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『向日葵畑の向こう側』⑥

【最終場】 向日葵畑の向こう側


8月16日。この日も陽向は学校で補習を受けていた。
暦の上では秋となるが、まだまだ夏真っ盛りである。

松永「はい、今日の補習終わり! お盆も今日で終わりだなー。そろそろいいかげん涼しくなるかな」

陽向は帰り支度を整え、スマートフォンを取り出す。陽菜から着信履歴があった。
折り返してみるものの、陽菜は電話に出ない。

陽向「おかしいな。まぁでもそういう日もあるか」

しかし、その後も連絡はつかず、やがて電話は番号なしのアナウンスに変わった。

電話のアナウンス「おかけになった電話番号は……」
陽向「え!? 何で? 何でだよ! 陽菜! どうしちゃったんだよ!」

陽向は居ても立っても居られず駅前に向かった。
いつも二人で行っていたファミレスやコーヒーショップを当てもなく探す。
しかし、陽菜の姿はどこにも見当たらない。

途方に暮れ家に戻った陽向。その顔は憔悴しきっていた。

由利「どうしたの? 何かあったの?」

陽向は、陽菜と出会った頃のことを思い出していた。
陽菜『あーあ。雨宮さんとこの『ヒナちゃん』ったらご近所でも評判だったのに……』

陽向「母さん、雨宮さんって名字の家ってこのあたりにある?」
由利「え?」
陽向「雨宮陽菜さんっていうんだ。その子」
由利「あま……みや? 本当にその子の名前、雨宮さんなの?」
陽向「そうだよ! 母さん知ってるの?」
由利「ちょ、ちょっと待って。どういう字よ」

由利は明らかに戸惑っている様子だった。
陽向は携帯で、『雨宮陽菜』と打って見せてみる。

陽向「これだよ」
由利「そ、そんな……こんなことって」
陽向「この子だよ」

陽向は携帯を取り出し写真を見せる。しかしそこには陽向一人しか写っていない。

陽向「え? そんな馬鹿な。ここに写ってたのに何で!?」
由利「隣にいたのよね。陽菜ちゃんが」

その写真を見た瞬間、由利はその場にへたりと座り込んでしまった。
陽菜が腕を伸ばして撮影したはずのセルフィー写真。陽向の両腕が映っているので、この構図は一人では撮影できないのは明らかだ。
由利の顔は完全に青ざめていた。

由利「ちょ、ちょっとお父さんが帰ってきたらも、もう一度話しましょう」

夜になり、春樹が帰るやいなや、由利がこの話を切り出す。

由利「貴方、落ち着いて聞いてね」
春樹「な、何だよ。血相変えて。怖い話か? 夏だから?」
由利「真面目な話よ。陽向のお友達の女の子、ひなさんって」
春樹「ああ、あの陽向の彼女か」
由利「雨宮陽菜って名乗っているそうなの」
春樹「あまみやひな? ……嘘だろ? どんな冗談だよ」
由利「この前の花火大会で二人で写真撮ったって言うんだけど、陽向しか写ってないのよ」
春樹「え?」

陽向は完全にその場でへたり込んでしまっている。

春樹「陽向、ちょっと写真見せてみろ!」

春樹は陽向しか写っていない写真を見て、その異常さに寒気がした。

春樹「お前の彼女、雨宮陽菜さんっていうんだな。で、この隣に写ってたんだな」
陽向「確かにここに写ってたんだ。二人で……二人で写真を……撮ったんだ……陽菜が腕を伸ばして……それで」
春樹「そう、なのか」

春樹と由利はしばらく考え込んでいる様子だったが、やがて真面目な顔で口を開く。

春樹「陽向、よく聞け。あり得ない話なんだが……そのひなちゃんって子はな」
由利「……陽向のお姉ちゃんよ」
陽向「……お姉ちゃん?」

陽向にはその言葉が何を意味しているのかわからなかった。
今の今までそんな話を聞いたことはない。ずっと一人っ子だと思っていた。
姉だというなら、今までどこにいたっていうんだ。

春樹「正確には、その……この世に生まれていないんだ」
陽向「え? ど、どういうこと?」

理解が追いつかない。陽菜がこの世に生まれていないなんて。確かにそこにいた。
あの日花火大会で握った手の感触は今でも覚えている。

陽向「何馬鹿なこと言ってるんだよ。陽菜がこの世にいないってどういうことだよ」
由利「実は陽向がお腹の中にいた時ね、もう一人お腹の中にいたのよ」

由利が表情を曇らせる

春樹「……陽向と双子だったんだ。でも、その子は生まれてこられなかったんだよ」
陽向「え?」
春樹「陽向もその子も順調だったんだ。性別もわかってて。男の子と女の子だって」

もう由利は話せないようだった。春樹が続ける。

春樹「お父さんもお母さんも準備してたんだ。二人の名前も決めてね」
陽向「まさか……それが……」
春樹「陽向と……陽菜、だ」
陽向「嘘だ……嘘だろ?」
春樹「でも、予定日よりもだいぶ早くにな、お母さんの入院してた病院から連絡があって……」
由利「……二人とも危険な状態だったのよ。先に陽菜が出てきてしまって」
春樹「陽菜は、死産だったんだ」

陽向は胸を貫かれた思いだった。では、自分の前に現れた陽菜は幻だったとでもいうのだろうか。

春樹「その二時間後に、陽向が無事産まれてくれたんだ」
由利「不幸と幸せが同時に来たの。お父さんもお母さんもどうしていいかわからなかった」
春樹「ああ、だから今まで話せなかった。正直名前が『ひな』って聞いただけで驚いたよ」
陽向「そんな……」
春樹「雨宮って名字はお母さんの旧姓だ。陽菜は何でそんな名前使ったのか」

由利は陽向の携帯の写真を見て寂しそうな表情を浮かべている。

由利「確かに写真は二人で撮ったのね?」
陽向「確かに、撮ったんだ! 写っていたんだ」
由利「そう……陽菜、お盆だから帰ってきてたのね。お母さんも会いたかったな」

由利は愛おしそうに陽菜が写っていたであろう、写真を見つめている。

陽向「お盆か……今日までだよね!」
春樹「陽向、どうする気だ」
陽向「……俺のために戻ってきてくれてたんだ。俺はまだ陽菜に何も伝えられてない」

陽向の目に力が入る。ーーー行こう、あの場所へ。

由利「陽向、あの子のことが、そう・・・」

少しでもまだ見ぬ娘と繋がりたい。今は陽向がその可能性を握っている。
由利は陽向に家族の想いを託したくなった。

春樹「どこか心当たりがあるんだな!」
由利「陽向、陽菜によろしくね」
陽向「わかった!」

陽向は迷うことなく走り出していた。足首に痛みがズキズキと走ってくるが、もう今となっては痛みなどどうでもいい。
足が壊れてもいい。陽菜に会いたい。その心が痛みを超えていた。

陽向は駅に着くと、隣駅への電車に飛び乗った。

陽向「まだ間に合うはずだ」

陽向は夢中で走った。あの炎天下の中、陽菜と歩いた道を辿る。
冷たい手の感触が汗ばむ腕にそっと触れたような気がした。

どこまでも続く住宅街をがむしゃらに進んだ。もうどこをどう走ったかも覚えていない。
遠くにぼんやりと浮かぶ金色の光の柱。陽向はその光に向かってただただ走った。

陽向「陽菜はあそこにいる! いるんだ!」

最後の急坂が見えた。

陽向「あの先に、あの場所が」

坂を超えると、金色の向日葵畑が星空に浮かんでいた。
あの日太陽の下で見た景色とはあるで印象が違っていた。
柔らかな夜風に向日葵たちが揺れている。

陽向「……陽菜、ここにいるのか」

しかし、陽菜の姿はどこにも見えない。

陽向「陽菜! ここにいるんだろ! 返事をしてくれ! 陽菜!」

陽向の声は星空に舞い上がり静寂に消えた。

陽向「陽菜……何で、何で何も言ってくれなかったんだよ」

足首の痛みが強くなる。陽向は足を引きずりながら、広大な向日葵畑をさまよった。
もっと伝えたい事がたくさんあった。でもその陽菜はもうここにもいないのか。

陽向「何でだよ……。俺、陽菜がいなかったらどうやってこの先生きていけばいいんだ。何も伝えられなかった」

陽向はその場に崩れると、こみ上げる感情に耐えきれず嗚咽をもらした。

その時だった。向日葵畑の奥の方から、ザッザッという音が近づいてくる。
陽向は思わず顔を上げあたりを見回す。

陽向「陽菜? 陽菜なのか!」

金色の向日葵が突風で煽られ、大きくその身を揺らす。陽向は思わず目を閉じた。
ゆっくりと目を明けると、人影が現れた。

陽向「陽菜!」
??「相変わらず、情けないですね。陽向先輩は」

銀色の髪に金色の向日葵の光が反射して妙な威圧感がある。憂心だった。

陽向「憂心! 何でお前がここにいる!」
憂心「決まってるじゃないですか。陽菜先輩に会いに来たんですよ」
陽向「陽菜に? 何でお前が!」
憂心「陽向先輩があまりに情けないんで」
陽向「いい加減にしろ! お前には関係のないことだろう!」
憂心「関係ないわけないじゃないですか! 人の夢を奪っておいてよくもそんな腑抜けた顔してられますね。陽菜先輩がわざわざ来てくれたのにとんだ無駄足だったってことです」
陽向「俺のことはいい! 陽菜のことを悪く言うな!」

陽向は飛びかかっていた。どうしようもない怒り、行き場のない感情が憂心に向かっていく。
憂心を押し倒し、その胸ぐらを掴んでいた。

陽向「お前に陽菜の何がわかるんだ!」

憂心はじっと陽向を見ている。

陽向「陽菜はこんな情けない俺のために、励ますために来てくれたんだよ! それを無駄だなんて!」
憂心「あんたがそんなだから無駄になったって言ってんだろうが!」

憂心は陽向が力を緩めた瞬間に陽向を突き飛ばし、逆に陽向に馬乗りになった。

憂心「あー、ほんとイライラするんですよね。それ。いつまでもメソメソメソメソと」
陽向「お前なんかに……俺の気持ちなんてわからないだろう!」
憂心「ふん、嫌だってくらい分かりますよ」
陽向「分かる? デタラメを言うな!」

二人は横に転がり、再び陽向が憂心の上に乗った。

陽向「一年前の県大会決勝。必ず行けると思っていた全中。ゴールテープ手前で世界が反転したんだ! 夢がこの手からこぼれたあの瞬間。お前に分かるはずないだろ!」
憂心「あの時何で怪我したのか分かってますか?」
陽向「な、何!?」
憂心「あんたの心が弱かったからだ!」
陽向「何だと!」

気が付いたら陽向は憂心を殴りつけていた。

憂心「ふん。それですよ。その弱さだ。その弱さで怪我したんです。どこかで思ってませんでした? 自分が全中に行っても通用しないんじゃないかって!」

陽向はハッとした。それと同時に全身の力が抜けていくのを感じた。

憂心「ベスト記録が10秒台95。しかも追い風参考の非公式記録でやっとだった。これで全中に出て通用するのか。あんたはそう思ったんじゃないのか」
陽向「そ、そんなことない! 全中にいけばそれでよかったんだ」
憂心「全中に行けば否が応にも注目される。その時にまともな記録を出せなかったらと思ったら足がすくんだんだ」
陽向「足が……すくんだ……? 俺が?」
憂心「同時に、目の前に迫ったゴールテープにあんたは焦った。その瞬間、心と身体が離れたんだ」
陽向「心と身体が……」
憂心「俺はあんたに夢を奪われたんだ。全中に行く夢を。あんたのその弱さが原因で!」

憂心は陽向を無理やり立たせると、その拳で殴りつけた。陽向の身躯が向日葵畑の奥に飛ばされる。

憂心「俺は行けると信じてたんだ。あの時、本当にゴールテープに手が届きそうだったんだ」
陽向「憂心……お前はもしかして」
憂心「陽向、もう走れるんだろ。なのに何で立ち上がらない!?」
陽向「憂心」
憂心「毎日欠かさず基礎トレーニングも続けてただろ! 来る日も来る日も復帰した時のイメージを作ってきた」
陽向「知ってたのか」

憂心はうつむいたまま動かない。

憂心「陽向……頼むよ……」
陽向「憂心?」
憂心「お前が走り出さないと、俺のこの想いも……そして陽菜の想いも報われないんだよ!」
陽向「お前と陽菜の想い……」
憂心「それは、陽向。お前も同じはずだろ!」
陽向「俺も……」

陽向はゆっくりと立ち上がろうとしてバランスを崩した。それを憂心が支える。

陽向「憂心。お前……」
憂心「陽向、まだ間に合う。陽菜はあの道の先だ」

憂心が指さす方向にあの一本の小道があった。
あの時のことが思い出される。

陽向『この道、どこに続いてるんだろうね』
陽菜『ほら、どこまで続いてるかわからないし、迷子になったら大変だから、さ』
陽向『確かにずっと続いてるもんね。向こう側には何があるんだろう』

陽向「向日葵畑の向こう側……」
憂心「陽菜はもうこの道を進んだ先にいる」
陽向「憂心……」
憂心「まだ何もかも諦めてないだろ! だったらやることは一つだろ」

陽向は足首を擦る。不思議と今は痛みがない。

陽向「行けるのか……いや、行くんだ」

その時、目の前に何かが転がってきた。

陽向「これって。あの試合で履いていた……」
憂心「頼む! もう一度俺たちの夢を……」
陽向「そうだったのか……俺は、今までお前を、俺自身を苦しめていたんだな。本当にごめん」

陽向はうつむく憂心の肩に手を置いた。

陽向「憂心、俺は陽菜に会いたい。そのために……お前の力を貸してほしい」
憂心「当たり前だろ。そのために俺はここにいるんだから」

憂心は星空に向かって手をかざした。陽向もその手に合わせるように天へ腕を突き出す。
二人がハイタッチすると、憂心は陽向の中へと消えた。

スパイクシューズを履きアップをする。
調子は悪くない。走る感覚も身体が覚えてくれている。
むしろ心地良い緊張感でコンディションが最適化されている。

陽向「憂心のおかげだな」

あの日、陽菜と共に覗き込んだ一本道に立つ。どこまでも金色の向日葵の道が続いている。
陽向は深呼吸をして目を閉じた。陽菜の声が心に響く。

陽菜『……泥水の味を知ってる人はね、必ずこんな風にきれいに咲けるんだよ。それに……自分の心には嘘はつけないよ。キミの心がまだ夢を諦めきれないってそう叫んでるんだ』

陽向「陽菜……」

陽菜『まだここにある灯は燃え尽きてないんだよ』

陽向は、ゆっくり目を明けると、スパイクシューズの紐を結び直した。

陽向「向日葵畑の向こう側。この先に陽菜が……」

その瞬間、歓声が鳴り始めた。向日葵の道が、トラックのレーンへと変わる。

陽向「そうか、これはあの時の……」

どこからかあの時のアナウンスが聴こえてくる。

アナウンス「湘華東中学3年、青井陽向くん……」

陽向「またここに戻ってきたんだ」

あの時とは違い、空には無数の星々が輝き、タータンのコースを向日葵の金色の光が照らし出していた。
陽向はクラウチングスタートの姿勢を取り、スターターの合図を待った。
涼風がサラサラと向日葵たちを揺らす。

スターター「位置について……用意……」

陽向の腰が上がる。あの時の感覚は全く鈍っていない。全神経を研ぎ澄ます。
蝉声でむせ返っていたあの時とは違い、今は風の音が耳を通って星空へと抜ける。

その瞬間、砲声が静寂を切り裂いた。

力強く地を蹴る。瞬時に吹いた追い風に乗り、陽向は身体を前へと跳躍させた。
スパイクは地を捉え、強い推進力を創り出す。足首はその衝撃をしっかりと支え、その強靭なバネで体全体を前へ前へと押し出していく。

痛みは……ない!

涼風が身体を通り抜け、金色の向日葵が光の線を描いては高速で流れていく。

歓声が高まる。

その瞬間、強烈な向かい風が奥の方から吹き込んできた。
これまで経験したことのないような激烈な突風が前方から吹き込んでくる。
向日葵畑全体がゴォォォっという不気味な音と共に激しく揺さぶられていた。

途端に陽向の身体が起き上がり、前へ行こうとする力が一気に押し戻されていく。
前へ進めないどころか、気を抜くと後ろへ飛ばされそうだ。

陽向「このままじゃ……」

その時、憂心の声が響く。

憂心『陽向、負けるな! お前の全力ならこの風の先へ行ける!』

起き上がろうとする身体を必死に前傾に持っていく。もはやこの風に倒れかかるくらいのつもりでなければ、あっという間に後ろへ持っていかれる。まるで分厚い風の壁が立ちはだかっているかのようだった。

憂心『ストライドを抑えてピッチを上げろ!』

憂心の言う通りだ。通常の歩幅を伸ばす走法では、滞空時間が長くなり風の抵抗をまともに受けてしまう。陽向は腕の振りと連動させて足の回転数を上げ、蹴り出す脚に神経を集中させた。同時に痛めた足首に負荷がかかり、陽向の顔が歪む。

憂心『恐れるな! お前の足首は支えてくれる。信頼するんだ』
陽向「憂心……」
憂心『陽菜に会うんだろ! ここで負けたら一生後悔するぞ!』
陽向「そうだ。俺は陽菜に会うんだ!」

風のいななきはより一層大きくなり、猛獣の咆哮のような轟音へと変わった。

陽向「俺はこの先に……陽菜のいるところへ行くんだ!」

陽向の走りもここに来て変化の兆候を見せていた。ピッチを上げながらも、地面をしっかりと捉え、脚全体のバネを使って力強く前へ前へと跳躍できるようになっていた。
陽向の身体が風の壁を押し返していく。

憂心『あと少しだ!』
陽向「ああ! この先へ! 俺はこの先へ行くんだ!」

ついに陽向の身体が空を切り裂き、辺りに凪が訪れる。

陽向「壁を抜けた?」

手応えがあった。抵抗を弾き返した 瞬間に空間が反転し、その先へ抜けたような感覚があった。例えるなら、そう、ゴールテープを切るあの瞬間。

憂心『陽向、やったな!』

憂心がそう言ったような気がした。
その瞬間、先程までの向かい風が逆流し、すさまじい追い風となって、陽向の身体を前方へとふっ飛ばした。

??「陽向くん、陽向くん」
陽向「……」

風でふっ飛ばされて気を失っていたらしい。遠くから懐かしい温かな声が聴こえてくる。
暑さも寒さも感じない。また意識が遠のいていく。

??「話しかけてるのに無視かー!」

突然の大声に陽向は一気に現実に戻された。

陽向「……誰?」
??「声も忘れちゃったの? 私よ。陽菜」
陽向「……ひ、陽菜!?」

気がつくと傍に陽菜が立っていた。心配そうに陽向の顔を覗き込んでいる。

陽向「ひ、ひな?」
陽菜「何その素っ頓狂な声は」
陽向「本当に陽菜なのか」

紛れもなく陽菜がそこにいた。

先程の風は止み、静かな向日葵畑が拡がっている。
春のような穏やかな日が差し込んで、陽菜の後ろには穏やかな小川が流れている。

陽菜「こんなところまで来ちゃったんだね。しょうがないなもう」
陽向「俺は一体」
陽菜「キミは来ちゃったんだよ。こっち側の入り口に」
陽向「こっち側?……俺は向日葵畑の向こう側に……来たのか」

陽菜は困った表情を浮かべている。

陽菜「でも、ちょっと嬉しいかな。こんなところまで追いかけてきてくれたなんて」
陽向「陽菜、探したんだよ。あっちこっち。写真からも消えてて。俺、何が何だか」
陽菜「ごめんね。ちゃんと説明できてなくて。元々お盆でこっちに来てたんだ」
陽向「お盆でってことは、やっぱり……」
陽菜「うん……元の世界に戻らないといけない」

陽向の嫌な予感は的中した。帰ってしまうんだ、そう思ったらいても立ってもいられず、陽菜の手をつかんだ。
あの時と同じ、ひんやりとしたそれでいて熱い感覚が、手を通して心に流れ込んでくる。

陽向「考えられないよ! 陽菜がいない世界なんて!」
陽菜「はぁ……そういうこと思われると私も苦しくなるじゃない」
陽向「しょうがないじゃないか、俺は! 俺は……本当に……陽菜のことが好きなんだ! これからもずっと一緒にいたいんだ!」
陽菜「……陽向くん」

陽菜は困ったなといった様子でうつむいていたが、急にいたずらっぽい表情へと変わる。

陽菜「あ! そっか、そっかー。お姉ちゃんのことがそんなに好きか」
陽向「え?」

その言葉に陽向も一気に緊張感が抜けていく。

陽向「そうやってまた」
陽菜「お母さんたちから聞いたでしょ? 私と陽向くん、双子の姉弟だったんだよ」
陽向「聞いたよ。やっぱりほんとだったのか」
陽菜「と言っても私は生まれて来れなかったんだけどね」
陽向「何で言ってくれなかったんだよ」
陽菜「い、いや、それはあの……言ったって信じてくれなかったでしょ。はじめまして! 死んだ双子の姉ですって言っても」
陽向「……確かに信じられなかったかもしれない」
陽菜「それにいつも見てたってのは本当だし」
陽向「え?」
陽菜「上から見てた。陽向くんがずっとずっと小さい頃からね。でもここ最近は見えなくなったの。暗い闇の中に隠れたみたいになって」
陽向「それって俺が引きこもってたから」
陽菜「もう何も見えなくて何もできなくて。何回も何回も陽向くんの心にパンチしてみたんだけど全く気づいてくれないし。そしたらちょうどお盆だって気づいたのよ」
陽向「お盆……」

そういえば、陽菜と出会ったゲリラ豪雨のあの日が7月13日。関東地方ではお盆の始まりだ。そして今日がお盆の終わり。

陽向「そういう、ことか」
陽菜「この時だけは下に降りられるんだよ。だから決めたんだ。陽向くんを助けに行こう! って」
陽向「陽菜……」
陽菜「元気になってくれて安心したのに、私が上に帰るってなったら、またこんなになっちゃうし。うまくいかないね」
陽向「……」

陽菜は近くにあった向日葵の花をその顔に寄せ、目を閉じる。
何でこんなに向日葵が似合うんだろうか。陽向はその美しさに圧倒された。
やがて陽菜が静かに口を開いた。

陽菜「独りじゃない、って話したよね」
陽向「……」
陽菜「あれ、ほんとだから。ずっとみんなで見てるんだよ。いつも何かしてあげたい、助けになれたらって」
陽向「みんなで俺のことを……」
陽菜「そうだよ。それに私は陽向くんの魂とつながっているんだよ」
陽向「え?」
陽菜「双子だったからかな。魂がね、重なり合ってるんだよ。だから陽向くんの喜びも哀しみも私にはわかるんだ」
陽向「それでずっと見てきた……って」
陽菜「そうだよ。だからさ、これからだってずっとそうだよ」
陽向「陽菜……」
陽菜「楽しかったなー。陽向くんと過ごしたこの一ヶ月。やっぱりこんな楽しい世界ってないよ」
陽向「楽しい世界、か」
陽菜「楽しいじゃない。キャラメルコーヒーにかき氷、映画でしょ。それから花火大会。私はこの世界に生まれることができなかったから、今回が何もかも初めてだったんだ」
陽向「だからあんなにはしゃいで……」
陽菜「無理に頼み込んだ甲斐があったってもんだよ。ただ見てるのと実際に見るのとでは大違いだった」
陽向「もしかして俺のことを助けるのはそのついでだったり?」

陽向がそういうと、陽菜はクスリと笑った。

陽菜「それはそれ、これはこれ、よ」
陽向「何だよ、ずるいな」

陽菜は笑っていたが、やがて寂しそうな表情を見せた。

陽菜「ずっと一緒だってわかってるけど、やっぱり会っちゃうと寂しいもんだね」
陽向「陽菜?もう行っちゃうの?」
陽菜「うん。もう行かなきゃ」
陽向「お盆には降りられるってことは、来年も会えるんだよね!」
陽菜「一度きりなんだ。こういうのは」

陽菜は寂しそうに笑った。

陽向「そんな……」
陽菜「でも、忘れないで。陽向くんの痛みも哀しみも喜びも幸せも、全部私とつながってるんだよ。だから、自分のことを大事にしてほしい。そうでないと私の心も痛くなる」
陽向「……わかった。陽菜が悲しい想いをしないように、自分のことも大事にするよ」
陽菜「お願いね。もしまた私を苦しめるようなこと言ったり、やったりしたら、心にパンチしてやるんだから!」
陽向「わかった、わかったよ。もう絶対に悲しませるようなことはしない」
陽菜「そうだよ。憂心くんとも仲良くね。今の陽向くんなら大丈夫。私、信じてるから」
陽向「これで……本当に……」

陽菜は陽向を抱きしめた。

陽菜「あ、あと言い忘れてた……お誕生日おめでとう!」

そう言うと陽菜は川の向こうへ走っていき、白い光と共に消えた。
同時に陽向の意識も遠のいていく。

陽向「ああ……陽菜も……お誕生日おめでとう! そして、本当に……ありがとう……」

遠のく意識の中で、陽菜が最後に笑った気がした。

気がつくと陽向は向日葵畑の前に立っていた。長かった夜が明ける。
地平線の彼方に朝日が昇り陽向の頬に反射した。
何事もなかったかのようにまた一日が始まる。不思議と陽向の心は晴れていた。

陽向が部屋に戻ると、由利が入ってきた。

由利「陽向……ちょっといい?」
陽向「いいよ」

由利の手には小さな白い小瓶のようなものが握られていた。
小瓶には黄色い向日葵のリボンが結ばれている。

由利「これ……ずっとお母さんのタンスに仕舞ってあったの」
陽向「これって……開けてもいいの?」
由利「いいわよ」

陽向は由利から小瓶を受け取ると、静かに蓋を開けた。
中には白く小さな骨が納められていた。

陽向「これって……」
由利「陽菜よ。小さいでしょ」
陽向「これが……陽菜……」
由利「あ、あとこれ。いつの間にか一緒にあったんだけど何か知ってる?」

あの時の向日葵のかんざしだった。嬉しそうに手鏡を覗く横顔が目に浮かぶ。

陽向「ああ、よく知ってるよ。これ……」
由利「そう……じゃあ、陽菜ももうお母さんより陽向と一緒の方が幸せね」

由利はそう言うと、部屋を出ていった。

陽向「母さん……」

陽向は託された陽菜を抱きしめた。途端に複雑な感情が一気に込み上げてくる。

陽向「陽菜……本当にずっと……側にいたんだね」

【エピローグ】 想い


高校二年の夏。県大会100m決勝。

陽向は再びトラックのコースに立っていた。
相変わらず蝉の声がうるさい。白い太陽の光が優しく、そして強く陽向を包み込んでいた。

ーー あの白い太陽を見ると思い出す。あの夏を、そして君を。

スターティングブロックに足を掛け、飛び出してみる。
足首は陽向をしっかりと支え、大きな推進力を生み出している。

スターター「On your mark……」

選手たちがスターティングブロックで位置につく。
夏の日差しは全く感じない。陽向も静かにその時を待つ。

スターター「Set……」

陽向の重心が前方へ集まっていく。
全神経が研ぎ澄まされ、騒々しい蝉声が止んだ。
星空の下、金色のコースを走り抜け、陽菜に追いついた記憶。

陽向『陽菜はもういない。でもここにいるんだ。想いをゴールまで持っていくんだ』

目線が一気にゴール面へと張り付いた。呼吸が深くなる。

砲声が鳴り響いた。刹那に陽向の身体が風となってコースへ飛び出す。
周りに共に走るライバルや観客がいるはずだが、もはや視覚も聴覚のリソースは割り当てられておらず、陽向は一人走っていた。
あの時と同じように。

静寂と共に、あの時の向日葵畑のレーンが重なってくる。だが、あの時の風はない
誰もいないゴールが迫っていた。

陽向『あと、少し……』

その時だった。右足首に再び違和感が走った。あの時の暗い記憶がよぎってくる。

陽向『まだだ!』

風の壁を超えた時のあの感覚が、つい先程のことのように身体の記憶として思い起こされる。
右足の動きに集中する。足首はかろうじて地を捉えたがバランスが崩れて踏み込みが浅くなる。

陽向『失速する……』

その時だった。強い追い風が吹き、バランスを崩しかけた陽向の身体を前へと跳ね飛ばした。

陽向『追い風……持ち直した! いける!』

目の前にゴール面が迫る。陽向は上体を前傾に傾け、ゴール面に胸を突き出した。
空間が反転し、陽向の五感が戻ってくる。途端に会場から嵐のような歓声とどよめきが聴こえてきた。

電光掲示板に記録が表示される。

『男子100m決勝 1st 青井陽向 10秒58』

陽向は天を仰ぎ、『やり遂げた』実感を噛みしめた。
自校のテントへ戻ると学や陸上部員たちが、駆け寄ってきた。

学「やったね! 陽向くん! すごいよ! インターハイだ!」

皆が自分のことのように喜んでくれているのが見える。
陽向は胸が熱くなるのを感じた。

陽向「ありがとう! 俺は幸せ者だな。みんなにこんなに応援されて」
学「青井くんは、みんなの希望! エースで、目標だからね」
陽向「何か、はずかしいな……」
学「よーし、あれやるかー!」
陽向「お願い!」

学はクーラーボックスからアイスブロックを取り出すと、スポーツドリンクを注ぎ込んだ。

学「さて、青井くんのインターハイ出場決定を祝して乾杯!」

水しぶきが夏の太陽に煌めき、蝉声が激しくなる。
陽向は青い空を仰ぐと、白い光が目に飛び込んできた。

陽向「……陽菜、俺、自己ベスト更新したんだ。行くよ。インターハイに」

その瞬間、何か温かいものが陽向の心を強く叩いた気がした。


【前】
⑤ 向日葵畑の向こう側 【 第七場 】 寒蝉鳴


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