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虚無の声

目の前に座る老人が言葉を発する。
ぽっかりと空いた虚(うろ)のように大きく口を開け、喉を震わせて空気を振動させた、はずだった。

「――――。」

しかし老人の目の前に座っているにも関わらず、鳥越には発されたはずの言葉は全く聞き取れなかった。
最初は聞き間違いかと思った。老人が発した言葉を、たまたま聞き取ることが出来なかったのだと。

「ええと、すいません先生、いまなんと仰られたのでしょうか?」

鳥越は恥を忍んで問いかける。随分と畏まって、恐る恐る、といった様子だ。それはそうだろう、目の前の老人はなにしろ稀代の歴史小説家と称される人物であり、一方で鳥越は彼の作品を掲載している月刊誌の編集者だ。立場が圧倒的に違う。

それでも鳥越は恐縮しつつも「聞き取れなかった」と正直に述べた。気難しげな老人から下手をすると怒鳴り散らされるかもしれなかったが、聞き取れなかったのだから仕方が無い。

そうやって割り切れる、開き直れるところを見込まれてまだ入社三年目の鳥越が大御所の小説家である百道清玄の担当に抜擢されていた。本当のところは面倒を押しつけられただけなのかもしれないが、いずれにせよ理由については本人には与り知らぬところである。

実際に普段であれば大目玉を食らっていたはずの問いかけであったわけだが、幸運にもこのときの百道は珍しく上機嫌であった。

「分からんかね、今のが『零人称』だよ」
「はあ。……と言いますと?」

分かったような分からないような顔をして言葉を返す鳥越に得意げな笑みを浮かべて百道が答える。

「これはな、いま存在しない誰かを指す言葉だ」

鳥越は理解が出来なかったのか、ぽかんとした顔で聞いている。あまりに間抜けな表情だったからか、百道も少々心配になったらしい、「聞こえていたかね、鳥越くん」と睨みつけるようにして問いかける。鳥越はさきほどと変わらずに「はあ」と気の抜けた返事をしていまいち要領を得ない様子だった。彼は頭の中でさきほどの百道の言葉をゆっくりと繰り返す。「いま」「存在しない」「誰か」。

「それは、誰でもないのではないでしょうか?」

鳥越は頭に浮かんだ素朴な疑問を百道に投げかける。

「だからこその『零人称』なのだよ。これは革命的な表現だぞ」

興奮した面持ちの百道とは対照的に鳥越は未だにその凄さが理解できないでいた。誰でもないのならば、わざわざ呼び方など考えなくてもよいのではないだろうか。そうは思ったが、いかにも嬉しそうな百道の様子を見ると正直にそれを告げるのはさすがにはばかられた。代わりにお追従も含めて尋ねる。

「あの、それで先生はどうやってその『零人称』を発想されたのですか?」
「ほう、それを聞くかね。いいところに目を付けた。鳥越君も編集者として一皮むけてきたのではないか?」
「はあ、ありがとうございます」

褒めるつもりが褒められてしまった。機嫌は良さそうだしまあいいか、と鳥越は深く考えずに続きの言葉を待つ。

「昨晩のことだ。私が夜中に執筆していることは鳥越君も知っているな?いつものように原稿用紙の上に万年筆を走らせて、筆もいよいよ乗って半ばトランス状態、自動筆記にも近い状態となったそのときに突然とこの発想が降りてきたのだよ。衝撃に体を震わせるとはまさにあのような状態をいうのだな、うん」

腕を組んで一人合点がいったかのように頷く百道。

「そしてその発想に至った私に聞こえてきたのだ」
「なにがですか?」
「この『零人称』の発音だよ。これも天啓というのだろうかね、理屈よりも先に発音を理解したのだ」

半ば狂人の言葉のようにも聞こえるが、本人はいたって真面目らしい。鳥越はやっと先ほどの老人の行動を理解した。つまりあの鳥越にはまったく聞こえなかった老人の言葉が、彼の言う『零人称』の発音ということなのだ。

「しかしですね、私にはまったく聞こえなかったです」
「きみに聞こえなくても構わんよ。これは彼らに聞こえればよいのだからな。いや彼らというのも不適切なのだが、しかしきみとの会話においてはこう呼ぶしかあるまい。まったく、不便極まりない」

「?」と鳥越の頭に疑問符が浮かぶ。百道の言う「彼ら」とはいったい何だろうか。そもそも「聞こえてきた」というのもどうにもおかしいのだ。改めて百道の言葉を反芻する。「今/存在しない/誰か」を指し示す言葉。

……それはもう、この世の言葉ではないのではないか?

しかし百道には聞こえたというのだ。今存在しない誰かの声が聞こえたのだろうか。そして『零人称』はそれに呼びかける、またはそれを指す言葉だという。

ぞくり、と寒気がした。

先ほどの百道の言葉が聞こえていなくて良かったと、心底から思う。冷や汗が背中を伝う。その場にいることすら恐ろしくなってきた鳥越は百道の機嫌を損ねないように細心の注意を払いながらその場を辞した。


それから数日後。


編集部の乱雑に書類が積み上がった自分のデスクで校正作業をしている鳥越の元へ編集長が青い顔をしてやってきた。その表情ですぐさま鳥越は百道に何事かあったことを理解した。ここじゃなんだから、と近くの喫茶店まで連れて行かれ、話を聞いてみると予想通り、百道が自宅から突然失踪したとのことだった。

何かおかしな様子はなかったかと問われはしたものの、それに対して鳥越は口をつぐんだ。彼には数日前の百道のどこか異様な様子を上手く説明できる自信が無かった。表情を硬くしながら心当たりはないと告げる鳥越に編集長は不審そうな視線を向けたものの、それ以上問い詰めることはなく、場合によっては警察から連絡があるかもしれないが、きちんと対応するようにと命じられて会話は終わった。会計を済ませて喫茶店を出るタイミングで鳥越は編集長に百道の失踪の状況を尋ねてみた。

「まあ、どうにも要領を得ないところもあるんだがな。机の上の原稿はそのまま、コーヒーは飲みかけで普段から着ている和服が椅子の上にぱさりと落ちていたそうだよ。まるでさっきまで着ていたみたいな状況だったそうだ」

それは。


鳥越は考える。


それは、「届いてしまった」のではないか?

そう、百道は不用意に呼んでしまったのではないだろうか。鳥越はあの日の百道の様子を思い出す。あの、どこまでも暗い虚のように大きく開いた口を思い出す。言いようのない虚無がそこにはあった。

だから鳥越には百道のその『零人称』なるものが、「いま」「存在していない」「誰か」に届いてしまった、そんな気がしてならなかった。


「――――。」


虚無の声。

存在しないはずのナニカの声がふと聞こえた気がして、
鳥越はぶるりと一度、大きく身を震わせたのだった。


<了>


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