見ていてとっても気持ちよかった 卒業おめでとう



ひょんな流れで聴力検査をしたのだけれど 私的にはまーったく意図してなかった事で必要にも迫まられてたわけでもなく まあでもせっかくだからと受けたのだけれど
色々お話しする中で引っかかるというか興味アンテナ立ったものがあって 『日本語は母音だから低音で英語などは子音で高音』というもの

話の流れ的には だから高音が聞き取りにくくなる海外の方が補聴器つける年齢も早く器具も進んでいて日本はそういった意味では(器具など)遅れている という事だったのだけど

”日本語”に昔から興味ある私としては『日本語は母音だから低音で英語などは子音で高音』という説明にへぇ~と聞き入っていたのだけど 家に帰って来てから これは何かのキーワードか と何となく思い



多分今すぐ繋がるものではなくてもう少し先かもしれないけれど そのうち何かと繋がって点と点が線になるパターンかなと感じていて 聴力検査受ける流れになったのも 聴力ウンヌンではなくて この事聞くためだったかと

あそこで「いや今必要ないですから」と断っていたらこの話は聞けなかったわけで こうやってどこからどう置き土産が飛んで来るか分からないから面白い
だってまさか聴力検査で日本語母音と音質の話になるとは思わんでしょ

こういうのが結構あるので 自分が意図してなくてその場の流れでそうなって来た物事は 心の拒否反応が起きない限りなるべく受けるようにしている

私の心が拒否反応起こすときは 相手に作為がある場合が多いので その匂いがした時は速やかにその場を去っちゃう 
心の拒否反応と違和感は違うから 違和感の時はその根本は何だろうと観てみるけれど 拒否反応は私の場合は本能的なアンテナみたいなもの
最近はもう周りにそういった人たちも居ないから 初めましての場所とか一見さんとのやりとりとかそんな場面でしか起こらない



いまは誰かと何かを話すとき
その言葉そのものよりも
その背後にあるものが
透けて見えてくるようで
瞬間ジャッジしそうになっても
直ぐに ああそうか だからか と
理解が訪れます

この変化は
日を追うごと 会話をするほどに
速く深くなっていくようです

どうしても習慣で無意識に
言葉そのものを掴んでしまいやすいので
言葉を聞いているというよりも
言葉のオトに重心を置く感じで
意識的に聞いていると
その言葉のオトが響いて
じぶんの中のアンテナに教えてくれます

頭や耳で聞いているのではなく
耳は傾けるけれど
ハートで聴いているようなそんな感じです



理解しようと思わなくても
理解は自然に訪れるようです

知識として得る情報と
理解とはべつものです

記憶力がよければ
知識は増えるでしょうが
それがイコール理解とは限りません

知っているからといって
いったいそれが何になるのでしょう

今までは知識を得ることで
多少の優越が生まれていたかもしれませんが
もうそれが通用しないので
知ったつもりになっていただけと
見抜かれることになります



じぶんを開けばひらくほど
理解はし易くなります

それは
じぶんを理解することにも
つながります

いちばん理解しなければならないのは
いちばん近くて
いちばん見えない
じぶんなのかもしれません

そして
自分で自分は分からないので
誰かがいてくれます

あなたがいてくれるから
わたしがわかります



やがて
あなたにも わたしにも
ああそうか という
気づきが訪れます


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。