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【掌編小説】フラッシュバック
バシャッ、と頭の中でフラッシュが閃く。
ーーーーああ、まただ。
私は一人、溜息を吐く。私の意思とはまったく無関係に、過去の瞬間が鮮明に頭の中で再生される。皮膚に感じる温度や空気、匂いまでもが再現されて、私をその瞬間へと強制的に引き戻してしまう。
運転席でハンドルを握る私の横で、甘い笑みを浮かべているのは恋人の聡士だった。こちらを見つめるその瞳はどこまでも嘘がないように見える。私はその瞬間、確かに幸せを感じていたのだ。……そう、感じていたはずだったのに。
深夜の都会の街並みは、まるで映画の書き割りみたいだ。週末で浮き足立った雰囲気の中、どことなくよそよそしくて嘘めいた風景の中に佇んでいると、まるで自分が短編映画の主人公にでもなったような気がする。喜劇なのか、悲劇なのかは分からない。私にとっては悲劇でも、人からみれば喜劇ということだって、たぶんきっとよくある話だ。これが映画なのだとしたら、互いに無関心な人々の群れはさしずめ映画のエキストラだろうか。
「おっとっと」
私はつぶやいてブレーキを踏み込む。キュッ、とタイヤを軋ませて、わずかにつんのめりながら愛車の中古のミニクーパーが停止する。信号は赤。フロントガラスの向こう側で私の前を横切っていくエキストラはこちらをちらりとも見たりはしない。
(まあ、あちらにしてみればこっちがただのエキストラなんだろうけど)
そんな当たり前の事で無性に虚しくなる。三年付き合って、結婚もうっすらと考えていた恋人と別れて一ヶ月。身体の深いところに刻まれた傷はまだ癒えずに未だどくどくと血を流し続けている。それでも仕事は容赦なく追いかけてきて、しがない駆け出し写真家の私は生きるために必死で働かないといけない。今は隣県の山奥に住む建築家へのインタビュー撮影を終えて、ようやくの帰り道。はぁ、と溜息をつきながらハンドルに顎を乗せる。私はまだ助手席で微笑んだままの恋人の幻影にちらりと目をやって、どうにか振り払おうと髪の毛をかきむしる。
写真記憶。
それが私が持っている特殊能力。私は目に映った光景を映像としてそのまままるごと記憶することが出来るのだ。
便利な能力だと思うかもしれない。職業が写真家であるならなおさらだ。
ただし、それは記憶する瞬間を自分で決められれば、の話。
私はこの能力をコントロールできていない。
言ってしまえば私の頭の中にはまったく私と関係ない誰かがいて、勝手に私の視界を奪ってシャッターを切っているようなものなのだ。
何がくやしいかって、そいつは私よりもずっと写真家としての才能を持っていて、私の瞳に写った瞬間を狂おしいまでに見事に切り取っているということ。私が仕事で必死に、あるいは趣味でのんびりと撮影している時も、そいつは容赦なく私の脳内でシャッターを切り続けている。私は自分が撮った写真を現像する度に、私の頭の中のそいつと比べていかに自分が凡庸でありふれているのかを思い知らされるのだ。いったい何度カメラを放り出したくなったかしれない。それでも未だにしがみついているのは何故なのか。自分でももうよく分からなくなってきている。
ぼんやりと無感動に夜景を見つめる。身体はひどく疲れているはずなのに、頭の中が熱い。
バシャッ、とフラッシュが放たれる。
「ねえ」
隣の聡士がにこやかに話しかけてくる。
「もうちょっとドライブしようよ」
それは聡士のお決まりのセリフだった。免許を持っていない彼は、私の運転する車で夜の首都高を走るのが好きだった。私もそれは嫌いじゃなかった。彼が甘えてくることに悪い気はしなかったし、街灯に美しく照らされる彼の横顔を盗み見るのが楽しみでもあった。
信号が青になったと同時にギアをローへと入れてクラッチを繋ぐ。タイミングを合わせてすぐに二速へ、さらにアクセルを踏み込みながら三速へとギアを上げていく。すぐに次の交差点にさしかかる。そこを曲がればアパートへは程なくだ。
だけど私は交差点の真ん中でさらにアクセルを踏み込む。家路へと向かう角を曲がらずに、まっすぐ前へと進んでいく。
緑色の看板を目印に車線を切り替え、首都高へ乗る。料金所を抜けてアクセルを踏み込み、一気に加速する。轟音を放ちながらあたりを威嚇するトラックの隙間にミニクーパーをするりとねじ込ませる。マニュアルのギア操作も、クラッチとアクセルの踏み込み加減も、いまはもう随分と慣れたものだ。初めて首都高に乗ったときはあんなに緊張していたのにな、とふと思う。
再びフラッシュが閃く。
「ほら、もっとアクセルを踏み込まないと」
訳知り顔でこちらに指示を出してくる聡士の幻影はいまだ助手席に居座っていた。私の頭の中の誰かが切り取った聡士の表情はどこまでも優しくて、私は無性に泣き出したくなる。十分に加速してギアチェンジが必要なくなったタイミングを見計らい、そっと私の左手に手を添えてくるのも聡士の愛おしい癖だった。ぬくもりまで感じてしまいそうなそのリアルな感触に、本当に彼が横にいるんじゃないか、別れたという事実の方が夢なんじゃないかという気がしてくる。
夜の首都高はオレンジ色の常夜灯の光を投げかけてくる。オレンジ色に染まる車内で、隣の聡士だけは白いままに微笑んでいる。私の前からとうに消え去ったはずの彼の笑顔が、未練のように私の横顔に張り付いてくる。
フラッシュが瞬く。
「もっと速く、もっとスピードを上げていこうよ。夜はまだ永いんだし」
彼がささやく。いや、彼ではない。それはあくまで私の心の声のはず。
もしかしたら逃げだしたくなったのかもしれない。
(それは、何から?)
答えが分からないまま、私はただ逃げたい気持ちを足元に込めてアクセルを更に踏む。大型トラックを後ろに置き去っていくミニクーパーの横で、背の低いスポーツカーが追い越し車線を駆け抜けていく。
あっという間に小さくなる車体を見送りながら、あのスポーツカーと、私の車と、トラックと、それぞれ走るスピードが異なるように、彼と私もきっと生きる速度が違ったのだろう。それはきっと仕方のないことなのだ。仕方ない。そう、仕方なかったのよ。呪文のように言い聞かせる。
隣に座る彼を見る。私は今、高速道路を運転中なのだ。正面から視線を外してはいけない。理性は必死にそう訴えかけてくるのに、助手席を向いて彼と視線を絡ませたいという衝動に、私は抗えないでいる。
フラッシュが浴びせかけられる。
「捨てたのは君のほうなのに?」
彼が笑顔を貼り付けたままで問い詰めてくる。生気の感じられない白い表情が夜の闇にぽっかりと浮かんでいる。
(そうだったっけ?)
(いったいどっちだったのだろう)
(裏切ったのは、どちらだったのか)
私の頬に、彼の手が伸びる。
ゆっくりと、彼の方へと私は向き直る。
ハンドルから、手が外れていく。
私は、夜へと溶けていく。
後ろからトラックの轟音が追いついてくる。私を食らい尽くそうと、てらてらと光る牙を剥いている。
逃げられない。
そう思った私の瞳に、ちかりと飛び込んでくるものがあった。
ーーーー光?
それは、始まりを告げる光。
フラッシュの瞬きとは異なる、白い光。
いつの間にか、曙光が車内へと染みこんできていた。
夜が明ける。
古びた夜は過ぎ去って、新しい朝が生まれ始める。
白み始めた空から、朝の光が差し込んでくる。
ああ。
私は息を飲む。
これだ。この光景だ。
世界が光に満たされる瞬間。
私は初めて自分の意志で、シャッターを切った。
バシャッ。
フラッシュは光らない。
けれども私の脳内に、かけがえのない光景が刻み込まれるのが分かった。
クラクションと轟音を響かせて、大型トラックがすぐ脇を通り過ぎていく。私は止まりかけていたミニクーパーのアクセルを踏み込んで、すぐそばのパーキングエリアへと避難する。
ギアを落とし、パーキングブレーキを入れて、こわばっていた手をハンドルからゆっくりと引き剥がす。はぁっ、と吐き出した息は白い。車内はすっかり冷え切っていて、私は慌てて暖房のスイッチを入れる。
日差しが高くなるにつれて、ミニクーパーの温もりが私を包み込む。
私は穏やかな気持ちのままで、彼の事を思い出す。
横顔を眺めるのが楽しかったはずなのに。私の心を縛る未練は、冬の粉雪のように私の周りを舞い続ける。
私は今度こそそれを振り払うように、ゆっくりとクラッチを繋いでアクセルを踏み込む。路面を確かめるようにしてミニは静かに滑り出す。
一人で歩く道も、二人で歩くはずだった道も、たぶんきっと嘘じゃなかった。ただ、お互いのスピードが違っただけ。
私は私のスピードで、この道を走って行く。走って行くしかないんだ。
キラキラと輝く朝の光が、いつまでも私の瞳の奥できらめいていた。
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