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【創作小説】さよならも言えなかった

からん。手元のアイスコーヒーが大きく音を立てた。

「え、今なんて?」

「だから、彼氏ができたの!」

 窓際の席で燦々と照らされたその表情は、まるで太陽のようだ。

「この前、友達とごはん行ってくるって話したでしょ? 実はその人なんだけどさぁ、流れで付き合おうって話になっちゃって」

 露をまとったカフェオレを蜜のように含む女――絵理は、一秒前までは私の恋人の筈だった存在だ。

 二人の関係に、偏見や生きづらさが伴う事も承知で、二人で何度も何度も確かめ合った。この関係を約束して今日で丸一年――絵理が行きたいと言っていたディナーを予約し、楽しみだねと顔を綻ばせていた。その記憶と現状があまりにも合致しない。

「……彼氏って、何?」

「彼氏は彼氏だけど」

「あの、聞いていい?」

「どうしたの、怖い顔して」

「……あんたさ、私と付き合ってるんじゃないの?」

さぁ、なんて返ってくる。絵理の言葉を待った。

「うん、付き合ってるよ」

 二股疑惑のふしだらな女だと思っていても、付き合っているという事実を絵理の口から聞いて安堵してしまった。

「付き合ってるけど彼氏も欲しいもん」

 前言撤回。やはり絵理の気持ちは一ミリとも理解できない。

 怪訝な面持ちで見つめる真衣の前で、絵理は続けた。

「私、真衣の事嫌いだから」

 斜め上をいく答えだった。

「嫌いだったの?」

 うん。絵理は明るく答え、目の前のたまごサンドを頬張り始める。

「……あんた、嫌いなやつとキスしてたわけ?」

「嫌いは好きがないと伴わない感情だから」

 好きがないと伴わない感情ってなんだ。ならば、どうして彼氏なんて作った。

 脳内の沸点が、みるみる上がっていくのを感じる。

「で、あんたに嫌われてる私はどうしろと?」

「……別れたらいいんじゃない」

「……あっそ」

 ドラマでよく見かける、男に水をかけるシーンって、こんな気持ちの時に湧いてくるんだろうな。

 そう思ったが、目の前にいる彼女は、数分前まではたまらなく愛しかった存在だ。美しくおめかしをした彼女に、公衆の面前で醜態を晒すような行為は、自分のプライドが許さなかった。

「……もういいわ。家にあるあんたの荷物、全部あんたの家に送っておくから」

 宅配、ちゃんと受け取ってね。

 もうここに居たくない。ぐつぐつとした液体が目から溢れない内に、早く離れなければ。

 だんっ。

 こんな時でさえ、律儀にコーヒー代を出す自分が、今はとてつもなくいじらしい。

 テーブルに千円札を叩きつけた音が、カフェに響く。真衣は足早にドアベルを鳴らして立ち去った。

真衣に叩きつけられた野口英世は、くしゃりと横たわっていた。

 

 そんなに叩きつけなくてもいいのにね。

 テーブルに置かれた野口英世に憐憫の目を向けたのは、絵理だった。

真衣が大きな音を立てたせいで、独り取り残された絵理は、客による好奇の目に晒されていた。

まぁ、自業自得か。

周囲の視線が収まるまで、指の跡がぎゅっと付いたたまごサンドを夢中で頬張り続けた。

正直、この店に入ってからは何の味も感じていない。薬のせいなのか、緊張のせいなのか。答えはどうでもよかった。

だが、ようやく私のわがままが終わったのだ。真衣に面倒をかける事はもうない。

 勝手に一目惚れをして、友達から無理矢理恋人になった関係だ。もう迷惑はかけられない。

 私の愛する人の隣に、私は居てはいけない。

医者からの宣告を受けて、一番に決めた事だ。真衣への気持ちが冥土の土産なら、何よりの宝物だ。閻魔様にも渡さない。

この気持ちは、私だけのものだ――。

滞在者の姿も消えたテーブルの上には、光を纏った露が数多にも残されていた。

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