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人と人、人と動物、人と物が繋がるとき。 #読書の秋2022 川っぺりムコリッタ

人と人、人と動物、人と物が繋がるとき。それは表面張力とおなじ原理なのかもしれない。分子と分子が収縮する瞬間に一気に惹かれ合うのだろう。この本に出逢ったときに、その力が働いたと思う。

川っぺりムコリッタ
荻上直子 講談社


川っぺりムコリッタ。題名と表紙に惚れて手に取った本。ムコリッタってなんやろ?と思い、大型書店に併設してあるカフェのやけに柔らかいソファーへ深く深く腰掛けてページをめくった。そこには

ムコリッタ(牟呼栗多)
仏典に記載の時間の単位のひとつ 一/三十日=二千八百八十秒=四十八分
「刹那」は、その最小単位


と書いてあった。ムコリッタ、とつぶやいてみると、とても素敵な響だ。そして、ページを閉じて表紙をゆっくりと視た。季節は夏だろう、子どもが赤いブランコに乗ってそのまま空中へ飛び立ちそうな勢いがある素敵な写真だった。

ああ、この本は飛べる。

そう思った。私は本を拝読するときにどこまで飛べるかとか、どこまで潜れるかを大切にしている。どんなに売れている本でも、いくら人気の作家さんが書いた本でも飛べないし、潜れないときはある。この本は直感的にやさしい風に抱かれながら飛べそうな気がした。



あらすじは、川っぺりに建つハイツムコリッタ。そこに住む住民たちと孤独な主人公の山田を軸に生と死の狭間のギリギリを生きながらも、そこから生まれる冷たい悲しみやささやかな幸せを丁寧に丁寧に掬い上げるストーリーだ。

私は山田のように家族も生き甲斐もなくて、ひとりで生きたいと思っていたはずの人の気持ちが痛いほどわかった。私も山田やムコリッタの住民のように、常にギリギリを生きていると思っている。そして、ときどき、頭の隅にこびりついている思考に苛まれている。

母が亡くなったらひとりになる。家族もいなくて、生き甲斐もなくて、どうやって生きればいいのだろうか。

そう思うと背骨の芯から深い悲しみが滲む気がした。その事実は常に私の中にある。ごちそうをいただいている瞬間、友人と談笑している瞬間、愛猫を撫でる瞬間、薄暮に心を奪われている瞬間、それは影のように私の足裏へくっついて離れない。生きるって簡単なようでとても難しい。一方でそのようなことを考えながらも、作中に登場する食べ物に唾液があふれた。食べることは生きること。どんなに暗い喪失感に苛まれたって、深い孤独を味わったって、生きていればお腹は減る。食べるという行為は、その人の心や体にじんわりとあたたかい幸せをくれると思う。山田のように家族も生き甲斐もなくて、ひとりで生きたいと思っていても、食べ物を体に入れる瞬間の描写はどれも小さな幸せに灯されたような、やわらかい温度があった。お風呂上がりに飲む牛乳、炊き立てのご飯、その上にのせる塩辛、畑で取れる野菜、特別なすき焼き、そのどれもが今日を生きる力を与えてくれるような気がした。



淡々とした毎日を生きる中で、山田の中にある地獄を見た気がした。過去の記憶、犯した罪、誰もが心の中にそれぞれの地獄を抱えて生きている。ムコリッタの住民だって、職場の人だって、ホームレスの人だって、本には登場しない人だって、それぞれに地獄があるのだ。山田は近くにある死を受け入れて生きていくことは辛いけれど、島田の畑を手伝ったり、一緒にご飯を食べたり、南とアイスを食べたり、洋一のピアニカが奏でるバッハを聴いたり、カヨコの二重跳びのタイミングを見たりして、凪のような平坦な日常の中にある小さな小さな幸せを、その日いちにちを淡々と生きているだけで十分幸せなのかもしれない。人と人、人と動物、人と物が繋がるとき。それは表面張力とおなじ原理なのかもしれない。分子と分子が収縮する瞬間に一気に惹かれ合うのだろう。それは「あい」という煙たい意思がそうさせるのかもしれない。孤独と思っていた山田も大切な繋がりが芽生えた。私も山田のように十年後のことなんて未来すぎてまるでわからないけれど、日々やってくる小さな悲しみ、小さな楽しみをそっと掬い取ってゆっくりと生きていこうと思った。



最後の山田の言葉はどこまでやさしくて、いじらしくて、くすぐったい。そこに私はいないのだけれど、山田の横に座って話を聴いている気がした。すると、なぜか心の中で「大丈夫。明日も生きれる。」と、言葉がぷかりと浮かんだ。そして、この本は心に傷痕を残す本ではなくて、心の襞をそっとくすぐる本だと思った。

あたたかくて、くすぐったい。

そう思いながら、本を閉じた。









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