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インタビューゲーム61~70人目#18

「100人とインタビューゲームをやったら人生変わる」
 そんな言葉に感化されて、僕は100人とインタビューゲームを始めることにした。10人と終えるごとに振り返りを書いていて、この記事は61〜70人目の記録。

 この間、約1年(2018年9月〜2019年9月)かかっている。これまでで最も時間がかかった。単純計算で月に1人未満のペースだ。これほどまでにやらなくなったのは、単純に必要度が低くなっているからかもしれない。

強烈な飽き

 毎回終わるごとに個人的な振り返りを書いている。63人目の時にこんなことが書いてあった。

なんだかインタビューゲームをやるプロセスに微かな退屈さを感じている自分がいた。それは相手の方がどうこうというわけではないし、インタビューゲーム自体には毎回気づきも学びもある。
ただ、「なにかしらの発見がある」とわかっていることが予定調和になってきている。
毎回違う人とやるし、状況も変わるのでまさしく一期一会だから、やれば面白い。だから、そこで起こる具体的な内容ではなくて、サイクルそのものに飽きている。
初期に感じたえも言われぬ衝撃が懐かしい。もう一度燃え上がる発火剤を求めている。これが一時的な状態なのか、それともずっと続くのかよくわからないけど、それでも僕は続けていきます。

 正直、僕は飽き飽きしていた。インタビューゲームというものに。
 同じものを食べ続けた時の感覚に似ている。不味いとも思わないし、嫌じゃないけれど、もういらないのだ。

 だから、64人目以降は相手から誘われない限り、やらなくなった。その結果、これだけの時間がかかった。69人目の後70人目とやるまでに約5ヶ月の合間があった。

 けれども、飽きたから辞めるのかと言われたら、そうじゃない。
 飽きてからが本番だ。
 それをしみじみと感じている。

 もし家族、友人、恋人と身の回りの人と関わることに飽きるたび、関係性を断ち切って生きていたら、その先に待っているのは孤独だ。
 よって、人は飽きるのを恐れ、手を替え品を替えて他者との関係性に非日常的な刺激を持ち込もうとするのだろう。飽きがくるのを引き延ばそうと躍起になっている。ただ、それでも長く続けば飽きはやってくる。

 だからこそ、飽きてなおその関係を続けることが大事だと思っている。インタビューゲームへの飽きを通して、僕はその取り組み方を学んでいるのかもしれない。

 虫歯予防を頑張ったけど、虫歯になってしまって残念と諦めて歯を抜くのではなく、その虫歯とどうやって付き合っていくかということを考える姿勢も必要だと思うのだ。だって、人間は虫歯と違って、穴を埋めたり、抜いて入れ歯をつけたりできないんだから。
 いや、本当は不可能じゃないけれど、代替できるような人との関係性なんてさしたる重要性はない。

 飽きることに対して、逃げるでもなく、排除するでもなく、向き合ってきた僕は1つわかったことがある。
 飽きることもまた永遠に続くわけではないのだ。「飽きる」状態に飽きる。それを証明するかのように、インタビューゲームを自発的に行う意欲が徐々に湧いてきている。

抽象的なレベルに引き上げる

 飽きることに慣れて思うのは、抽象化の重要性だ。
 1つのことを具体的なレベルで考えていると、やがて身動きが取れなくなってしまう。工夫をしても小手先のことは限りがある。

 だから、その対象を見直して、1つ抽象的なものとして捉え直す必要があると思う。犬の種類を挙げていたらすぐになくなってしまうけれど、動物の種類と考えたら一気に選択肢が広がるようなものだ。

 インタビューゲームで行われていることは、端的に言えば「聞いて、話して、書いて、読んで、振り返る」だ。その範囲だけをインタビューゲームだと捉えたら、できることは限られているし、実は100回もやる必要はないのではないかと思う。

 ただ、実際にはそこに至るまでのプロセスがある。
 いつ、だれと、どこで、どのようにやるのか? また、終わった後はその人とどう関わっていくのか? そうしたインタビューゲームの前後までを考えて行うようになると、飽きた状態の中に光明が見えた気がした。

自信なんかつかない。だけど、自信はいらなくなった

 インタビューゲームに関心を持っている人の中には、新しい能力に目覚めることを期待している人がいるかもしれない。だれとでもすぐに打ち解けられるとか、深い繋がりを得られるようになるetc...。
 それがまったくないわけではないが、なにか新しく身につけるよりも、自分の中の雑音に気づき、取り除いていくということが大きいと個人的に感じている。

 インタビューゲームを始める前の僕は、コミュニケーションに自信がなかった。人の目をまともに見られないし、話していても言葉に詰まってしまう。
 70人とやったいまはどうだろう?
 まだ道半ばではあるけれど、スラスラ喋られるわけでもないし、自信なんかついていないし、これからもつかない気がしている。

 ただ、変わったこともある。
 そもそも自信を必要としなくはなった。

 自信があろうがなかろうがあんまり関係ない。自信がなくたって、人と関わらなければいけない瞬間はあるし、自信があったって思うように意思疎通ができない時もある。

 自分のやることに、自信の有無はそれほど左右されない。だから、自信があってもなくてもいいのだ。「もうちょっと自信が持てれば……」と思うことにさほど意味はない。結局やらないのは、やりたくないだけだ。

 人と関わることって、正直メンドクサイ。
 自分の伝えたいことを相手は簡単に理解してくれないし、相手の言いたいことも正確に受け取れない。余分なやりとりが増えて、もどかしさは募るばかり。けれども、わかりあえないからこそふと通じ合えた瞬間の喜びを噛み締めることができる。

 それこそが醍醐味なのかもしれない。
 70人とやって、そう考えられるところまではきた。

 さて、80人と終えた時はどう変化しているだろうか?

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