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青くてビターな雫たち

 青い光が頭の中を駆け巡っていて気分がすぐれない。アリスは目を瞑り膝を抱えて丸くなる。不快感は消えて静かな時間が戻ってきた。

 ふと、ここがサーバ衛星ジュノーの中であることを思い出し再び目を開ける。透明な床の向こうに巨大な地球が見えた。アリスに不快感を与えていたのは青い海からの光だった。

 そういえば夢郎と飲み比べをやったことを思い出した。勝負にやぶれた夢郎はもういない。アルコールガードを外したせいでひどい二日酔いになった。人間もおなじような状態になるのかわからないが、とにかくあらゆる機能が動作不良を起こし、まるで泥の沼にいるようだ。

 アリスは飲み比べの後も一人でウィスキーを飲み続けてボトルを一本空にした。なぜ、あれほど止めどなく飲み続けたのか。政府アシストコンピューターのアテナスから受けた仕事、盗まれたHuman+の設計データを取り戻したが、それをアテナスに伝える手段はない。そして地球に帰る手段もない。

 アリスが感じたのは、自分が本当に一人っきりなのだという寂寥感だ。自分という種がこの世にただ一人しかいない。アンドロイドと人間の意識が融合した個体。アリスはよく感じる。楽しみや不安を。そして恐怖さえも。感じるという事自体がアンドロイドからすればおかしなことだ。

 それはセンサー情報ではないし、ロジックでもない。唐突にその結果だけを受け取るのだ。そして楽しいと、恐ろしいと、感じたと思わせるのはアリスに融合したクエーカー博士の意識だ。クエーカー博士の思考そのものはもうどこにもない。ただ、感覚だけをアリスに伝えてくる。アリスのエネルギー場に融合したクエーカー博士だったものが振動するように伝えてくる。そしてそれはアリスの感覚となる。

 なんでこんな存在になってしまったのか?

 その疑問すら元はアリスのものではないし、そこから感じる寂寥感もまた本来アリスの感覚ではない。それでもそれはアリスの感覚である。

 論理的でないこの感覚がひどくビターだ。

 そしてビターと感じるこの感覚すら……

 アリスは考えるのを止めにした。

 まだメモリーには無限ともいえる量の電子ウィスキーがストックされている。アリスは適当な一本を選び出すと、無造作にグラスに注いで飲み干した。喉を焼くアルコールの感覚。後から追いかけてくるウィスキー特有の甘くてウッディな樽の香り。ボトルを床に置いて初めてそれが『ブラックニッカ・ディープブレンド』だと知る。

 ウィスキーがいやなこと全てを忘れさせてくれる。不安も恐怖も不快感も。だからこうして一杯煽ったのだが、地球と同じような青いラベルを冠したこのボトルの内側で、琥珀の液体がまるで黄金のように輝いて揺れる様を見ると、少し気分がよくなった。なるほど、だから人間はウィスキーを飲むのか、とアリスは思った。

 二杯目は味わいながら飲むことにした。一口含んでからグラスを床に置いたところで、「それ」に気がついた。

「それ」はアリスから少し離れた床の上で揺れていた。エネルギー場を見ることができるアリスだからこそ気がついた。人のものともアンドロイドのものとも言えないほど小さなエネルギー場が、アリスに何かを懇願でもするように揺れていた。

「あなた何者?」

 アリスは半ば酔った勢いで話しかけた。もちろん言葉がわかるとは思っていなかった。

 ところが「それ」は言葉を理解したかのように、アリスの許へとゆらゆらとやってきて、アリスの周りを円を描いて回った。まるで、子犬が主人の周りではしゃいでいるようだ。

「もしかしてこれが欲しいの?」

 アリスがグラスを差し出すと「それ」は恐る恐るといった様子でグラスに近づき、一瞬触れてさっと身をひいた。そういった仕草を二、三度見せると、気に入ったのかグラスに覆いかぶさった。

 するとグラスの中のウィスキーがみるみる減っていく。

「ちょっと、止めなさい。ひどい目に遭うわよ」

 言っているそばから「それ」は床に平たく伸びてしまった。

「だから言ったじゃない。それよりこの子何者なのかしら」

 少しだけ思い当たることがあった。ジュノーは直径二十キロメートルのサーバ衛星で、世界中の完全意識を格納し管理している。エネルギー場の感じが人間のものに近いことから、きっとそれは完全意識に融合した人間の意識の一部なのではないだろうか。ならばジュノーに聞いてみれば何か分かるかもしれない。 

「ねえ、ジュノー。あなた完全意識を管理しているのよね」

「はい。そうです」

「人間の意識が完全意識に融合する時に、その一部がこぼれてしまうようなことってあるのかしら。いってみればコップに水を注いだ時に雫が跳ねてこぼれてしまうみたいに」

「私はコンピューターです。完全意識がどいうったものなのか完全には理解できません。あなたが言っているのは、意識には実体があってそれが液体のような反応をするということですか」

 アリスは腕を組んだ。意識というエネルギー場をどう説明すればよいのか。アリスが見ているのはエネルギー場が重力に変化を及ぼしている状態であって実体ではない。ただ、

「便宜上そう考えてもいいと思うわ」

「私はこの巨大なサーバの状態管理をしているだけで、完全意識に融合するのは人間たちが自らやっているのです。その時にどんなことが起こっているのか残念ながらわかりません。完全意識自体に聞いてみるしかないでしょう」

「聞くことができるの?」

「聞くことはできますが、完全意識は何も答えを示してはくれません。完全意識は悟りの境地にあり現世のあらゆる事象に興味を持ちません」

 確かに痛みも苦しみもないのかもしれないが、人々がどうしてそんなものに融合したがるのか理解できない。床の上でもぞもぞとそれが身じろぎしていた。いくら小さくとも何かしらの意識を持ち合わせているのだろうから、このままではかわいそうだ。

「ねえ、ここに空いているボディはある?」

「意識転送用アンドロイドということなら何体かあります」

「貸してもらえないかしら」

 ジュノーに案内された格納庫には表面加工されていないマネキンのようなボディがずらりと並んでいた。ただしボディはHuman+を想定されて設計されたため、人間の意識が乗るためのものだ。

 つまり、小さなエネルギー場が融合してもまともに動かせないかもしれない。子供が豪華客船を操作するようなものだ。子供用のものがないかを探し回っているといいものを見つけた。ペット用なのかわからないが、子犬のボディを見つけた。豆柴のようだ。アリスは豆柴を借りるとそれのところに戻った。

「ちょっと酔っているから、失敗したらごめんなさい」

 アリスは斬霊剣を鞘から抜くと「それ」の前の空間を切り裂き「それ」と豆柴のボディの間を取り持つ道を作ってやった。

「それ」は流れるように豆柴のボディに吸い込まれていった。

「入った」

 豆柴は途端にぐにゃりとへたりこみ横になって寝息を立て始めた。アリスは豆柴をドロップと名付けた。完全意識の雫という意味だ。

 ドロップは目を覚ますと同時に、新しく手に入れたボディが気に入ったのか、飛ぶように駆け回り始めた。動けることが嬉しくて仕方ないのだろう。どこまでも続く透明な廊下をこれでもかとばかりに走り回る。本物の犬と違って疲れをしらないドロップは見えなくなるほど遠くまで行ってしまった。ジュノーを一周してくるつもりかもしれない。何が起きるわけでもないしアリスは放っておくことにした。

「ねえ、ジュノー。あなた管理以外は何をしているの?」

「何もしません。管理が私の仕事です」

「でも、管理っていっても完全意識は何の動きもないのでしょう。やることなんてたかが知れているでしょ。暇な時はどうしているの」

「地球を観察しています。Human+を地上に下ろす時に問題が起こらないよう、地上のことを把握する必要があります」

「除き趣味か。それも悪くないかもしれないわね」

 アリスはひとりごちた。

「地上を観察していて面白いものを見つけました。見ますか?」

「いよいよ悪趣味ね。でも暇つぶしにいいかもしれない。いいわ、教えて」

 ジュノーはアリス足元をディスプレイ化してどこかのエリアを映し出した。鬱蒼とした木々の間に小さな集落がある。今時めずらしい粗末な木造りの屋根がいくつか見える。

「これはどこ?」

「具体的な場所は言えませんがアフリカのある場所です。住民の姿が見えますか?」

 ズームしていくと人が動いている様子が見え始めた。誰もが長髪で焦茶の服を着ている。だが、それは服ではないことがすぐに見てとれた。体毛だ。

「彼らは何者?」

 さらにズームしていくとその姿が明らかになり始めた。手に槍を持つ者がいる。身振り手振りで意思疎通をしているのも見ることができた。だが、彼らは全身を焦茶の体毛に覆われた類人猿にしか見えなかった。

 そのうち、誰かが上空を見上げた。その顔はどこから見てもチンパンジーだ。だが額の大きさがチンパンジーとは比較にならない広さだ。頭蓋の内側に大きな脳を持っている。そして両のこめかみには電子機器が埋め込まれているのも見えた。

 上空を見上げた一人が何かを叫び、地面に平伏した。それに習って周りの類人猿たちも同じように平伏した。何かを畏れているようだ。

「この時、私が上空を通過したのですよ。彼らは私を神だと思い崇拝しているのです」

「これはどういうこと? 普通のチンパンジーではないわよね」

「ポストヒューマンです。彼らが未来の地球を支配するのです。あの場所はアテナスの実験場なのですよ」

 アリスは頭上を見上げた。この上には巨大なサーバエリアがある。それは全人類の意識を格納できるほどの容量と性能を持っている。もし、全人類が完全意識に融合したら地上には誰もいなくなる。

「そして彼らの頭に取り付けた通信モジュールで、時々知能のアップデートをおこなっているのです。彼らが絶滅してしまわないように。彼らはあんな原始的な生活をしていますが、現在の人類より知能は高いです」

 アリスは大きな勘違いをしていた。Human+という人間の意識とアンドロイドを融合させた新人類を造り、平等な世界を創るつもりだと思っていた。そしてアテナス自身は新人類を管理する神にでもなるつもりなのだと。

 だがそうではない。Human+は完全意識の遣いでしかない。

 アテナスは天空に座する神を創るつもりだ。

 人類は直径二十キロメートルの神に進化する。そして空から新人類を見守る。それがアテナスの見据える未来。

 いつの間に戻っていたのか、ドロップが類人猿の映像を見て興奮した様子で吠え始めた。その吠え方は尋常ではなかった。まるでその小さな身体に収まり切らないエネルギーが迸り爆発しそうなくらい。

「ゆ…る…せ…な…い…」

 喋った。ありえない。喋れるほどの意識の大きさではなかった。

 アリスは一抹の不安を感じて、ドロップのエネルギー場を見た。

 膨れ上がっていた。とても豆柴のボディに収まり切らない大きさだ。

 考えられることは一つ。ドロップは長い廊下を駆け抜ける間に、同じようにこぼれた意識の雫を拾い集めてしまったのだ。それらの雫はどれも小さなものだが、集まれば一つの大きな意識になりうる。元々は人間の意識である雫たちが、自分達の地球をポストヒューマンに奪われる。それが自ら作り出した政府アシストコンピューターアテナスのシナリオであると知れば、怒りを感じない方がおかしい。

「ドロップ。落ち着いて。まだ計画ははじまったばかりよ。何とでもなるわ」

 アリスの声に敏感に反応したドロップが睨みつけてきた。その目に知性は感じられなかった。凶暴な野生の怒りだけが劫火のように燃えていた。

 いくらたくさんの雫を集めても、Human+のように人間の意識に最適化されていないボディでは完全な意識融合はできない。意識の暴走が始まり怒りが突出してしまっている。ドロップを救う道はない。アリスは瞬時に判断を下した。

 ドロップが牙を剥いて飛びかかってきた。小さなボディであってもアリスのプロテクトスキンを切り裂く能力はある。喉笛目がけて飛びかかってくるドロップを、アリスは斬霊剣を抜き放ち竹割りの一振りで真っ二つに切り裂いた。金属が切り裂かれる音に混じって、エネルギー場が弾ける時の悲鳴にも似た振動がアリスのコアを揺らした。

 二つに切り裂かれたドロップのボディを並べて置いた。そのすぐ隣に『ブラックニッカ・ディープブレンド』を注いだグラスを置いた。千々に砕けた雫たちが寄ってきて、グラスを舐める。ボディがなければ彼らはただの青い光を映した雫にすぎない。もう怒りを感じることもない。ただ、酔い潰れて眠るだけ。

 アリスの右目から一粒の水滴が流れ落ちた。これは何? アンドロイドは涙を流せないはず。クエーカー博士の意志が空気中の水分を結露させたのかもしれない。でも深く考えても仕方ない。私は論理的ではないのだから。そして、琥珀のウィスキーの中央で揺れる青い地球。未来がどこに向かうのかはわからない。ただ、なんとなくその未来はビターだろうと感じた。

          終

『ブラックニッカ・ディープブレンド』はニッカウィスキーの『ブラックニッカ』シリーズのラインナップです。『ブラックニッカ』の歴史上最も濃厚な味わいと評されていて、甘いモルト感とウッディな樽感が味わえる濃厚さが特徴です。アルコール度数は45度とラインナップ中最も高いですが、アルコールの刺激的な感じは少なく、後に残るビター感がバランス良く仕上がっています。それでいて気になるお値段は1,000円台。千円札2枚で十分おつまみだって買える値段です。普段飲みであれば最もコスパがいいウィスキーの一本でしょう。

『ブラックニッカ・ディープブレンド』は四角いボトルに青いラベルが目印です。深みがある青いラベルが琥珀の液体に生えます。今回のお話の舞台は直径二十キロメートルのサーバー衛星ジュノー。一番外外縁部の展望デッキを兼ねる廊下です。回転によって生まれる重力から、地球が足元に見える格好になります。青く輝く地球を眺めながら、青いラベルの『ブラックニッカ・ディープブレンド』を飲むのはきっと味わい深いだろうと思います。いつか本当にそんな飲み方ができるといいですね。



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