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歌うクジラ

覚えているのは、煙草の匂いと、弦を爪弾く音。

「クジラの死因ってさ、ほとんどが溺死らしいよ」

一戦交えた後のベッドの上で、重ねた枕にもたれてくわえ煙草でスマートフォンをいじりながら良介がこちらに話しかけてくる。ふーん、と手鏡を覗き込んで崩れた化粧を直しながら、気怠さの残る体でわたしは気のない返事を返す。

壁紙がうっすらとヤニで黄色くなったアパートの狭い六畳間には先ほどまでの熱気と湿気がまだこもっていて、煙草と汗の匂いが入り交じった空気が澱んでいる。安普請の薄い壁なので、行為の最中はボーカルをやっていて良く通る彼の声が隣の部屋まで聞こえそうなのが嫌だな、と思っていた。けど彼に言わせればわたしの方がよっぽど大きな声をあげていたらしい。自覚はない。あとはちらちらとわたしの顔にかかる彼の伸ばし放題のパーマがかった髪がやたらとくすぐったいことが気になっていたくらい。
彼はわたしの返事に構わずに一人で感慨深げにつぶやいた。

「そうだよな。やつらずっと泳いでるんだもんな。力尽きたら沈むだけか」

わたしは化粧の手を止めて、彼の方へ向き直る。

「なに、良介ってクジラ好きだったっけ?」
「いや、今度さ、Singing Whale、歌うクジラって名前でバンドやろうと思って」

輪っかの形をした煙草の煙をぷかりと天井に向けて吐き出しながら良介が言う。新しいおもちゃを買ってもらった子供のように嬉しそうな顔だった。

「また?こんどは長続きするといいね」

まったくそう思っていない調子でわたしは言う。
掠れているのに不思議と通る彼の歌声はとても魅力的だから、バンドのボーカルとして誘いは絶えないという状況ではある。だけどバンドの演奏に要求するレベルが高すぎるからなのか、いつもバンドが長続きしない。それでも懲りずにバンドを始めるのは、きっと音楽を絶えず続けていなければ満たされないからなのだろう。
まるで泳ぐのをやめれば沈んでしまうクジラのように。

彼のそんな姿勢に惹かれたところはもちろんある。だけれど、恋人としてはどこか満たされない寂しさを抱えているのも事実だった。バンドをやっていないときの彼の方がわたしに構ってくれるから、その点は素直に嬉しい。でもわたしが一番好きなのはバンドをやっているときの彼なのだった。どうにも矛盾した気持ちを持て余したままいつの間にか二十代の後半戦を迎えていたわたしは、彼との付き合いをこのまま続けるかどうかを本気で悩んでいた。

 そんなわたしの内心の葛藤にはまったく気がついていない様子で、彼はギターを手元に引き寄せると、上機嫌で鼻歌を歌いながら弦を爪弾く。それを聞きながら、いま世界で彼の歌声を聞いているのはわたし一人なんだと考えると、さっきまでの葛藤もすっかり頭の隅っこに追いやって自然と口元がにやけてくるのだった。

それは、今になって考えてみると、とても怠惰で、ひどく甘美な時間だった。


彼が自殺した、と人づてに聞いたのは、それから数年後の事だった。
わたしはその報せを、大きなお腹を抱えて産婦人科へ向かう途中の電車内で知ったのだった。わたしの中に新しい命が息づくのとまるで交代するかのように、インディーズのCD一枚だけを残して、彼は三十一歳で自らこの世を去った。カートコバーンより少し年上のその中途半端な年齢が、彼の悪あがきを感じさせてなんだかわたしは悲しくなった。

その報せを聞いた瞬間にわたしの脳裏に浮かんだのは、力尽き、歌うのをやめてゆっくりと海の底へ沈んでいくクジラだった。
暗く深い海の底へと沈んでいく意識の中で、彼は何を思ったのだろうか。



夫の会社が一棟まるごと借り上げて社宅扱いとなっているマンションの一室で、やることなすこと気に入らないイヤイヤ期の息子をどうにか寝かしつけると、わたしは一息ついてスマホの画面を開いた。動画アプリを立ち上げて、一番上のオススメに出てきたのは「Singing Whale」のライブ映像だった。観客の一人が撮影した映像だろうか、手ぶれがひどく画質も荒いその画面の中で、彼は笑っていた。ギターを振り回し、顔を歪ませながら心底楽しそうに歌う彼。

『楽しそうでしょ』

うらやましい?とでも言いたげに笑いながら、向かいのソファに座っている彼がわたしに問いかける。いつも近くに置いていた青いギターを膝に乗せて、なんとはなしに弦を爪弾いている。それはあの頃のわたしがいつも見ていた光景だった。
彼はいつの間にか口に咥えていた煙草を美味しそうに吸い込むと、輪っかの形をした煙をぷかりと天井に向けて吐き出す。天井のシーリングライトが、煙を受け止めてわずかにまたたいた。

『なんかつまんなそうにしてんね』

彼がわたしの顔を見つめて言う。わたしは首を振ってそれを否定する。

- そんなことない。ただ疲れてるだけよ

『それならいいけど、無理しちゃダメだぜ』

- ずいぶんと優しいのね。昔はもっと冷たかったと思ったけど

皮肉を込めたわたしの言葉を軽く受け流しながら彼が言う。

『死んだらみんな優しくなるのさ。これ以上悩むことがなくなるからな』

- それはいいわね。それだけはうらやましいかも

『それならどう?こっちにくる?』

- それもいいかな

そう誘ってくる彼の目はとても真剣で、そういえば付き合ってくれ、と言われたときにもこんな目をしていたな、と思い出す。甘い誘惑に心引かれそうになったとき、わたしを引き止めたのはくいくいと袖を引っ張る感触だった。

「ママ、だいじょうぶ?おなかいたい?」

振り向くと息子がわたしの袖を引っ張りながら心配そうにこちらを見ている。わたしはそれだけで、我に返ることができた。息子に優しく微笑みかけると、「ううん、いたくない。ママはだいじょうぶだよ」と答えて小さな頭をそっと撫でてやる。彼とは違う、ストレートでさらさらの髪の感触を手のひらに感じながら、「ごめん、やっぱ無理」と彼に向かって答えた。

『あーあ、またフられたかぁ』

パーマがかった髪をくしゃくしゃとかきむしるいつもの癖で苦笑いをしながら彼は言う。

「うそ。あのときフったのはそっちからだったじゃん」
『そだっけ?』
「そうやって自分に都合の良いことだけ覚えてるの、変わらないね」

いや、変わりたくても、もう変われないのか。

「まあ、謝っといてあげるよ。ごめんね、今はこっちのオトコに夢中なの、わたし」

意地悪い笑みを作りながら息子を抱き寄せ、彼に言ってやる。

『そっか。わかった』

彼はそう言うと、悲しそうな、でもどこかほっとしたような表情でギターを足下のギターケースにしまうと、それを背負ってゆっくりと部屋を出て行く。ギターケースを抱えた後ろ姿は、あの頃のわたしがいつも幸せと共に見ていた懐かしい景色だ。でも、今のわたしの幸せはその景色の中にはない。玄関の扉が閉まる音をどこか遠くで聞きながら、わたしは息子を腕に抱いて愛おしくその背中を撫でる。息子はこちらの服をぎゅっと掴むと体をこちらに寄せてきた。わたしはまだ頼りない命を抱きしめて、体温と鼓動を感じながらそっと目を閉じる。

目が覚めると、息子はまだおとなしく寝ていた。
動画の再生はとっくに終わっていて、知らないアーティストと子供向けの童謡がごちゃまぜになってオススメ画面に並んでいる。わたしは息子が好きな童謡の動画をタップして、小さな音量で流し始めた。寝ながらでもうっすらとは聞こえているのか、息子が嬉しそうな寝顔になって、わたしもつられて嬉しくなった。


ネットには今も彼の歌声が残っている。
電子の海の片隅で、クジラは今もひっそりと歌い続けている。

だからわたしはときおりこっそりと海に潜って、青春の残滓と共にそれを静かに聞きに行くのだ。


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