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Fly me to the moon

「クリスマスには、どこへ行きたい?」

夕食後にキッチンで食器の洗い物をしている彼から不意に問いかけられたのは、今年のクリスマスの予定だった。リビングに面したキッチンカウンターの向こう側からこちらを見つめてくる表情は普段通りでなんの気負いもなく、夕飯のメニューを決めるときと同じくらいの気軽さが乗っかっていた。
そういえばもうそんな季節だったなぁとソファに寝転がってスマホをいじる手を止めて、なんとはなしに真っ白くて高い天井と、そこにぽっかりと空いた夜の入り口を見つめる。メゾネットタイプのこの部屋は1階のリビングの天井が高くて、天窓が付いているところがお気に入りだった。

年末までまだもう少し日数が残っているとはいえ、今年は色々とイレギュラーな年だった。二人ともがアウトドア派ということもあって最低でも月に一回は週末に一泊二日のプチ旅行に出かけるのが私たちのライフスタイルだったのだけど、今年はほとんどそんなことは出来ずに仕事の平日も休みの週末もおうちに引きこもる毎日だった。
 
二人で暮らすようになって随分経つけれど、いつの頃からかクリスマスには二人で遠出するのが私たちの決まり事になっていた。行き先を決めるのはいつも私の役割。毎年のように彼から「どこへ行きたい?」と問いかけられていたけれど、今年に限っていえばいつものように二人で混雑する場所へ遠出をするのはためらわれた。私はソファに座り直してふかふかのクッションを抱きかかえると、しばし目を瞑って考える。

「うーん、そうね……。今年はいつもとちょっと違う雰囲気のところがいいかな」

ちらりとキッチンに目をやると私の言葉に彼も素直に頷いていた。どうやら彼も同じように考えていたようだった。

「まあ、そうなるよな。いつもの年みたいにイルミネーションが綺麗なスポットとか、そういう場所じゃないところだよなぁ」
「うん。出かけるにしても今年は大勢が集まるところじゃないところがいいと思う」

そうは言ったものの、なかなかこれは難しい。皆がいつもと違う場所に行こうとしたら逆にそこが混雑してしまう、なんて懸念もある。それに簡単には誰も来られないような場所がいいんだけど、そんな場所なんてあるのだろうか。彼の様子をちらりと伺うと、無意識に洗った食器を食洗機に仕舞う手を止めて悩んでいるようだった。私が見つめていることに気がつくと困ったように眉根を寄せてこちらに助けを求めてくる。

「例えばさ、どんな場所がいいと思う?」
「難しいよね。だって人が来ない場所がいいんでしょ」
「そうだね」
「でも素敵な場所がいいよね」
「そりゃあ、せっかく出かけるんだしね」
「でも素敵な場所なら、きっと他の人も行きたくなるよね。だったらやっぱり混んじゃうよね」
「そうなんだよなぁ」

結局同じところをぐるぐる回るような議論になってしまう。人が来なくて、でも素敵なところ……。クッションを抱きかかえたままだらしなくソファに体をもたれさせて上を見上げると、天窓から見える空には上弦からわずかに膨らみ始めた月が浮かんでいた。

「……月、とか?」

私の目に映り込んだ、遙か遠く――――およそ38万キロ先に浮かぶ物体を、そのまま冗談めかして言ってみる。洗い物が完了して私が座るソファの横まで来た彼はきょとんとした顔で一瞬こちらを見つめると、意外にもその場で立ったまま真面目に腕を組んで考え込み始めた。夜になってうっすらと伸びた髭を腕を組んだまま右手でこすりながら思案顔だ。

「なるほど、月ね。……悪くないかもしれないな」

彼の反応に提案した私の方がむしろ慌ててしまう。見上げた先にある彼の顔を見つめながらふるふると首を左右に振って自分の言葉を否定する。

「いやいや、月って。宇宙飛行士じゃないんだから、行けるわけないじゃん」
「そうかな?いまやお金さえあれば宇宙には行ける時代になったと思うけど」

確かにアパレル通販サイトの社長がお金を払って月へ行くとは聞いたけれども、私たちにそんなお金があるわけがない。もちろんお金があったら月へだって行ってみたい。そこまで一息で考えて、いやいや待てよと思い直す。それより他にもまだ行ってみたいところがたくさんある。国外へ気軽に観光に出ることはしばらくは難しいかもしれないけれど、行きたいところ、憧れの場所はそれこそ星の数ほど挙げられる。ウユニ塩湖、エアーズロック、万里の長城、マチュピチュ、モンサンミシェル、王家の谷、南極、エトセトラ、エトセトラ。クリスマスだし、サンタさんがもしいるならばそれこそあちこちに連れて行って欲しいところだけど、それでもさすがに月へは連れて行ってくれないだろう。
……そのはずなんだけど、お金持ちの社長ではなく、ましてやサンタクロースでもない隣に座る彼の表情は妙に自信ありげだった。

「ちょっと考えとくよ」

なにかあてでもあるのだろうか、そう言いながら口の端に笑みを浮かべている彼に私は期待半分、不安半分の眼差しを送る。

「うん、いつものようにお任せするけど、無理はしないでよ?」

例年クリスマス当日の予定は目的地に着くまで彼にお任せなので、いつもの事と言ってしまえばそれまでだし、いくら無理したって月まで行く手段なんて思い浮かびもしなかったのだけど、それは久しぶりに心が浮き立つような感触で、その日は幼い頃に枕元に手紙と靴下を用意するような気持ちで眠りについたのだった。

***

師走とはよく言ったもので、なんとなく落ち着かずせわしない雰囲気が年末に向かうにつれてどんどん強くなっていくように感じられて、より一層時間が過ぎるのが早くなっていった。

そんな日々を必死に追いかけているうちにクリスマスの日はすぐにやってきた。今年はクリスマスは週末の金曜日に当たっているので、仕事を早めに終えてから急いで駅に向かう。例年よりも明らかに人通りの少なくなった街角は、それでもLEDのシャープな波長の光に彩られて今年もクリスマスを演出していた。駆け足でも人にぶつからない不思議さに戸惑いながら駅前に向かう。

駅前のロータリーで待ち合わせということで、駅の南北を結ぶ自由通路をくぐり抜けて南側に面したロータリーを見回すと、彼の運転するSUVが停まっているのが見えた。こちらに気づいて運転席で手を振っている彼に手を振り返しながら小走りに車に駆け寄り、助手席のドアを開けて乗り込む。弾む心臓を押さえるようにシートベルトを閉めていると、彼がエンジンをかけながらこちらに声をかけてきた。

「お疲れ」
「そっちもお疲れ様。今日はリモートワークだったんだっけ」
「そうそう。だからお迎えに上がりました」
「うむ。よきにはからえ」

彼は私の冗談めかした返事に小さく笑みを浮かべつつ、ギアを入れてアクセルを踏み込む。車はするするとロータリ-を抜けて走り出した。さて、はたして今日はどこへ連れて行ってくれるのだろうか。

駅前の混雑した大通りを抜けると、車はすぐに高速道路に乗り込んだ。どうやら随分と遠くへ行くらしい。助手席から後部座席をちらりと見ると、彼に言われて前日に用意しておいたお泊りセットが詰まった私の旅行バッグもきちんと乗せられていた。

高速道路の継ぎ目が生み出す一定のリズムは、どうやら睡眠導入効果があるらしい。昨日の夜は今日のことが気になって、子供のようになかなか寝付けなかったということも重なって、私はいつの間にか眠ってしまっており、彼の「着いたよ」という一言でようやく目を覚ますという始末だった。

私はシートベルトを外しながらゆっくりと周囲の景色を見回す。すっかり暗くなっていて遠くまでは見渡せないが、辺りは木々に覆われており、どうやらここは森の中らしい。寒い中でも街中とは違って、あちこちに生き物の気配が感じられた。そして目の前には丸太を組んで出来た立派なコテージが建っており、重厚な木材で出来た扉の前にはオイルランタンが下げられていて、暖かい雰囲気を醸し出している。

「ごめんね、いつの間にか寝ちゃってたみたい。ここは?」
「ここが今日の僕らの寝床だよ」

彼は二人分の荷物を持ちながら促すようにコテージの扉を開けて私を招き入れる。中に入るととても暖かく、床にはクリスマスカラーの素敵な絨毯が敷かれている。よく見るとトナカイが並んだ柄になっていて、目で追いかけていくと一匹だけ鼻が赤いトナカイが混じっているという遊び心にあふれたデザインだった。壁際には立派な暖炉が設置されていて、赤々と薪が燃え上がっている。暖炉の横には本物の樅の木を使った立派なクリスマスツリーが誇らしげに立っており、クリスマスの気分を盛り上げてくれる。

「素敵。まるでサンタさんのおうちみたいね」
「そういうコンセプトの部屋らしいよ」
「あれ、でもそういえばご飯はどうするの?」

リビングと思われる部屋には暖炉に面してゆったりとくつろげそうなソファが置かれているけれど、ご飯を食べるような場所は見当たらない。宿に着いてすぐにご飯の心配をするのも我ながらどうかと思ったけれど、今の時刻は夜の7時を少し回っていて、普通の宿泊施設なら夕食の時間だ。

「もちろん用意してあるよ。それはこっち」

彼が指し示したのは部屋の奥だった。そこは壁一面がガラス戸になっているみたいなのだけど、今はカーテンが掛かっていて外は見えない。

「なかなか素敵な演出だと思うんだよね」

そう言いながら彼がカーテンを引き開ける。私は思わず歓声を上げた。

カーテンの向こう、ガラス戸越しに広がっているのはまるで鏡のような湖面だった。目の前に広がるその湖にはコテージから繋がるように桟橋が架かっている。桟橋の両端には炎が灯ったランタンが並べられていて、夜空へ向かう滑走路のように視線を湖へと導く。桟橋の終端は広くなっており、テーブルと二人分の椅子が設えられていて、そこに食事が準備されているらしい。

私はガラス戸を開けるのももどかしく、桟橋へと踏み出した。桟橋は歩くたびにわずかに湖面にさざ波を立て、それがランタンの光に照らされて宇宙を渡る音波のように広がっていく。たどり着いた先で待ち受けていたテーブルの上にはクロッシュがかぶせられた皿が所狭しと並べられている。プレゼントの包みを開けるように一つ一つ中身を確かめていくと、中に隠されていたのはいかにもクリスマスらしい七面鳥の丸焼きをはじめとした料理の数々だった。

「冷めないうちに食べようよ」
「うん!」

湖面上は寒いかなと思ったけれど、幸いにも風はなく、テーブルを取り囲むように設置されたたき火からの熱で思った以上に暖かかった。加えて用意されていたホットワインは体を芯から温めてくれそうだ。ワインをそれぞれのグラスに注いで持つ。

「さて、それじゃ乾杯しようか」
「そうね」
「あ、でもその前に一言」
「?」

私が首をかしげていると、彼が誇らしげに目の前の湖面を指し示して告げる。

「月へようこそ。ご要望通りお連れしました」

風もない夜の湖面はまるで鏡のように広がっていて、静かに浮かんだ桟橋を取り囲むように頭上の月が湖面に映り込んでいる。私たちは、月の上に座っていた。頭上と、湖面。両方から差し込む月の光は、冷たい空気をほのかに暖めるかのように私たちを優しく包んでいた。

<了>


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