CATCH A COLD
あ、風邪を引いたな、と分かる瞬間がある。
それは背筋を走る寒気だったり、止めどない鼻水だったり、全身を包むだるさだったり、喉を圧迫する咳だったりさまざまなのだけれど、あるタイミングで確信に至る。
子供の時はそれでも元気に走り回っていたような記憶があるけれど、いつの頃からか風邪を引いたという自覚をもって行動ができるようになった。これが大人ということなんだろうか。
「風邪引いたみたい」
「大丈夫?」
週末の金曜日に家に帰るなり私がそう告げると、彼から返ってきたのは心配そうな顔だった。雨に濡れた子犬のような顔を向けられると、風邪も吹き飛びそうな気がする。
もちろんそれはまったくの錯覚で、家にたどり着くまでにだいぶ気を張っていたらしく、コートを脱いでリビングのソファに座り込んだ瞬間に倦怠感で押しつぶされそうになった。思わず声が出る。
「うわぁ。体が重い……」
彼がソファの横に座ってこちらに問いかけてきた。
「大丈夫?ご飯は食べられそう?」
「うーん……買ってきたやつはちょっと無理かも」
帰りがけにスーパーで軽めの惣菜を買ってきてはいたものの、あんまり食欲がない。
「じゃあおかゆっぽい物でも作ろうか?」
「うん。そうしてもらえると嬉しい」
彼は台所に立って冷凍庫に保管していたご飯玉で簡単なおかゆを作ってくれた。冷凍ご飯を顆粒タイプのほんだしで柔らかくなるまで煮込んでから溶き卵を入れて、塩で味を調える。
私はソファの前にずるずると滑り落ちるように座り込んで、ローテーブルの上にそっと置かれたおかゆを食べる。つけあわせの梅干しの酸味とおかゆのほのかな塩分がじんわりと体に染み渡って、ようやくほっと一息つくことができた。
誰かがつくってくれた食べ物って、なんでこんなにおいしいのだろうか。
子供の頃、風邪を引いたときに母親が作ってくれたおかゆを思い出す。あれは鮭フレークが入っていたっけか。
考えてみればおかゆってとっても特別で、普段から大量に作るものじゃない。風邪をひいたときなどに、私のためだけに作ってくれるもの、シンプルだけどスペシャルなものな気がする。
「ごちそうさまでした、おいしかった。ありがとね」
いたわりの味がしたおかゆを食べ終え、ついでのように目の前に置かれた市販薬を規定量分飲んでから、私は手を合わせて挨拶し、彼にお礼を述べる。
それからソファに深く座り直してゆっくりと伸びをする。体の節々にわずかながらの痛みがある。きっといままさに私の中の細胞たちが全力で風邪のウイルスにあらがっているのだろう。このご時世、一人一台は保有するものとなった体温計で熱を測ると37度2分だった。しんどいほどの高熱とまではいかないまでも、やはり数字をあらためて見るとなんだか体が熱っぽく感じる。
クッションを抱きかかえ、ソファにぐったりと体をもたれかからせる。洗い物を終えた彼がソファごしに頭の上から声をかけてくる。
「お風呂はどうする?」
「んー、今日はいいかな、明日元気だったら入るから」
「わかった。布団敷いちゃうから、早めに寝なよ」
「風邪がうつっちゃうかもしれないし、今日は別々の部屋で寝た方が良くない?」
私の言葉に彼はちょっと考えたそぶりを見せるけれど、達観した顔で首を振った。
「いいよ、いまさら別の部屋で寝てもしょうがないし。そもそもエアコンがここにしかないし」
確かにこの部屋にはエアコンが一台しかない。二人で過ごすには充分なのだけど、こういうときには少し不便でもある。
「わかった、ありがとね」
ソファで横になったまま私は右手だけ上にあげてひらひらと振る。
「……寝る準備はしないの?」
何かを察したのか、彼がこちらをじとりと見てくる。
「体がだるくて起き上がれない」
私がそう言うと、彼はやれやれ、といった風情でこちらに近寄ると、私の背中に手をかけて、よいしょ、と起こしてくれた。こういうときに思い切り誰かに甘えられるのは、なんだろう、なかなか悪くない。
「そのまま布団へ連れて行ってくれると嬉しいんだけど」
「そこまで甘えない。化粧だって落としてないでしょうが」
それもそうか。
私は重い体を引きずりながらどうにか化粧を落として、寝間着に着替える。枕元には念のためペットボトルの水を用意しておいた。普段と比べればだいぶ早い時間だけど、体を敷き布団と掛け布団の隙間に滑り込ませる。
彼は私と入れ替わるようにしてソファに座ると、電気を消して、さっきからずっと付けっぱなしだったテレビの音量を落とした。
「テレビも消した方がいい?」
「いいよ、少し音があった方が眠れるから」
テレビからはかすかに今日一日をまとめるニュースが流れてくる。
とどこおりなく今日が終わり、私は風邪をひきました。
今日を終わらせるのがなんだがまだもったいないな、と思いながら私は目をつむる。
「そういえば日本だと風邪を引くっていくのに、英語だと捕まえる、だよね。こういうところにも国民性が表れているんじゃないかと私は思うんだけど」
「いいから寝なさい」
いつの間にかこちらに近寄っていた彼にぴしり、とおでこを叩かれて、私はおとなしく布団のさらなる奥地へともぐり込んだ。ぶおおおん、とエアコンが懸命な音を立てている。春が近いとはいえ、夜はまだ寒いらしい。喉が乾燥しないといいけど、と思いながらやっぱり疲れていたのだろうか、私はいつの間にか眠りに落ちていた。
へっくしょん!!という盛大なくしゃみで目が覚めた。うっすらと開いたカーテンの隙間からは朝の光が忍び込んできていて、部屋の中に一筋の光の道を作っている。その道を渡るようにして横を見ると起き上がった彼が眠たげな目のまま鼻をかんでいた。
「もしかして、こんどは私が看病する番かな?」
私は布団にもぐったまま、そう言って微笑んだのだった。
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