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【星蒔き乙女と灰色天使④】死神はいつ返る


【6日目】死神はいつ返る


 あの衝撃から一日が経った。眠って起きても日常は変化なく続いていて、恐る恐る昨日行った場所にもう一度行けば、そこには確かに昨日の景色のままカフェがある。相変わらずボードにはカグラちゃんの可愛らしい絵が描かれているようだ。

 今日は「キオク喰べます」なんて奇妙な文面はそこにはなくて、本日のコーヒー、だとか、ケーキセット、だとか、普通のカフェらしいことが、可愛らしい丸文字で描かれていて、誰が書いたかすぐにわかってしまう。間違いなく、ホロさんの字ではないだろう。
 ぼんやりと書かれた文字を目で追っている間に、唐突に入り口のドアが開いて、カランコロンと鐘の音が響く。 

「おや」

 今はあまり会いたくなかったなぁ、と心の中で失礼な事を考えながら、店先に出てきたホロさんと目が合ってしまう。強い朝日に照らされていると、藍色の瞳もどこか明るい紫色に見える。
 そのまま通り過ぎるのもおかしな話で、仕方なく「おはようございます」と声をかけると、「おはようございます」と爽やかな声と笑みが返ってくる。とても昨日、悪魔みたく私を追い詰めた・・・・・・本人は全くそんなつもりなんてなかったと思うけど、人物だとは思えない。

 そういえば、昨日はなぜかほとんど気にならなかったけど、彼の髪色は冬の朝の新雪のように白く、日差しを受けてキラキラと輝いて見えた。
多分、ファンタジーとかでよく見る「白銀の髪」というのはこういう色の事を言うんだと思う。染めているようにも見えないし、元々そういう色なのだろう。とはいえ、アルビノというわけでもなく、余計に彼の怪しさを加速させている。

 カグラちゃんも綺麗な金髪・・・・・・にクリームを溶かしたみたいな淡い金色のセミロングで、二人が並ぶとファンタジーの世界に転生してしまったような錯覚を覚える。絵本で見かける女神様のような髪の色。
 仕事で、そういう系の本を扱いすぎて、最初は何かのコスプレかと思っていたのは二人には内緒だ。

「よく眠れましたか?」
 カフェのマスターにそんなことを聞かれるのも変だとは思いながら、「ええ、まあ」と曖昧な返事を返して、ちょっと無愛想だったかな、と「ミギのことを話せて、少しすっきりしました」と続ける。
 正直にいえば、二人に聞くだけ聞いてもらったおかげで思い出や考えも整理できたし、心が軽くなったのも事実。二人の記憶を一人で抱え続けるのは苦しい。

 ふとしたとき、「ミギと一緒に食べたらもっとおいしかっただろうな」とか、「一緒に遊びに来たかったな」とか、彼女はいないのに、彼女中心に物事を考えてしまう。
 二人がただ聞いてくれたから、一人で抱え込んでいた思い出を吐き出すことができて。胸の内に燻っていた思い出や消えてしまった未来を少しでも形として残すことができたから。
 もしかして「キオク、喰べます」とはそういうことだったのかな?と彼に問いかけようとして、声を発する前にホロさんの言葉が続く。

「またいつでも遊びにきてくださいね。神楽も喜びますから」
 昨日の様子では店主とお客のように見えた二人の関係は、私が思っているほど単純なものではないらしい。とはいえ、恋人とするにはあまりにも年齢差を感じる気もするけど、今時はそういうものなのかな?
 それにしても、なんというか、ホロさんはカグラちゃんのことを話す時だけ、声のトーンがワントーンあがるというか。もしかしたら、妹か娘みたく思っている節もある。いや、娘というには彼は若すぎるかな。

「それと」
 続くホロさんの言葉で、嫌でも現実に引き戻される。

「キオクについても。いつでもどうぞ」

彼の言葉の意味、それは・・・・・・あまりに非現実的で、日常から離れた提案で、一晩経った今でも信じられなくて。
「なんて、冗談です」と、昨日見せてくれた悪い笑顔が続くのを期待した。

「それでは、開店準備がありますので」
 ぺこり、と小さく会釈して、店の中へと戻っているホロさん。パタンと閉じるドアが、私たち二人と世界を再び遠く遠くへ分断してしまったように距離を感じて、彼を追ってドアを開いてもそこに彼はいないのではないか、と疑ってしまう。

「あれ」
 呆然と立ち尽くす私の背後から、明るく弾むような声。
「アキネさんですよね、偶然ですね!」
 名前を呼ばれて振り返れば、紺色のブレザーを着たカグラちゃんの姿。どうやら学校へ登校するところらしく、背負った丸みを帯びた黒いリュックが可愛らしい。

「・・・・・・カグラちゃん」
「顔、真っ青ですよ!ホロさんのところで休憩させてもらいますか?」
「ううん、大丈夫・・・・・・カグラちゃんも時間大丈夫?」
「はいっ、いざとなったら時間を止めてでも登校するので!」
 朝の彼女は元気3割増し、とでも言うかのようにテンションが高く、きっと学校でも人気者なのだろう。たぶん、毎日が楽しくて仕方ないタイプ。
「一人で大丈夫」と心配そうに私を見つめるカグラちゃんに声をかけ、「それにもう帰るところだから」と、彼女に私を置いて登校を勧める。
「とにかく、無理しないでくださいね」
 今日は早く帰って休んでください、と先生のようなことをいって、駆け足で駆けていく彼女の姿を目で追いながら、ゆっくりとした動作で家に向かって歩を進める。
 なんだかすごく疲れた、彼女が言うように今日は家でゆっくり休むことにしよう。
 
               ○
 
 白昼夢を見ていた。

 彼はあのとき、こう言った。
「私は、人の記憶を食べることができます。それは、思い出、とか、トラウマ、とか、いろいろな言葉に言い換えることができるとは思いますが・・・・・・とにかく、私が喰べることで、人は記憶を失うことができます」
 まるで翻訳機を通して英語を無理に日本語に変換したみたいな、そんな言葉。なぜそんなことになるかといえば、彼が言うにはそれが「人の認知の境界線から外れた力」だから。人のコトバで説明できない事柄を、無理に説明しようとしたせいで、そう聞こえてしまうのだという。

「例えば、アキネさんにはこの子の姿はどう見えていますか?」
 この子、でカグラちゃんを手で差し、カグラちゃんはきょとんと私の方を見つめてくる。金色の髪、灰色の瞳、少し着崩した高校の制服、白いブラウス、規定より短いであろうスカート丈。当たり前にこの世界にあるものと、どこか普通の人間離れした一部のパーツに、頭が混乱する。
「・・・・・・天使みたいだな、って」
 思わず零れた言葉に、自分で笑いそうになる。なんだそれ、高校生を口説いているのか、私。

「えーっと、大正解?」
 少し困ったように眉をひそめて、カグラちゃんが笑う。
「どう思われますか?」
 何事もなかったかのようにホロさんが問いかけてきて、混乱する頭でなんとか答えを導こうとする。
「それは・・・・・・驚く、かな?」
 普段からミギを見ていたせいで、驚きは少ないかもしれない。これまでもどこか、彼女に神秘性というか・・・・・・普通の人とは違う何かを感じていて、今思えばそれは恋愛というものが見せている幻なのだと、自分を無意識に納得させていた気もするのだ。

「アキネさんはおかしな方ですね」
 くすくすと可笑しそうにホロさんは言い、「普通、そんな答えは出てこないと思いますよ」と楽しそうに歯を見せて笑う。もちろん、白い牙なんてどこにもない。
「でも、別に詳しく知る必要なんてない」
 その場をはぐらかすかのように――これ以上話す気はないですよ、とでもいうかのように、彼は一度手を打って視線を集め「私が、あなたにとっての『蜂』になれる、とでも思っていただければ」と、緩んだ表情を戻して、視線で射貫くように私を見つめてくる。乾いた藍色の瞳が冷たく輝く。
 その言葉の意味を理解しようとして、背筋に悪寒が走る。「記憶」と「蜂」について、思い当たるものが一つだけある。
 彼が言う「蜂」というのは、きっと私の書いた小説に出てくる「青いしだれ桜に住む、記憶を食べる蜂」のこと。この世とあの世の境にある水辺に、一本だけ生えている蒼い桜。
 灰色の空とモノクロの水だけの世界でも、その桜だけは綺麗に色づき、迷い込んだものは色を求めて花に導かれていく。しかし、桜のカーテンに入り込んだら最後、そこに住む蜂たちに記憶を奪われ、失ってしまう――そんな話。
 でも、それを彼が知っているはずは・・・・・・というより、あの作品は未完成で未発表、私以外がその内容を知っているはずが、まさに記憶でも読まない限りは、なくて。
 コーヒーカップを握る手が震え、黒い液体がカップの中で激しく波紋を立てる。
 隣にいるはずのカグラちゃんの表情がよく見えない。さっきまで日差しが入り込んできていた窓からは、いつの間に雲が出てきたのか、台風の前のような薄暗い空が見え、急にブレーカーが切れたかのように店内の電気が消える。

 窓から入る薄明かりの中、人形のように動かない二つの影と、動けない私。生ぬるい風が店内に吹いて、突然の激しいアラーム音で目が覚めた。
 
              ○
 
 自分でもどうやって家に帰ったのか覚えていない。いつの間にかベッドに横になっていたらしく、かけた覚えのないアラームで目が覚めた。
 悪夢を見ていたらしく、ひどく喉が渇いている。着替えもせずにベッドに潜り込んだのか、出かけたままの服も汗でびっしょりだ。

 昨日の言葉、今日の会話、彼が言うことは本当で、私が彼に願うだけでミギのことを忘れられる。それはとても魅力的で、極めて残酷な二択。
 いや、今はこんなことを書いている場合じゃない、どちらを選んだにせよ、彼女との思い出はできる限り書き残しておきたい。・・・・・・もし、思い出を失うことを選んだら、この記録はどう私の目に映るのかしらね。

 できの悪い、夢小説とかいう類いの恋愛小説、あるいは自分の過去という名で知らない内容が書かれた、自分自身の気味の悪いノンフィクション。どちらにせよ、ろくなもんじゃないわね、と小さく息を吐いて、再び文章に集中する。そんなこと、記憶をなくした後で考えればいい。そうでしょう?
ねえこの日の私。何を考えていたの?これを見ている私、今はどう感じているの?
 
               ○
 
「あ、これ懐かしい」
「・・・・・・いい曲だね」
 ラジオの有線から流れる90年代の曲。この頃の歌はストレートなメッセージが多くて、今の流行りの曲らしい奇抜さはないものの、なじみ深く聞きやすい。
これから10年後、20年後、今の子供たちも同じ事を考えるのだろうか、最近の音楽はよくわからないって。

 デートと称してミギの車で海沿いの道をドライブ。彼女は音楽にあまり関心がなく、私が好きな曲だけで作ったオリジナルアルバムや適当に流すラジオが、彼女の車のバックミュージック。
「このアーティスト、今何してるんだろうね」
「さあね、今もどこかで歌ってるじゃないかな」
 ぼんやりと窓の外を見ながら――ミギの車ではあるけど、大抵運転するのは私だ、上の空で答えるミギに呆れながら、「そんなに海が恋しい?」と聞いてみる。
 ミギはやたらと海が好きで、理由を聞けば「青いから」なんて冗談めかして笑う。そんな気の抜けた笑みも好きで、よく意味もなくそんなことを聞いていた。そういえば、彼女の車も鮮やかなアクアブルーだ。
「んー・・・・・・そうだね」
 冗談をいう余裕もないのか、完全に呆けた表情でミギはそう言い「海、というより、その向こう側かな」と続ける。
「向こう側?」
 普段とは違う答えに質問を続けると、「そう」とだけ言ってまたぼんやり。

 話の続きを待って黙っていると、はっと気がついたようにこちらを向いて、「ええと」とごまかすようにはにかんで笑う。
「そこで終わりにするつもりじゃないでしょうね」
「・・・・・・はいはい、降参。ちゃんと話すよ」
 銃を突きつけられた犯人のように、両手を挙げておどけた後、苦笑いを浮かべるミギ。今日は珍しく表情の切り替わりが多い。車を運転しながらも彼女のことに気を引かれてしまい、我ながら危なっかしい。
「海の向こうに故郷があるんだ、地図に載らない島」
「・・・・・・からかってる?」
「あはは、そう思うよね、大航海時代じゃともかく、この現代社会で地図にない島、なんて」
 心底可笑しそうにくすくすとミギは笑って「信じなくてもいいよ」と少しだけ寂しそうに視線を落とす。
「でも、話だけは最後まで聞いて欲しいな」
 ラジオのボリュームを少し落として、彼女の話に集中する。パーソナリティの低く渋い声が波の音にのまれるように、小さく消えていく。
「そこには夜の空を溶かして煮詰めてジャムにしたような、深い尾藍色の花が咲き乱れ、星を散らしたかのように光る、羽虫たちが飛び回る。月の光が零れて溜まった泉に乙女は集まり――完全な夜がそこにはいつもある」
 おとぎ話のような彼女の言葉に緩やかに耳を傾けながら、海沿いの道をただ走り続ける。ガードレール越しに見える海は雄大で、そのどこかには彼女が言う「島」もどこかにあるような、そんな気がした。

「そこには星蒔きという種族が住んでいてね。夜空に星の種を蒔くんだ」
「星の種?」
 柿の種、と同じイントネーションで聞き返すと、少しだけ気分を害した顔をしながら、「そう、星の種」とアクセントに気をつけて、ミギは言葉を返してくる。

 彼女はどこかロマンチストなところがあって、せっかく興が乗ってきたのに、余計な水を差すなといったところか。一度拗ねると子供みたく我儘になる彼女のことだ、ここで期限を悪くさせても得はないわね、と素直に謝ることにする。
「ごめんごめん」と謝って、続きを催促すると、彼女はわざとらしく小さく息を吐いて「どこまで話したっけ」などと惚けて見せる。
窓から入る海風が気持ちよく頬を撫でていく。雲一つない空は澄み切っていて、心地よい午後だ。

「星蒔きのところまで」
「ちゃんと聞いてはいるんだ」
「もちろん」
 よく茶化してはいるが彼女が時々話してくれるファンタジーめいた話はとても好きで、時折想像力を膨らませて自分でも考えてみる。迷い家に迷い込んだ少女――大学生は少女と呼んでいいのだろうか、の話とか、付喪神と青年の淡い恋だとか。まあ、どれも未完に終わっているのだが。
「星の種は時期が来ると爆ぜるんだ、花火みたいに」
「見てみたいな」
「・・・・・・ふふ、そうだね」
 やっぱり彼女の作り話だったらしい、私は真面目ぶってそう返すと、彼女は小さく笑って「今度、花火を見に行こうか」と優しく微笑む。私の大好きな笑顔だ。
「たくさんの星が爆ぜて、煌めき、夜に帰る。まるでそこは小さな宇宙みたいな、そんな世界」
「ロマンチックね」
「そうでしょう?」
 私の方を一瞥して、再び海の方を見ながらミギが答える。遠くで白い鳥が飛ぶ姿が目に入る。
「そんな島が、あったらいいね」
 そしたら、いつか一緒に行こうね。途中から実話として話していたことを忘れていたのか、ミギはそういって、今度は寂しそうに笑みを浮かべる。まるで、この時すでに何かを悟っていたかのように。

 ・・・・・・そうだ、ミギはそれまでも、時々そんな笑みを浮かべて私を見ている時があった。あのときも、目を覚ましたらミギの顔が目の前にあって、びっくりしてつい手が・・・・・・ともかく。
 それに気づいた瞬間、ミギがどこか遠くに――私の知っていたはずの彼女の輪郭が急にぼやけて、全然知らない彼女の姿が浮かび上がってくるような感覚。
文章を書きながら、思わず頭を抱えてしまう。
 得体の知れない恐怖感、今日はもう、眠れそうにない。
 
               ○
 
 初めて彼女とキスをしたのは、こんな雨の降る、静かな夜のことだった。
 必要以上に距離を詰めてくることもなく、会社の内情も知っていて、愚痴も言いやすい。そんな彼女と遊びやご飯、お酒好きなミギに付き合って飲みに行くことも多く、改めて出会ってからは、月2、3回くらいのペースで遊びに行っていた気がする。

 これは遊びに付き合いだしてからわかったことだけど、ミギはお酒好きなくせにやたらと弱い。ミギの住んでいたアパートは駅から遠く、遊びの中心はやはり駅近の繁華街が多かったこともあり、飲みの後はよく「二次会」と称して、ミギは駅に近い私の賃貸マンションに泊まり込んでいた。

 長い夜を素面で過ごすのは味気なく、コンビニでお酒を買い足して、おつまみとしてスナックを開けたり、チョコたっぷりのエクレアをかじったりする、ミギにつられて食が進むせいで、私は2キロくらい肥えた気がする。対してミギの体型管理は完璧で、よく恨めしい気持ちで彼女の細いウエストを突いたのを覚えている。

 その日も私たちのお気に入りのお店で食事をしていて、会社の愚痴と最近ハマっているスマホゲームの話、スタッフの誰々に恋人が出来たとか、日焼け止めの話とか、くだらない話で盛り上がった。下手に気を遣わず、素直に話すことができる相手というのは本当に大切で、つい本心を隠しがちな私にはミギはとても居心地のいい、話相手だった。

 そのお店の店長さんは若い女性で、私たちとも気が合って、お店が空いている時は混じっておしゃべりをしたこともあったっけ。
彼女は今ごろ何しているだろうか。ミギがいなくなってからは、場所の記憶で彼女のことを思い出してしまうからすっかり足が遠のいた。
本当に記憶を失ったら、また遊びにいける日も来るのかな、そのときは・・・・・・誰と行こうか。

 また、ネガティブな思考に飲み込まれそうになって、慌てて頭を切り替える。せめて思い出の中だけでも、楽しい記憶で染めておきたい。
・・・・・・とにかく、そこでいつものように飲んだ後、呂律の怪しくなったミギを、引っ張ってそのまま家に帰ると、まるで空がタイミングを見計らったかのように、バケツをひっくり返したような激しい雨が降ってきて。
当たり前のように、「お邪魔します」と、まるで自分の家に帰ってきたように、青い靴紐が美しいスニーカーを玄関に放り投げて、私のベットにダイブするミギ。
「ちゃんと手を洗ってよ」と彼女の後頭部にチョップを入れて、冷蔵庫から水のボトルとコップを取り出す。今日のミギは妙に荒れていて、聞けばパン屋で理不尽なクレームをつけられたとか。仕方ないから、広い心で多少の我儘は許してあげようと思う。
「はいはい」とぶつくさ言いながら、素直に洗面所に立ったミギを横目に、自分用に買い置きの缶チューハイを開ける。お気に入りの桃のチューハイ。でも、最近はレモンサワーもいいなって思ってる。

「あっずるい」
「ずるいもなにも、私のモノでしょ」
 缶を傾けていると洗面所から戻ったミギが私を指さして文句を言い、私も臆せず言葉を返す。気の置けない関係が心地よい。
「それにアキも手洗ってないし」
「こっちで洗ったからいいの」
「あと、それ私のも」
「シャワー浴びてきてからね」
 そう言って、水の入ったコップを差し出すと、それを受け取りながら「アキが言うとなんかセクシーだね、それ」と妙に真面目な顔を作って冗談を返してくる。
 思わず飲んでいたチューハイを吹き出してしまい、目の前のミギにしぶきがかかる。
「・・・・・・ミギ!」
「あははっ、そんな動揺するとは思わなかった」
「動揺じゃなくて、そんな真面目な顔して・・・・・・もうっ!」
「はいはい」
 恋を知らぬ生娘同士じゃあるまいし、そんな冗談で顔を真っ赤にして恥ずかしがる、なんて事もなく、抗議の意味も込めて思い切りバスタオルを投げつけミギをお風呂に追い立てる。
 タイミング良く家に着いたとはいえ、先の雨で少し濡れてしまっている。私は部屋着に着替えればいいし、ミギはこうなることを見越して、最近は私服を何着かここに置いている。
 このままだらだらとお酒を飲み始めるとミギはそのまま寝落ちして、彼女は汗も化粧も落とさず、ベタベタのまま朝を迎えることになるだろう。
 一回それをやらかして、次の日ご機嫌ナナメのミギの相手をするのは骨が折れて、それからはお泊まりの日は真っ先にシャワーを浴びさせるようにしている。思い返してみると、なんともワガママな女ね、ミギ。

 ミギを待つ間、手持ち無沙汰でテレビをつけると、最近人気のお笑い芸人がネタをしていて、会場から大きな笑い声が響いている。
私も好きな芸人がいて、とあるお笑いの大会で賞をとったネタがすごく好きなんだけど、たまたま隣で見ていたミギに、あまりに笑いすぎてちょっと引かれた。
 ネタの内容は有り体に言えば下ネタよりなので、引かれるのは仕方ないとはいえ、ミギもミギでシュールネタを好みとしており、笑いのツボだけはどうも私たちはかみ合わない。シュールにはシュールの面白さがあるけれど、くすりと笑うならまだしも、あそこまで笑えるのはちょっと・・・・・・よくわからない。

 そのまましばらくシャワーの音をバックミュージックに缶チューハイを傾けながら、テレビを見ていると疲れが出たのかつい、うとうとしてしまう。
 気づくとシャワーの音は止んでいて、外からはしとしとと雨の音――もうすぐ雪の季節だろうか、洗面所からは彼女がドライヤーで髪を乾かす音が聞こえてきて、もうすぐ私の番かな、と立ち上がるための準備をする。
 一度お酒が回ってから落ち着いてしまうと、どうも起き上がることさえ億劫で、前に甘え半分でミギに引っ張って起こしてもらおうとしたら、そんな年でもあるまいし、とミギに呆れられたのをよく覚えている。それ以来、いくらお酒が回っていても意地でも手は借りないようにしているのは内緒。

「もうええわ、どうも、ありがとうございました」
 どうやらまた一ネタ終わったらしい。この人たちは最近は司会やワイプばかりで、ちゃんとしたネタを見るのは久しぶりだ。少し、新鮮な気分。あと、期待したほど面白くはなかった。

「あがったよ」
 ほかほかと湯気を立てながらミギがバスタオル姿でリビングに入ってくる。何度服を着てから戻ってこいといっても、直らないところが彼女らしい。せめて裸で来ないのがせめてもの救いか。

「あのさ」
「いいでしょ、女同士だし」
「最低限の」
「はいはい、ごめんごめん」
 思い返してみると、なんて女だって思う。それでも好きになってしまえば大体許せてしまうのだから、恋って不思議。・・・・・・ええと、少なくとも私はこれは恋だと思ってた。

「お酒、もらうね」
「いいけど、あがってくるまでに酔っ払って寝ないでね」
「善処する」
 少し不安を覚えながらも、バスタオルを持ってお風呂場へと向かう。化粧はミギを待っている間に落としておいたから問題なし。彼女もシャワーだけで済ませたようだし、少し酔っていることもある。私も今日はシャワーだけで済ませようかな――と、自分のお風呂事情まで事細かに書く必要はないよね。
 時間をかけて髪を乾かして、ミギの待つリビングに戻るとお笑い番組はすでに終わったのか、ドラマが始まっていた。犯人あてのサスペンスドラマで、食い入るようにミギがそれを観ている姿をよく覚えている。まるで探偵を気取るかのように顎に手を当て考えているのだから、愛おしい。
 顔がいいから一応の格好はついているとはいえ、机に所狭しと並べられたお酒の缶やお菓子の袋がせっかくの雰囲気作りを台無しにしていて、きっと今の彼女をキャラ設定するのであれば、コメディ寄りの美食探偵さんだろう。
 実は主題歌を歌っているのが好きなアーティストさんで、私も毎週録画して観ていたりする。
 夜も遅い時間帯のドラマなので、朝の早い私の仕事ではリアルタイムで観るのも厳しいこともあって、明日が休みでなければ最新話を直接観ることもなかっただろう。

「あがったよ」
「んー」
 よほどドラマに集中しているのか、気のない返事だけを返して、ミギはコップを傾ける。中身は色から見てレモンサワーだろうか。
「ねえ、これ犯人だれだと思う?」
「・・・・・・実は相棒が犯人、とか?」
「いや、私は実は旦那が二重人格だと思う」
 ある程度は真剣に、犯人当てを楽しみながらお酒を煽って、気がつけば日を跨ぐ寸前の時間。ドラマの終わったテレビを消して、雨が窓を叩く音を聞きながら、ミギとぽつぽつ言葉を交わす。

 不思議な夜だった。雨のせいで音が吸われて、いつもは聞こえる隣の部屋の生活音とか、窓の外の車の音とか、ほとんど何も聞こえなくて。月並みな表現だけど、まるで世界に私とミギの二人しかいないような、そんな錯覚。厚い雲が月を隠して、カーテンを閉めた室内はどこか薄暗く感じる。
 気持ちよく酔いが回って、隣でクッションを抱くミギがとても可愛く見えて、つい指で頬を刺すと、「どうしたの?」と優しく目を細めて。
「・・・・・・ミギのこと、好きかも」
 ぽろりと零れた言葉の意味もわからずに、その瞳に吸い込まれるように彼女にキスをした。
 彼女との初めてのキスは、桃の香りとレモンのお酒の味がした。
 
               ○
 
 それから何事もなかったかのように日々は過ぎて、あの夜はなかったかのように、私たちは遊びにいってはミギがうちに泊まったり、ミギの家にお泊まりしたり、それからは何事もなく夜を過ごし、朝になると解散した。
 たった一夜の些細な過ち、それで済むはずだった。
 
               ○
 
 今も雨が降っている。あの日違って静かな雨だ。
 あのとき観ていたドラマの結末は、みんなが期待していたほど劇的なものではなくて、批判も多く出たと聞いてはいる。でも、現実なんてそんなもので。いきなり主人公が殺人鬼になったり、死んだはずのキャラクターが蘇ってきたりするわけでもない。
 だからこそ人は起こるはずのない奇跡を祈るし、運命という言葉に逆らいたいと思うのかもしれない。私もこれを書くことで、私の愛したミギという輪郭を取り戻したいだけなのかもしれない。でも。

「譲れない」

 ミギはミギだ。彼女がどうあっても、私の愛した――愛しているミギだ。だから。
 彼女との思い出を書き続ける。もしかしたら、どこかに彼女の行き先のヒントがあるかもしれない。
 人が一人、何の痕跡も残さずに消えてなくなるなんてあり得ない。ホロさんにカグラちゃん、記憶を喰べるというカフェのマスター。私の周りで何か現代科学では解決できない超常現象めいたモノが起きているのかもしれないと、そんな考えに行き着いてしまう。
 どうやら頭が混乱しているらしい、どうも文章がまとまらない。少し、筆をおいて休もうか。
 眠れない夜、よくミギが作ってくれたホットミルクを飲んで、少し休もう。
 
               ○
 
 夢を見ていた。いつの間にか眠っていたらしい。
 
「おはよう、アキ」
 声がした方を見ると、見慣れたミギの姿があって、こんなに寒いのに肩紐の外れたキャミソール一枚だけ、というのは少々ネジが外れているのではないか、と我が恋人ながら疑ってしまう。
「どうしたの、そんな怪訝な目をして」
「ううん・・・・・・何でもない」
 少し頭がぼんやりする。長い長い夢を見た後のような。
 軽く頭を振って、目をこする。部屋は暖房が効いているのか暖かく、布団の中にいると確かに少し暑いくらい。目覚ましに熱いコーヒーが欲しくなる。
「んー・・・・・・」
「どうしたの、今日は甘えん坊だね」
 ベットの上で半身を起こし、隣でくつろぐミギのお腹に頭をおいて、ぐしぐしと犬がじゃれつくように抱きつく。なぜだか温かな感触が懐かしい。昨日も一昨日も、ミギはそこにいたはずなのに。
 ほっそりとしたミギのお腹は引き締まっていて、腹筋は軽く戦が入るくらい。私も絞ってはいるとはいえ、ここまで筋肉質ではない。少し、嫉妬する気持ちもあったり、なかったり。
 ぽんぽんと頭に手を置いて優しく撫でてくれるミギの手。この手で触られるとすごく安心できて、もう一度眠りの世界に落ちていきそうになる。
「今日は仕事もお休みなんでしょ?」
 まるで、もう一度お眠りなさい、とでも言うかのようなミギの声に、一度開いたまぶたが再び閉じてしまいそうになる。体がまるで自分のものではないかのように、動かない。眠い。
「ゆっくり、眠るといいよ。目が覚めたら――」
 声が遠のいていく。静かな暗闇がすぐ目の前まで迫っていて、そこで初めて危機感を覚えた。
 ここで目を閉じたら、二度とここには戻ってこられない、そんな嫌な予感。そんなこと、あるはずないのに。ミギが私のそばからいなくなることなんて、あるはずない、それなのに。
 捉えようのない不安が胸を覆い尽くしていく。きっと、悪い夢を見たせいだろう、どんな夢かは忘れてしまったけど。
 確か――金色と白銀の――なんだろう、思考の輪郭がぼやける。世界がまどろみに沈んで、どろどろに溶けて消えていく。

「――そこに、私はいないけれど」
 
 はっと目が覚めた。いや、悪夢を見て飛び起きたといった感じか。
「・・・・・・ミギ?」
 遮光性の高いカーテンを使っているからか――そういえばこれもミギの希望だった、朝日がまぶしいということもなく、隙間から零れ入る光が心許ない。
 本当に朝かと立ち上がり、カーテンを開けると、昨日の大雨が嘘のように、冬にしては珍しいくらいに太陽が輝いている。
「ミギ?」
 激しく動悸がする。自分の波打つ心臓がうるさい。胸を押さえながら、よろよろと広くはない部屋の中を歩き回る。
 ミギからの返事はない。そういえば、今日は仕事の日だっけ?パン屋さんは朝が早いらしく、休日私が起きる頃には、すでに出発している、そんな日も少なくはない。
 でも、そういうときもミギはしっかりしていて、私の分の朝食も用意してくれている。ミギの淹れてくれるコーヒーは私の朝の楽しみの一つで、あれを飲むと今日も頑張ろう、って気持ちになる。
「・・・・・・」
 急にしんと静まりかえった部屋が怖くなり、リモコンを手に取って、テレビをつける。朝の情報番組が流れ出して、アナウンサーがニュースを読む声が部屋の中に響いた。
 そういえば、すごく寒い。暖房がついている、と思っていたけれど、ストーブもエアコンも全く動いている様子がなく、珍しいなと思う。ミギは極度の寒がりで、冬は必ずどちらかをつけていた。こたつも欲しいと散々言われたが、それはもう少しお金が貯まってから、と却下していて、こんなことならあのとき買ってあげればよかったな、とも思ってしまう。
 キッチンに隣接しているテーブルには何も乗っておらず、対面に並べられた椅子は、まるでしばらく誰も座っていないかのように、片方には薄く埃が積もっていた。
 もちろん、朝ご飯が用意されているはずもなく、今日も私は当たり前のように一人だ。
「あああ」
 ぽつりと零れた独り言は誰にも届くことはなく、ただただテレビからは無機質な音声だけが流れている。
「あああああっ!」
 叫ぶ。近くにあったクッションを掴み、ベッドへ投げつける。堪えきれなくなって、トイレに駆け込んで、胃の中のものを吐き出した。昨日はほとんどご飯を食べられなかったせいか、酸っぱい胃液ばかりが水面を跳ねる。
「・・・・・・」
 もはや言葉すら出て来ない。なぜ。なぜ、あんな夢を見せたの?
 最後のミギの一言が、ぐるぐると頭の中をリフレインする。まだ、じゃれついた頭の先に、彼女の体温と肌の柔らかさが残っている気がして、知らぬ間に涙が零れた。

               ☆

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