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冬がニャーと鳴いた|小説 後編



母が倒れた。

病院へ向かう道中も頭の中は真っ白で未だにその事実を信じ難かった。病院まであと二駅が遠い道程に感じる。気を紛らわすように周囲を窺うと空いている電車の中で手を繋いでいる親子連れがいた。その姿を見ると、幼い頃の記憶がしんしんと降り積もり胸の奥がジーンと音を立てて熱くなる。男の子は必死に背伸びして車窓から外を見ていると、ギャルの母親は「マジで電車好きだよね。」と、言いながら男の子の頭を撫でている。そのふたりの姿には、アイという暖かくて不器用で煙たいものが溢れていて僕の胸を締め付けるから、なるだけ見ないように俯いた。電車を降りると病院まで懸命に走った。僕は足が速い。ただ自分の息遣いと鼓動が聴こえてくる頃には、歩幅も安定して空を飛ぶように走った。病院へ到着すると息切れしながら、受付で母の名前を伝えると病室を教えてくれた。エレベーターの六階ボタンを急いで押して移動したら受付から連絡が入ったのだろう、母の同僚という看護師さんが待っていてくれた。

「池端くん?お母さんこっちだから。」

急いで後を追うと、個室に母の名前があった。そこで看護師さんに礼を言ってから別れて扉を開けると、母はベッドの上で女性自身を読んでいた。それから僕に気が付いて、

「おっす!驚いたでしょ?」

と、最初はケロッとしていたけれど、母は僕をジッと見たあと、女性自身で顔を隠して震えている。僕はベッドサイドへ移動して母の頭をぽんぽんと撫でた。息を殺すように泣いている母は顔を上げて僕を見ると、

「今日仕事終わりに…倒れたんだよね。…そん時に思ったんだ。きらり…ひとり残して…シねないって。」

母は泣きながら途切れ途切れにゆっくりと話した。僕は椅子に座りながら、

「当たり前だろ。母さんは死なないよ。」

と、言うと母は息を整えながら笑顔を作って「うん。」と言った。それから二日間の精密検査のための入院の話をする頃には、良く言えば大らかな悪く言えば大雑把な母に戻っていた。僕は帰宅して母の着替えを取りに行こうと席を立った。「いってらー。」と、言いながら僕の前では気丈に振る舞う母を置いて部屋を出て、ナースステーションへ立ち寄り、母の同僚の方々に挨拶とお礼を言ってから病院をあとにした。

外は夏と秋の裂け目で空気は生温く、空を見上げると今にも雨が降りそうだった。少し小走りで家路を急ぐと、駅前のベンチで先程の電車でいた親子だった。男の子は電車の模型を右手で持ち左手は母親と繋がっていて口元は、よだれでテカテカと光っている。すると、男の子は僕を見るなり、「ああ!」と言って、そのあと電車の模型を持ったまま手を振り、「バイバーイ。」と、大声で言った。僕は男の子の前で立ち止まって、「バイバイ。」と、手を振るとギャルの母親が「ありがとう。」と、笑顔で呟いた。僕はふたりのことを何も知らないのに幸せになってほしいと漠然に想うのは、確実に母と僕の姿が重なっているからだろう。それから浮ついた足元で改札を抜けて電車へ飛び乗った。

母さんが、死んだらどうしよう。

その言葉が電車のシートへ腰掛ける時にポツリと頭の中に浮上してきた。記号のような言葉に実感が伴わなくて慌てて車窓に目をやると、黒い電線が心電図のように上下して脈を打っているように映った。

僕はひとりになる。

いつも真夜中に感じる孤独よりも非じゃない何かが僕の背中を包み込む。得体の知れない不穏な何かを背負って電車を降りると家路を急いだ。そして家に到着し、母の着替えを鞄へ詰め込んで居間に移動したら、壊れかけの鳩時計が「ブッホー。」と二回鳴いた。携帯を見ると、小林や友人たちから沢山のライン通知があったから母が倒れたことと、二日間は学校を休むことを伝えて、制服から私服に着替えて居間に戻ると庭から「ニャー。」と冬の鳴き声が聞こえた。緊張した空気が一気に緩和した。僕は裏口から健康サンダルを履いて外に出て冬の姿を探した。いつもの大きな石の上で百獣の王ポーズを取っているから笑えてきて、

「冬はやっぱりカッコいいよ。」

と、言うと、僕の手に温かい雫が落ちた。「あれ?雨?」と思いながら空を仰いだら、頬に涙が伝っていた。自分が泣いていることに気が付いてTシャツの袖で涙を拭ったけれど、涙腺がバカになったのか涙は止まらなかった。僕は、漠然とした恐怖に呑まれそうになった。

「ニャー。」

僕を心配しているのか、それともただの気紛れか、冬はこちらへやってきて僕の頬を伝う涙をペロペロと舐めたあとに、僕の横に座り込んだ。

「そばにいてくれてありがとう。」

そう言って冬の頭を撫でた。そしてゆっくり立ち上がり、無理矢理笑顔を作って、

「冬、行ってきます。」

と、言うと、冬は大きく「ニャー。」と鳴いてくれた。冬と僕は心で繋がっている気がした。そのあと家を出て病院へ向かう途中の駅のベンチには、あの親子の姿はなかった。病院へ到着して鞄から母の着替えを出しながら、学校を休むことを伝えると、

「は?ジュケンセイなのに学校休んだらダメだよ。私は一日中検査でいないし、いてもヒマだよ?」

そう言う母に対して、僕は、

「たった二日間休んでも大丈夫だよ。ヒマしないように勉強するし、受験はまだ先だし、心配はいらないよ。」

と、背中越しに言った。本当は母に何かあったらと思うと気が気ではなかった。何も役に立たない僕は無力そのものだけれど、母のそばにいることはできる。それになにより母と一緒にいる時間を大切にしたかった。

「マジで?きらりがそう言うならそれでイイけど。」

母はまた女性自身を読みはじめたので、僕も鞄から小説を取り出して読みはじめた。どれくらいそうしていたかわからなかったけれど、いつの間にか空は薄明かりになり、カーテンを閉めてから照明を点けて、そろそろ家に帰ると母に伝えると、ご飯をしっかり食べなさいとか、洗濯用の洗剤は棚の左側にあるとか、冷蔵庫にサンドイッチがあるとか、煩いからテキトーに返事をして、

「また、明日。」

と、言い残して病院をあとにした。夜の帳は雲を押し除け星々を連れてきて小さく呼吸するように瞬いている。下弦の月は白く輝いていて僕の歩く道を照らしてくれた。家に到着すると、冷蔵庫から好物のサンドイッチを取り出して食べて、その美味しさに悶絶した声が悲しく反響して消えた。母がいない家は静寂に支配されて、ひっそりと冷えた空気は僕から熱を奪い孤独を連れてくる。僕は必死に咀嚼を繰り返して、サンドイッチと一緒に孤独を呑み込んだ。腹の中で膨張する孤独は僕の血管を通って全身へ伝わる。

人は皆、孤独なのだ。

その言葉の意味が身に沁みる。熱く滲むような感情をどうすることも出来ずに結局ジッとすることができなくて、スニーカーを履いて外へ飛び出てただ走った。走って走って頭の中が空っぽになるくらい走った。息切れして呼吸することがやっとで、河川敷の土手に座り込んだ。ふと空を見上げると下弦の月は静寂を抱いて輝いていた。そして僕は自分の顔をパチンと叩くと気分が晴れた。僕は自分の孤独ばかりに気を取られて母の気持ちを考えることを忘れていた。そのことに気が付いて、母にラインをした。

母さんは僕が守るから。
それと、いつもありがとう。

面と向かっては恥ずかしさが勝るから言えないけれど、その時は素直に心の声を届けることができた。すると、母から電話があり、出るなり号泣していて何を言っているのかわからなかったから、僕は笑いながら母の鼻の詰まった声を聞き下弦の月を見上げた。

それから二日後に母は退院した。精密検査の結果は明後日に出るそうだ。ナースステーションで看護師さんたちと楽しく談笑する母の姿はいつも通り明るくて、その場を華やかに彩る。家に到着すると、冬が玄関前に座っていたから動物嫌いの母は立ち止まった。

「冬たん、だよね?噛んだりしない?」

と、言う母に、僕は冬を抱っこしてから、ゆっくりと冬を母に近付けたら、母は恐る恐る冬の頭を撫でた。冬が喉をゴロゴロ鳴らして喜んでいると母に伝えると、母はもう一度冬を撫でた。

「冬はカッコいい猫なんだよ。」

僕がそう言うと、母は、

「たしかにキレイだし、カッコいいね。」

と、冬を優しく撫でながら言った。それから僕は冬に餌を与えて冬と大きな石の上で欠けていく月を観ながらぼーっとした。

翌日、早めに学校へ行くと菊池が教室前にいた。僕は「おはよー。」と、声をかけると、

「お母さんのこと聞いたよ。大変だったね。これ少しだけど、お母さんと食べて。」

と、クッキーを渡された。

「ありがとう。母さんも喜ぶよ。」

と、言うと、

「うん。またね。」

と、菊池は言って手を振って自分の教室へ帰って行った。それを見ていた小林はやはり宝を奪われた山賊のように僕に近寄り、

「鈍い男だな!コイだ!」

と、意味不明な言葉を吐き捨ててから机の上に突っ伏した。僕は小林の隙だらけの脇腹にチョップをすると、

「お母さんの具合はどうだ?」

と、突っ伏したまま小林は呟いた。僕が「大丈夫だよ。」と、言うと小林はスクッと起きて、「良かった。」と、呟いて、僕の脇腹にチョップをしてきた。それから他の友人たちと話をして始業のチャイムが鳴った。学校が終わり家に到着して母に菊池がくれたクッキーを渡したら、「カンゲキなんだけどー!」と、喜んでいる。

「え?カノジョできたの?」

と、聞く母に、

「は?彼女じゃねーし。友人だし。」

と、言うと、「ふ〜ん。」と意味ありげな返事だったけれど、僕はそれ以上何も言わなかった。実際に菊池とは付き合っていないし。そう思いながら、先程買ってきた惣菜と僕がはじめて作った味噌汁で夕食をいただいた。

「マジで美味しーんですけど!」

嬉しそうに味噌汁をおかわりする母の姿に暖かい空間が戻ってきたようで嬉しくて、このまま時間が止まって欲しかった。それなのに、壊れかけた鳩時計は「ブッホー。」と七回鳴いて刻々と過ぎゆく時を報せた。

翌日、病院へ精密検査の結果を聞きに母に同行した。広いロビーで受付してから外来の診察室前のベンチへ腰をかける。母は無口で壁に貼ってある広告を見つめていた。何を考えているのだろうか、わからなかった。それから四十分後に呼ばれて診察室へ入室したら、恰幅の良い男性が椅子に座って看護師さんがそばに立っていた。僕は母の背後に立ち、母は診察椅子へ座り挨拶をした。先生は母が看護師だと知っているのだろう、専門的な用語を使って説明した後に、

「池端さん、総合的に言えば、貧血はありますがそれ以外の異常は今回の検査ではみつかりませんでした。良かったですね。鉄剤を処方しますので、それを飲んで様子をみてください。」

と、時間を使ってゆっくりと話した。僕は安堵したせいか小さくガッツポーズを作っていてそれを看護師さんに見られて笑われた。母を見ると先生にお礼を何回も言って席を立つところだった。診察室から出ると母の目は潤んでいたから、僕は何も言わずに母の鞄を持って、

「家に帰ろう。」

と、言った。

「…うん、帰ろ。」

母は優しく呟いて前を向いた。僕はいつも通りにある素朴で柔らかい幸せを感じながら母の背中を見た。いつの間にか僕より小さくなった母を思うと、鼻の奥が熱くなるから何回か鼻を啜りそれを誤魔化した後に、僕もゆっくりと歩きはじめた。

人はいずれは死ぬ。そのことは誰に教わってもいないけれど、自然と理解している。僕は不易と思っていた母との関係も刻々と変化していくのだと気が付いた。生は日常に取り込まれた瞬間に、平然と熱気を失ってしまう。生温い生活の湿度は、生の鋭い輝きを殺してしまうんだ。僕は刹那の狭間に存在する密やかな幸せや哀しみを見逃すことなく母と共に生きたいと願い、そして家族でありたいと思った。

病院をあとにして家に到着すると、玄関前に冬が座っていた。すると母が、冬に近寄り頭を優しく撫でた。

「冬たん、わたしたち、家族になる?」

母はそう言ってから冬をふわりと抱っこした。冬は大人しく母の腕の中で喉をゴロゴロと鳴らしながら、大きく「ニャー。」と鳴いた。











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