水槽に閉じ込める

水槽に閉じ込める

退屈なだけの朝礼も終わって、温かな太陽の匂いがする教室。窓際に当たる陽の光は、ぽかぽか、と耳には聞こえない音を立てて眠気を誘う。
一緒に授業を受けるメンバーが変わっても、みんな見知った顔ばかり。
何かが物足りないような気がするけど、それは多分、浮き足立った周りにつられているから。
受験を控えた学年だし、部活だってもうすぐ引退。ちょっと寂しいな。
……でも、しょうがないよね。
慣れ切った空気の中、この学校で迎える三度目の春。係決めでわたしが引き当てたクジには、少し汚い先生の文字で『生き物係』と書かれていた。

『生き物係』の仕事はとても単純。教室内の『生き物』の世話をすればいいだけ。
理科の授業で役に立つから。そんな名目で、クラスごとに一つの水槽が置かれている。中には様々な『生き物』たちが暮らしていて。
うちのクラスの水槽には、小魚・水草・謎の貝。名前も種類も分からなくて、何人かに聞いてみたけど誰も知らなかった。あぁ、結局調べてない。……前のクラスでは確か、亀が泳いでたっけ。大変だったみたい、連れて来るの。
でも実際、クラス全員でまじまじと水槽の中を眺めたのなんて、多分一年であった観察学習のときだけなんじゃないかなぁ。
そう、それから、誰かが持って来た花を飾ることも大切な仕事。
全部空いてる時間に出来るコトだし、放課後に面倒な委員会もない係だから、実は結構楽だったりして羨ましがられる。
今日も花瓶の水を入れ替えようと思ったら、部活が同じ佳菜(かな)——あ、今年はクラスも一緒なんだった——が足早に駆けて行った。
廊下の手洗い場で、花の切り口と花瓶をすすぐ。水はきっかり七分目。元の通りに飾り直した頃、同じ速さで、わたし目掛けて、戻って来る佳菜。

「茉理子(まりこ)ぉ!」
「?」
「知ってた? 五組の転入生!」
「え、そんな人いた? 全然知らない」
「あたしも、さっき聞いたぁ。急だったとかで、始業式にも間に合わなかったらしーよ」
「そうなんだ」
「結構、カッコ良かったかなぁ?」
「佳菜、そればっか……」
「そんなコト言って、茉理子だってちょっとくらい気になるっしょ?」

気にならない、って言ったら嘘になるけど。廊下の端っこにある五組まで、走って見に行こうと思うほどでもない。野次馬の一部になるのはあんまりスキじゃないし。
だって、もし自分がそうされる立場になったらきっと、気持ち悪い。

「ん、まぁ、ほんのちょっとは」
「早速、見に行ってみる? 教えたげるよん」
「でももう、二時間目、始まるって」
「あぅ……」
「早く戻ろ」
「……う、ん」
「どしたの?」

普段は開けっ広げな佳菜が、珍しく歯切れの悪い言い方をするトキは大抵。

「……何か、ねぇ。五組の子たちが、ちょい変な話してんの聞いちゃってさぁ」

右の耳から左の耳へ。先生の流暢な説明が、するするするりと流れていく。
二年の単元を復習することはとても大切なコト。そんなことは分かりきっているけど、どうしても、佳菜の言葉が忘れられない。
急に訪れた転入生。
廊下の端っこ、五組にいる。
割り当てられたポストは『生き物係』で、わたしと同じ。
その彼が転入初日から、毎日毎日放課後に、夕陽が沈む時間までずっと、水槽の前でぼうっと立ち尽くしているらしい。
確かにその話だけを聞くと、すごく変な人に思える。けれど朝や昼間の言動はごくごく普通のようで、結構クラスに馴染んでるよーに見えたケドねぇ、と佳菜は言った。
係決めの後にたった一度だけあった『生き物係』の集会で、五組にある水槽でも何か飼育しないと、って先生が言ってた気がする。水草が生えてるだけだから、他のクラスから何かもらって育てさせないと、って。そのまんまなら余計楽そう、なんてぼんやり感じたのは瞬きの間。
それは多分、とても寂しい仕事。何をしたって、絶対に答えなど返らないのだから。
清潔にすれば健康に、餌をあげれば食らいつき、ちょっとでもからかえば不快と驚きを顕わにする。そんな眼に見え動く生命としての『答え』は、けして返らない。

……やっぱり、気にならないと言ったら、嘘になっちゃう。

今日だけは特別。放課後に、野次馬の『本体』になってしまおうと決めた。

春の陽射しは、案外簡単にその温もりを失ってしまう。薄さを感じさせる青から橙、やがて藍へと変わりゆく空。
心地よい温かみとぞくりとする冷ややかさが、身体を半分こにしようとする頃に窓際の席を立って。古い床がキィ……と軋んで、歴史をアピールする。
部活がなければ、いつもとっくに家に帰っている時間。誰もいなくなった教室に、夕方の太陽がたっぷりと光を注ぐ。まるで小さな四角い箱に、入り切らない量の水を注いでもなお、留めることを知らない小さなコドモみたいに。溢れる橙は廊下にも零れて、全ての影を無闇に伸ばす。
廊下を歩くわたしの影もまっすぐに伸びて、あり得ない身長の女子が足音を鳴らした。
突然、自分の教室までもが水槽みたいに思えて、びっくりする。

小さな箱は水槽で。溢れて、零れる橙の水。
小さな箱は教室で。溢れて、零れるわたしたち。

ゆっくりと考えながら歩いていると、すぐに目的の場所へと辿り着いた。頭上にある五組のプレートを見上げて、一応の確認。別にそんなコトしなくても、廊下の突き当たりにあるそこは絶対に五組なのだけれど。
開け放された教室のドアから中を覗き込むと、話に聞いた通りの光景が静かに、確かに広がっていた。佳菜の内緒話専用とも思える少し潜めたメゾソプラノが、再び耳元で響く気配さえする。もちろんそれは、わたしの頭の中だけでのお話。
あまり入らない他のクラスに初めて足を踏み入れる。普段吸うことのない空気。立ち入り禁止の場所に侵入したような気分。
自分以外の誰かがいることくらい、彼は気づいているハズ。別に、忍び足で踏み込んだわけじゃないもの。……けれども、彼は振り向かない。ただただ、水槽だけを見つめたまま。
光を透かした薄青いガラスの中、数本の水草だけがゆらりゆらりと漂っている。小石は綺麗に敷き詰められたまま、『生き物』の不在などとは微塵も関係なく、人工的な流れに晒され続けていた。
ブゥン、と微かに聞こえるモーターの回転音が妙に際立っていて、いつもだったらグラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声も、何かに吸収されてしまったように響いてこない。
モーターが懸命にその力を送り、その力を受け取ったプロペラは必死に水を掻き回し、水中に泡を吐いている。そのせいで水面には幾つもの泡が弾け、僅かに波が立っていた。
机を二つ隔てた距離まで近づいたとき、彼に何て声をかけようか迷う。よくよく考えたら、話すことなんて何も考えてなくて。
彼はまだ、振り向かない。わたしの存在なんて、きっとどうでもいいんだと思ってる。
……それって、ちょっと、ムカツクかも。
理不尽な苛立ちに身を任せて問いを投げた。それは、自分でも無意識の発声。

「……五組の、『生き物係』よね?」

逆光の中で振り返る彼の表情はよく見えない。
わたしに分かったのは、本当に驚いている、そんなコトだけ。

「わたしも『生き物係』なの」
「…………」
「廊下の端っこ。一組の」
「……そっか」

辛うじて聞こえた声は、少しだけ掠れて深かった。誰もいない教室で、一言も喋らないで、ただずっと水槽を眺める彼に話しかける人は、五組にはいなかったのかもしれない。
声変わりし始めたのかな、低くもなく高くもない不思議な男子の声音。背はわたしよりも少しだけ高い。でもまだまだ伸びそうで、ちょっと羨ましくなる。
純粋な驚きが、わたしの喉も乾かしてゆく。さっき、お茶を飲んどいて良かった。
会話は当然続かなくて、誤魔化すように笑って彼の隣に並ぶ。じっと水面を見つめる横顔には、まだ驚きが滲んでいて。
水槽の中には何も、やっぱり何も、いない。

「何も、いないのね」
「……うん」
「うちのクラスの魚、少しあげようか? ……小さいけど、元気だし、七匹もいるし」
「……ううん」

彼はふるふると、首を振った。
そうしてそっと横を向き、まっすぐにわたしを見た。その、水槽の底を眺める眼で。

「『生き物』は、いるよ」
「……え」
「ここに、ちゃんと」
「……?」
「ちゃんといるから、僕はここで見てるんだ」

彼が何を言いたいのかは分からなかったけれど、多分真実を言っているということ、間違ったことは言っていないということ……それだけは、分かった。本当の意味なんて全然分からなかったけれど、直感が、そうと伝えてきて。
だからわたしは、曖昧にだけど頷いた。
彼は、嬉しそうに微笑った。

「どうして、ずうっと水槽を見てるの?」
「僕は転校してばっかりだから」
「?」
「この水草が羨ましくなるんだ」
「……?」
「寄りかかれる泡があって、根を張れる砂があって」
「…………」
「……僕も」

閉じ込められたい。

……いつか、誰かに、閉じ込めて欲しい。

はっきりとした言葉にならない息遣いだけが鼓膜を揺らして、わたしに彼の声を伝えた。表情だけは相変わらず、柔らかな笑みを湛えたまま。それでも身体じゃなくて心から、目の前の彼は空中分解してしまいそうに儚く見えた。

寂しくて、淋しくて。
さみしくて、さびしくて。

橙色の眩い水が満ちるこの教室に、同じくらい溢れ零れていたのは、わたしが感じたことのない、多分この先感じることも出来ない『痛み』だった。
彼はそれだけ言うと、もう自分から話すことは何もないという風に、視線を再び水槽の中へと向けた。薄青いガラスに入る陽の光が、彼の横顔や制服やまっすぐな髪の毛を無遠慮に照らし出す。立ち昇る細かな泡、ゆらり舞う水草の微かな陰影が、静かにわたしたちの肌を這う。
わたしは何も言えなくて、わたしには何も判らなくて、しばらく彼と同じように水槽を眺めてみたけど、そこにある光景の中でわたしが拾えるモノは何一つなかった。
それでも、そうかといって、足音を鳴らしながら立ち去ってはいけない気がして。モーターの音だけが響くことを許されるこの世界に余計な音を混じらせないよう、息を潜めて窓の外を見た。

薄い空の青を凌駕する橙が、青よりも青い藍に凌駕されたのは、その刹那。
今日の太陽が、沈む。
昼が終わって、夜が、来る。
溢れた水は当たり前のように流れ、やがて在るべき底へと到る。
その『底』が何なのか、どこにあるのか、わたしにはまだ見当もつかない。
——そして彼にも、まだ。

「……また、引っ越すんだ」
「……え」
「話を聞いてくれて、ありがとう」

四ヶ月後、狂ったように鳴き騒ぐ蝉たちの声を聞きながら、彼は再び旅立った。
わたしはあの水槽の前で、本当に本当にたまにだけれど、とても小さなモーターの音に耳を傾ける。
夕陽が震えて落ちる、あの刹那を見る。
時々しなやかな尾びれ——結局、うちのクラスの小魚が三匹もらわれていった——をくねらせる水音が響くけれど、気にしないことにして。
空が瞬く間に塗り変えられる刹那を、彼が発見するのは一体、いつなのかな。
もしかしたらもうとっくに、見つけられたかもしれない。痛いほどの寂しさを乗り越えて、確かな自分の場所を見つけて、周りを見渡して、大きな声で、笑えてるかもしれない。
わたしには上手く理解出来なかった思いも、他の誰かには伝わっているかもしれない。
廊下ですれ違えば挨拶をして、目が合えば微笑んで、友達なのか何なのか、自分たちでさえよく分からない関係のまま。
佳菜に、茉理子って萩村(はぎむら)くんと知り合い? いつの間に! って言われて、初めて名前も知った。彼の名前を知らない自分に、そのときやっと、気づいたから。
多分、彼はわたしの名前なんて知らないと思う。聞かれたこともなかったし、共通の友達がいるかどうかも怪しいし。
それでも、別にイイんだって、思えた。

「話を聞いてくれて、ありがとう」

彼はきっと。自分がどこにも留まれなくて、誰の中にも留まれなくて、いつか本当に独りぼっちになってしまうんじゃないか、って。
きっと、ずっと、考えてた。
わたしはそんなコト、今まで考えもしなかったから、最初はその恐ろしさなんてほとんど分からなかった。
だけど今なら、少しだけ分かる。完全に理解は出来てないんだろうけど、ね。
『萩村』くんという人のことは忘れるかもしれないけれど、彼のことはきっと覚えてる。
……君のことは、ずっと覚えてる。

——いつか自分の場所を見つけたときに、綺麗に微笑んでいられますように。


水槽に閉じ込める 終
再掲元:個人誌「色葉言葉(いろはことのは)」2003/11/06

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