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『世界は贈与でできている』読書会の振り返り

2022年7月〜2023年5月まで『世界は贈与でできている --資本主義の「すきま」を埋める倫理学--』の読書会を全9回実施しました。本が9章立てなので、毎回1章ずつ輪読して、対話を重ねていく形で進行していきました。

今回、最終章までを終えたので、区切りとして振り返りを書きました。

なお、なるべく本の内容には直接的に触れないように書いていますが、一部引用があります。まっさらな状態で読みたい方は、先に本を読まれることをオススメします。

不思議な経緯

まず、この読書会は、とても不思議な経緯で続けられてきました。

最初の1回目は、僕が本書を読んだことがきっかけでした。 何気なく手にとって読んだ本書に感銘を受け、しかし所々難解であったり、手放しでは賛同できない内容もあったりして、もっと読み解きたいと思いました。

そのために、とにかく色んな人の意見も聞きたいという一心で、僕は人を集めて読書会をしました。その時点では、熱意と衝動に任せて始めたので、次のことは全く考えていませんでした。
1回が終わった時点で僕自身は満足していたのですが、参加者から次も読みたいとの声が上がり、2章もやることになります。

この時点で、僕は絶対最後まで読むことはないだろうと思っていました。毎回1章分を読む特性上、途中から人が参加しにくいからです。参加者が尻すぼみに減っていき、途中で終わると予想していました。

だから、自分の中で2つの条件を決めました。

  • 読書会の最中に「次もやりたい」と参加者から声が上がること

  • 最低開催人数(4名)を満たすこと

この2つの条件が満たされなくなった瞬間に、打ち切るするつもりでした。

けれど、蓋を開けてみれば、4章以降は全て満席でした。継続的に参加してくれる人だけでなく、毎回新しい参加者がやってくるという状況でした。(まとめである9章にまで、初参加の人がいました。)

初めての方が参加しやすいよう補足や事前説明を加える進行上の工夫はしましたが、熱心に集客をしていたわけではなく、主催者として本当に理解し難い状況でした。 そういった意味で、みんなで作った読書会であるという実感が強いです。

本書における贈与とは

以上のような経緯から、僕はどこか他人事のように進めていました。しかしながら、やってみると毎回発見や気づきがあり、面白かったです。

その内容を語る前に、1つだけ押さえておきたいことがあります。 それは「贈与の定義」です。

僕自身や参加者の事前のイメージを聞いていると、贈与とは善意でなにかを無償で与える行為だと捉えています。 しかし、本書で語られる贈与の定義は、明らかに異なります。その前提を誤解したままだと、この振り返りはなにを言っているかわかりません。

お金で買うことのできないものおよびその移動を、「贈与」と呼ぶことにします。

『世界は贈与でできている』(まえがきP4)

この定義で考えた時に、贈与とは交換できないものです。
たとえばプレゼント。物自体はお金で買えますが、物理的に渡すことが贈与ではないのです。むしろ、相手がなにが好きで、なにであれば喜んでくれるか迷いながら選ぶ、その思いやりや気持ちなどのプレゼントに付加されているもののやりとりこそが贈与なのです。

ただ、ここで問題があります。プレゼントを受け取った相手は、選んだ経緯など知りません。だから、その見えないプロセスに想いを馳せない限り、贈与は成立しません。

「この人は、私が好きだと言っていたものを覚えていて、それをわざわざ手に入れてくれたのだ!」

受け取り手が想像力を働かせて、気づいて初めて贈与が成立します。 つまり、贈与は与えることではなく、受け取り手の出現によって生まれます。
裏を返せば、自分がなにも与えられてこなかったと感じている人は、きちんと贈与を受け取れていないだけの可能性もあるということになります。

あるものに目を凝らせ

僕達は「既にあるもの」と「まだないもの」には、なかなか気づけない。

全体を通して、1番印象深いのはそのことです。人々の願いや欲の多くは、不足感から来ているように見えます。お金が、愛が、承認が足りない。どれだけないかばかりを探してしまう。だから、不足を補おうと過剰に求めます。

安全やタダで飲める水、文字の読み書きができることなど、既にあるものは意識にのぼりません。それが脅かされ、失われて初めてありがたさを感じます。

けれど、本当にそれでいいのか?
僕達は大切なことを知るために、毎回大切なものを失わなければならないことになります。
そんなのはおかしいし、手遅れになる前に間に合う方法を探りたいです。本書にはそのための考え方は示されています。

既にあるものを数えること。
ともすれば、それは無駄な行為に思えるかもしれません。しかし、目を凝らして見直せば、宝が眠っていることに気づきます。

そして、自分の中にあるものを掘り起こしていくことが、実はまだないものに繋がっていきます。この世の「まだないもの(新しいもの・サービス)」だって、実は今ある技術や素材の組み合わせです。

僕はなにを受け取ってきたのか?
そうやって繰り返し問い続けることが、贈与を循環させていくことに繋がります。

不足の満たされた何者かになろうとするのではなく、自分が受け取ってきたものを次なる人へ繋ぐメッセンジャーになる。その姿勢を大事に生きていきたいと思いました。

初めての人の重要性

ここからは、読書会の場についてです。

読書会は読んでなくても参加できる形式で実施していました。5章を読む時に、4章までを読んでなくても参加してもよいのです。

一般的な読書会では、避けたいことではでしょうか? 読めば書いてあることを「それってどういうことですか?」と聞いてくる人がいるからです。説明するために、話の流れが止まってしまう瞬間があります。

それでもなお読んでなくてもOKにしているのかといえば、2つの理由があります。

  • 参加のハードルを低くするため

  • 知らない人への補足や説明が理解を深めるから

前者については説明するまでもないでしょう。読んでこなくてはいけないとなったら、参加する人をかなり選別することになってしまいます。

個人的には、後者が重要だと思っています。
知らない人に説明するためには、説明する側がある程度理解していなければなりません。 だから、当たり前の質問に答えることで既存の参加者の理解が促され、それが新たな問いを生むきっかけにもなります。
また、読書会の間隔は1ヶ月程度あるので、継続的に参加している人も大体は忘れています。だから、復習の意味合いもあります。

初めての参加者の存在は、単なる多様性としての意味だけでなく、場の活性化にとって非常に重要な要素になっていました。

時間をかける

回を重ねるごとに、本書に書かれた内容が理解できるようになった感覚があります。熟成の期間を置くことが大きな意味合いを持っていたと感じています。

読んだ内容が日常とリンクする瞬間があり、それが次の読書会でまた話題に繋がることが何度かありました。
後半になるにしたがって、本自体の内容よりも、参加者の「こういうことがあって」という自分に引きつけた話題が増えていった印象です。

実感のこもった話は他の参加者も触発していました。短期間でやっていたら出てこなかった話題も多々あったと思います。

これから

ありがたいことに、最終回後に参加者の方々が口々に、「次はなんの本を読むんですか?」と言っていました。もう一周『世界は贈与でできている』を読みたいという声までありました。

読書会がいつの間にか皆さんにとって大事な場になっていたということが、とても嬉しくなりました。

もしかしたら、主催者である僕が1番たくさんのものを受け取ってきたのかもしれません。その感謝を示す上では、また別の本で読書会をやってもいいと考えるようになりました。
規模は現状変えるつもりはありませんが、メンバーが固定化されない程度に新規の方にも参加しやすいように開催したいという思いがあります。

もしなにかオススメの本があれば是非ご紹介ください。(読書会という特性上、なんでもいいというわけではないのですが……)

↓最初に読んだ時の感想です↓


読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。