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[ネタバレ]花束みたいな恋がしたいを見た

こういう作品のレビューコンテンツを見る際、基本的にはあらすじから始めるものだと思う。ただ、正直つらつらと記載されているあらすじをちゃんと読んだことがない。なぜならだいたいが公式サイトからの引用だし、おおよその人は鑑賞した後にレビューブログを見る、もしくは鑑賞前でもYouTubeなどで、ある程度あらすじはインプットした状態で読むだろうから。

なので何が言いたいかというと公式サイトとYouTubeの動画を引用するのでそこを見てください。笑

これは恋愛映画ではない


恋愛映画ではないというと語弊がありますが、自分にとってこの映画は恋愛映画ではなく、20代という自分たちが歩んできた輝かしく、甘酸っぱく、ときには切ない恥ずかしい思い出の写し絵だと思います。

大学生に至るまでに醸成された価値観や文化、物事に対するあり方が、就職という一つの大きな転換期の中でステイとするか、方向転換するかを否応なく決断することになります。

そこには大きく恋愛と仕事、友情などが深く密接し、その狭間で我々は現実的な世界と理想的な世界を行ったり来たりしていく。

10代は多感な時期といいますが、僕から言うと20代はもっと多感な時期な気がします。

たしかに思春期ほど一つの事象に対しての情緒が不安定になったりはしないかもしれないですが、それもまだ過程であり、20代というフェーズで、より大きく揺れ動き、悩み、苦しみ、時には取り乱すこともあるはずです。なぜなら、10代の頃に比べるとより大きな社会に放り込まれ、そこで否応なく順応することを求められるからです。まだ20代の自分たちには、そのすべてを受け入れる度量は有りません。つまり20代も、10代とはまた違う多感な時期に突入するのです。もちろん30代以降でもそういうことはあります。ただ、ある種20代というフェーズを超えてようやく一つの区切りが見えるのではと僕は考えます。

そのため、20代も多感な時期であり、そこに社会性というものがより現実的中たちで我々にあり方を求めて、それに対して何かしらの決断を下す必要があります。

その決断の数、そしてその実像が劇中の麦くんの言葉の中にあった「責任」であり、10代以上に一つの事象の重さが重くのしかかってくるのです。

そういう意味でこの映画を見ると恋愛映画ではなくなります。人の営みにおいて恋愛映画ではというものがわかりやすい事象であり、恋愛という名の劇の中で、とある2人の決断を、それに至るまでとその後を描いているのです。

21歳から26〜27歳までの人の人生をのぞいた気分であり、麦くんが絹ちゃんかを選んだ僕らにとっての写し絵なのです。

麦くんという名の自分

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麦くんという男の子がどういう人間なのか、簡単に説明すると「常に自分のアイデンティティを模索している男の子」だと思います。

彼は明確にアイデンティティが確立してそうだけど? と思う人もいるかもしれません。ただ、僕の見解として、彼は本質的な部分では、空っぽな人間なのだと思います。

少し脱線しますが彼らの破局の要因の根本はここにあると思います。アイデンティティが確立していない麦くんと、確立している絹ちゃんという相反している二人が共通の趣味をもっているという結びつきによる交際のスタート。根本から彼らは価値観がずれているのです。

麦くんにとって「いしいしんじさん」も「今村夏子さん」もその時の自分の興味の対象でしかなく、絵も彼にとってはあくまでも長い人生の中での一つのアイデンティティになりうるかもしれなかった作業でしかなかった(本質的な絹ちゃんと表面的な麦くん)。

「アイデンティティを模索している」=中身が空っぽについて、わかりやすいエピソードとしては2つあります。

一つ目は、最初のGoogleストリートビューで自分の姿が写っていることを誇らしげにみんなに語るところです。その行為自体は大学生らしく可愛げのあるシーンではありましたが、その直前にイラストを描いている場面があり、そこからストリートビューで周りから称賛と承認欲求を得るところに違和感がありました。

あくまでも深く麦くんという人間を理解しているわけではないので間違っている可能性もありますが、麦くんがイラストを書くことを始めたのも大学生とかじゃないのかなという気がします。もちろんそうじゃない可能性もありますが、劇場版ガスタンクもいい例ですよね。ガスタンクも、イラストも一貫性がなく、おそらく麦くんはクリエイターとしてなにか作品が作りたかった。そういう思考ではないのかなと思います。実際ガスタンクも一作品だけだし、ガスタンクが好きなわりに部屋とかに写真を載せているわけでもなければ大したうんちくがあったわけでもない(数枚はもしかしたらあったかも)。

2つ目に絹ちゃんとの会話のシーンです。二人は出会った当初好きな作品・作家の系統が似ていることもあり意気投合します。有村架純が演じている絹ちゃんは自分と同じ系統の本を読んでいることに気づくと、次々と好きな作家さんの名前を連呼します。その中で今村夏子の名前に反応し『ピクニック』の感想を述べ、そこで絹ちゃんは再度自分と同じ趣味嗜好を持っている男の子の存在に感動します。

とまあ、この部分だけ切り取るとサブカル同士のカップルの馴れ初めみたいで微笑ましいですが、僕はこのときの麦くんのリアクション、ひいてはサブカル全般への彼のスタンスにやや違和感がありました。もしかしたら性格的な部分かもしれない(穏やかな麦くんなので)ですが、彼は彼女の好きな作家さんのことを名前は知っているがそこまで深く読んでいない(一応読んでいるとかそういうレベル)なのではと思いました。

確かに彼の本棚には絹ちゃんと同じ系統の本(というか彼女が好きだと言った本たち)がありましたが、それもはたして読んでいるのか作中で根拠となる部分がありませんでした。

さらにこの主張をより自分の中で確信的にしたエピソードがあります。それが後半の喧嘩の要因である演劇?映画?を麦くんがすっぽかしたシーンです。ここのシーンで彼は見に行く予定の作品を「昔、絹ちゃんが見たことのある作品」と勘違いしてしまうシーンがあり、絹ちゃんはいよいよ彼との関係の終わりを考え始めます。このシーンを見たとき、単に仕事の忙しさからではなく、彼の本質部分でのサブカルへの関心が元々なかったことを露呈したように感じます。今の彼はサブカルではなく仕事が自分の脳なシェアを占めており、強迫観念、社会性への従属、男としてのプライドから仕事が生きがいとなった。ただ、それらが彼のサブカルという趣味をふたしたのでなく、捨てたというニュアンスに近いのかもしれない。まさに絵もそういう理由だと思う。

僕はこの感覚がすごく理解できる。僕もよく文章を書くようにしているが、ただそれは、文章が僕にとって表現する方法として真っ先にアウトプットしやすい手段だったからにすぎない。例えば、動画や音楽、絵でも何でもいい。自分を表現できる方法があればそれでいい。それに手段は問わない。僕の周りにもそういう友人たちは一定いる。絵が書きたかったのではなく、表現がしたかったのだ。アニメーターとしてアニメが作りたいのではなく、ただアニメが好きでアニメに関わっていただけ。ギターが好きでギターをやっているのではなくただ音楽が好きでギターにこだわりがない。

絹ちゃんという女の子

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絹ちゃんについて語るというより、ある意味絹ちゃんみたいなサブカル系の女の子について語ろうかなと思います。

まずは僕としては皮肉だなと思ったのが、最初と最後のおそらく二人が別れて5年後くらいのエピソードで二人がたまたま違う恋人を連れて同じお店に出くわすシーン。絹ちゃんの彼氏はイケメンだけど、普通の男の子でした。それが良いのか悪いのかではなく、「あー結局そこに行き着くのよね」と思ったあたりが個人的にこの作品の一番秀逸なシーンだと思います。

絹ちゃんは普通の男の子が嫌で、麦くんと付き合います。彼女にとっての普通じゃないというのは俗に言う「ジブリ」しか見ない人たち「ショーシャンクの空に」がマニアックな作品だと思っている人たちなのですが、それすらも本来幼稚な発想です。麦くんのパートでも話しましたがそのような共通点で結びついているあたり二人の関係の限界見えていますね。

麦くんと別れたあとどうなったかはわかりませんが仮にオダギリジョーと付き合ったとしてもおそらくうまくはいかないでしょう。

彼女は恋人に対して、高校~大学のような深く自分を理解し打ち解け馬鹿笑いできるような友達を求めていたし、趣味友のように自分の趣味嗜好に対して一緒の目線で話せる友を求めていたし、もちろんキスをしたり、ハグをしたりなど恋人として当たり前のことを求めていた。

そんなこの世に何人いるんだ!笑

と思わず叫びたくなります。まあけど、これって誰しも10代~20代のときは通る道なのかなと思います。自分自身見に覚えがありますし、このときの恋愛って、ある意味恋人がいればすべていいといかそういう世界観だった気がするので、、笑

話は変わりますが、絹ちゃんについて語る上でまず何よりは着目したいのは環境だと思います。

両親は広告代理店で仕事は忙しいけれど、金銭的な部分では特に不自由はなかった。だから彼女は趣味の世界で生きてきたし、簿記の勉強をして一応会社員として入社するけれど「やっぱり違うな」ということで別の職につく。そのあたりの金銭的な感覚が麦くんの中では少なからずプレッシャーで、いつの間にか彼を追い込んでいたようにも感じます(追い込んでいたというより勝手に追い込んだというべきか)。

ただ女性としてはすごく魅力的な人物として表現されます。特に彼女が麦くんを惚れるきっかけとなった「電車に乗りながらではなく、揺られながら、と彼は言った」という一言は創作物を愛する女性ならではの着眼ポイントで、個人的には「揺られながら」と表現した麦くんにではなく、そこに対してキュンとしている絹ちゃんの人間性が素敵だなと思いました。やはり僕の中では麦くんと絹ちゃんの間でサブカルに対する知的温度が違いすぎて、絹ちゃんのほうがサブカルしているな-と思ってしまいます(そもそもサブカルて何やねんてなるけど)。

さて、ここで見出しについてふれますが僕にとって麦くんと一緒にいた絹ちゃんは女の子で最初と最後に登場した数年後の絹ちゃんは女性だと思います。ただそれは当然だと思います。絹ちゃんはしっかりした女の子だけど、心のどこかに大きな寂しさを抱いていて、その穴を埋めることに一生懸命、サブカルに費やし、創作に救われた側の人間なのだから。

もちろん彼女の心の寂しさはきっと家庭環境にあります。だから彼女は誘われた飲み会には断れず参加します。それが決して自分にとって楽しいものでなくとも、寂しさを埋めるための一つの行為として。

個人的にここの比較はオモシロイと思っていて、麦くんと絹ちゃんが出会った京王線の明大前駅。絹ちゃんは興味のない飲み会に頭数集めとして誘われ六本木に行き、よくわからないおじさんと話して終わる。ましてや麦くんは片思いだった女の子がいると聞いてカラオケに参加する。

絹ちゃんにとって麦くんはあの時代あの瞬間には必要な男性だったかもしれないけど心のどこかに何かしらのズレは感じていたのかもしれません。だから彼女は心酔していたブロガーの引用である「始まりは終わりの始まり」を海で思い出し、終わりが予見される(小さなズレ)ことわかりながらも離したくない存在である麦くんがいなくなって、突然精神が乱れたのかもしれないですね。

出会いと別れからの成長

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「花束みたいな恋がしたい」というタイトル回収がされたのは、麦くんと絹ちゃんが友人の結婚式の後、最後にけじめをつけるためにファミレスで話し合ったシーン。最初は別れ話も言おうにも言えないまま、もう一言が言えない麦くんに助け舟をだした絹ちゃん。ようやく彼らの恋愛も終わるのかなというタイミングで、別れたくない結婚しようと話す麦くんに対して、徐々にそれでもいいかなと絹ちゃんが傾きかけたタイミングで入ってきた若い男女。その二人を以前の二人と重ねる。そこで漏れ出る涙。

たぶんここがすべてだと思います。輝かしい時代。恋愛で一番楽しく、情熱的な瞬間。そこが懐かしく、戻れないと思いつつ、その時代が何より尊かった。そしてそこには戻れないとわかった瞬間。もうその瞬間別れるのは必然だった。そしてあの仮定があったからこそ彼らは成長できたように気がします。

あと最後絹ちゃんが麦くんの言葉に対して別れること意思に傾きがみられてのがすごく印象深かったです。絹ちゃんは本当に麦くんのことを愛していたんだなと思います。変わっていく彼を見ても必死に堪えていただろうし、そんな彼を受け入れようと必死だったのだと。

難しいのは、少なくとも、もし再開したときの彼らであればうまくいく未来があるようにも思えました。ただ彼らにとって彼らの関係は美しい思い出とともに終わっているんですよね。二人の人生の一つの大切な仮定としてきっと奥深くしまい込んでいるのだと思います。

そういう意味では僕はあの作品はハッピーエンドなのだと思います。彼らの恋愛においては終りを迎えたのかもしれないけれど彼らそれぞれの人生においてはとても素敵な思い出だった。

「花束みたいな恋がしたい」

通り過ぎた僕らが、花束みたいな恋ができたかどうかを振り返る作品

そんなふうに自分は感じました。

そしてどんな人生を送ったんだっけ。そんなふうに自分語りがしたくなる作品ですね。


画像参照元:https://hana-koi.jp/

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