民主化の偶然性と必然性

作者:李宇暉 カリフォルニア大学政治学博士 
初発表:2015年05月13日 東網
翻訳:北見響

 数日前、慶安警察民間人殺害事件を受けて、数カ国の大使館にこういうツイートを送りました:「@在中国アメリカ大使館@在中国日本大使館@在中国イギリス大使館、この子たちを養子にする良い家族を見つけてください!彼らの父親は警察に殺されたのですから、福祉施設で苦しめて死なせないでください。あなたたちは文化大革命の時に毛沢東と外交関係を結んで、90年代見せかけだけの制裁後も中国共産党と結託し続けている、暴政の悪はあなたたちも共有しているでしょう。 政治学の研究者として、宥和政策の空間は理解している、 政治介入は期待していませんが、せめて子供たちを助けてあげてください。」

 この投稿は1300回以上リツイートされた後に当局にブロックされたが、これも想定内です。 いくつかの大使館が何千回も@されているので、見てないわけにはいかないが、最終的には見なかったのフリを選んだのだから、それも想定内です。 外国人は事なかれ主義だから、数人の子供でデリケートな問題で中国当局に対立する奴がこの世にいない。

 しかし若干興味深いのは、この投稿が御用コメンテーターの重点攻撃を受けただけでなく、自称「反対派」と呼ばれる人たちからも不満を表れたことだ。彼らは主に投稿の後半に焦点を当てていて、中国人自身の問題を見直せずに、暴政の責任を何千キロも離れた外国人に取らせようとする、これは怠惰だ。これは、政治学界隈で長く議論されてきた「民主化はどこまで外力に依存するのか」という問題を提起しなければならない。

 以前のコラムでも述べたように、中国の知識人の多くは時代遅れの文献を読むや伝統的な文化的比較法に過度に固執しているから、文化決定論に傾いている。彼らは欧米が最初に民主化の成功を享受できたのは、ある種の優秀な文化を持っていたからだと考えている。これを反証するのはもちろん難しい:中国と西洋の文化は確かに違うし、ある分野では確かに長所もあれば短所もあるし、どんな調査方法でも文化の役割を完全に排除することはできない。 しかし、反証が難しいものは同時に証明が難しいものはよくある、変数が多くのに標本数が少ない場合、他の変数ではなく必ず文化が結果を影響していると主張するのは、同様に根拠が乏しい。

 しかしここは、ある思考実験(thought experiment)で実証的方法の不足を補充できる。つまり「例えば新大陸がなければヨーロッパの民主化はどうなっていたのか?」もちろん、新大陸のようなこんなに巨大で客観的に存在するもの、それが存在しないとどうやって想像するでしょうか? 認知方法上もちろんそういう仮想はできる。 例えアメリカ大陸が存在しなかったとしても、アメリカ発見以前の他の大陸の歴史に影響を与えなかった、つまりヨーロッパの文化的基質の形成に影響を与えなかっただろう。したがって、この仮説は、文化的決定の役割を検証するために使用することができる。

 明らかに、ヨーロッパでの民主化は依然と他のところよりも早く開始する、イギリスの大憲章は、新世界が発見されるずっと前の13世紀に制定された。 新世界の政治的・文化的影響力が発揮し始めたのは、少なくとも18世紀まで待たなければなりません、その際英、仏の民主主義革命がすでに乗り気満々。 アメリカが南北戦争を終えて軌道を乗せた頃には、ベルギーとスイスはすでに民主化がほぼ完成した。第一次世界大戦前のヨーロッパには、すでに英、仏、ノルウェー、ギリシャ、スペイン、ポルトガルなど、比較的に高度に民主化された国々が存在していた。

 しかし、この戦前の民主化の成果はどれだけ安定していたのだろうか。二度の世界大戦で、ヨーロッパの一見自由と思われた国々がほぼ元に戻った。 もちろん、私はこれまで何度もヒトラーは選挙を通じて政権奪取したではないことを主張してきた(多くの人が誤解している歴史的事実)。まさに低い民主主義水準と高い工業化水準との落差が、ナチスの突然の奪権を防げず、そして欧州主要経済体を楽々と併合したの原因。

 あとは歴史ではなく、想像のみです。新大陸がなければ、不毛の地で生まれ変わったアメリカがなければ、第二次世界大戦の結果はどうなっていたのでしょうか。 「国王の演説」がどんなに心動かせるとしても、チャーチルの指導がどんなにカリスマ的で感動的であったとしても、大英帝国はドイツの爆撃で滅ぼされるのは時間の問題であった、歴史には一時的に繁栄し最終的に消えてゆく帝国が一つ増えただけだった。日本、東南アジア、インドなどについては、どのようになるかは皆さんの想像にお任せします。中国やロシアは実際の史実よりは悪くないかもしれないが、どちらも良くなることはないだろう。

 私はweibo(中国のSNS)では楽観的で知られている、人間自らを統治し、自由を追求する能力について、私は非常に楽観的な期待を抱いています。しかし、この楽観主義は非常に脆弱な歴史前提、すなわち新世界という偶然事件。宇宙人のような外部勢力みたいなアメリカがいなければ、欧亜大陸は自力での苦痛な手探りで、歴史上の様々な独裁者と決別し、ナッシュ均衡を破って新しい自由主義秩序を確立するためにとは......これは思うと非常に怖い話ではないか。人類に対し長期的な自信は依然と持っているが、短期的な苦痛は考えられないほどであろう。今日はカリフォルニアの日差しの中でネットを自由に考えを発表できるが、ネット警察の対応をしなければならないけど身の安全を心配する必要がない状態は、新大陸がない仮説では不可能だと言っているのです。

 文化は決定的な要因であろうがなかろうが、ヨーロッパ文明の成功が、少なくとも長い間、新大陸の糧に依存していたことは否定できない。 このような関係は冷戦後は主に外敵の弱体化によって多少緩和されたが、完全に解消されたわけではない。 ウクライナや中東などの紛争では、EUはまだまだ頼れる一人前ではない。

 もしヨーロッパの鉄板の資本主義諸国でさえ外部からの支援なしに民主主義とそれに伴う平和と繁栄を達成することができなかったとしたら、東方の苦難重々な国々の民衆に、完全に自力に頼りなさいと求めることができるのだろうか。アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの国々が自然の恵みを享受してきたことは言うまでもありませんし、ヨーロッパや日本もアメリカからのエサやりで間接的にその恩恵を受けてきました、倫理上、そんな良い運がなかった人々に何かやってあげる義理はないか。

 もちろん、倫理的合理性と政策の実現性は大いに違う。最も完璧な民主主義国家でさえ、宥和政策に伴う短期的な経済的利益に抵抗することは難しい。 真珠湾やキューバのミサイル危機、9.11のような目先の恐怖がない限り、彼らは独裁政権の潜在的な脅威に直面しないことが多い。これは人間共通の弱点です、私のような何者でもない人間のつぶやき一つや二つでは絶対に解決できません。しかし、民主化に取り組みたい人たちは、この方向性を諦めてはいけない。民主化は長期的な視点から見ると人類の自由信念からの必然性がある、短期的には国際社会の合力ゆえの偶然性でもある。 後者を無視して前者だけを強調するのは、確かに自己啓発的であって、「忍耐」を持って自分を慰める方法ではあるが、暴政の下、毎日、生と死の境界線で苦しむ被害者がいるという事実を無視していた。