ゴッホが自分の耳をぶった切って人に届けようとしたのは闘牛が原因?
ゴッホ。
この画家の名前を美術館に一度も行ったことがない方でもどこかで聞いたことがあるかと思います。
「なんかスゴイ不遇で死んでからメッチャ売れた人でしょ?」
という認識が根強いゴッホ。
(実際は称賛され出した頃に亡くなったため、生きてたら普通に評価されてますが)
そんな印象的な人生が、ある意味作品以上に面白がられるのは確かで
エピソードや謎に事欠かない生涯を題材にした小説や映画などの多い事多い事。
そんな数ある逸話の中でも、自ら自身の片耳を切り落として人にあげるというなかなかのサイコホラーをかましたのは有名な話。
ここでは、何故ゴッホが耳を切り落としたのか?なぜ”片耳”だったのか?
この奇行への諸説ある考察の中で、”闘牛”の視点から見た説を紹介します。
いきなり話が逸れますが、「フィンセント・ファン・ゴッホ」って発音でゴッホを呼ぶのは日本人だけです。
英語で言えば「ヴィンセント・ヴァン・ゴーフ」であり、ゴッホの出身国オランダ語では(ゴリゴリに日本語表記すれば)「フィンセント・ファン・ホッホ」となります。
なんかこの2つが混ざって日本では「ゴッホ」って呼んでます。
【片耳をぶった切るまで】
さて、ゴッホが件の耳切り事件を起こすまでの経緯について。
幼少期から癇癪をおこしたり、躁鬱が激しかったりと精神的に危うさがあったゴッホは
画材屋に努めたり聖職者を目指したりしましたが、やがて画家として身を立てることを決意します。
(当然食っていけないので画商の弟の脛を全力でかじります。諸説ありますが画材代とか抜いても月に20万円弱分くらいは仕送りがあった模様)
全くうだつの上がらない画家人生の最中、1888年のゴッホ35歳の時
「芸術家は同じ環境で交流しながら制作することで名作を生み出せる」
という信条に至り南仏のアルルにて画家たちのコミュニティを作る計画を練り、実行します。
これに至った経緯としては、ゴッホが好きだった日本の浮世絵が共作(絵師・彫師・摺師による)であったから、とか
当時人気だった画家と詩人による共作の絵本に影響されて、などと言われます。
思い立ったが吉日とせっせと画家や画商合計11名(モネ、ドガ、ルノワール、ゴーギャンなど)に連絡を取り
彼らに見立てた花の絵を描きながら、ウキウキと到着を待ちます。
(この花の絵が後の名作「ひまわり」)
しかし、性格的にすこ~~~し難があったせいかゴッホの共同生活プロジェクトに反応した人は皆無。
流石に心に来るものがあり、弟のテオに手紙で悲痛を伝えており
見かねたテオが方々、特に画家ゴーギャンに兄との共同生活を頼み込みます。
(テオも呼ばれてますが共同生活自体には応じず…… 二人の手紙などから無垢な兄弟愛を連想する人も多いですが、まぁ当然そんな美しいことばかりではない)
「行く…………かぁ~~~~~~……」
とゴーギャンが反応を示してくれたのは、ゴッホが呼びかけ、南仏に移住した1888年3月頃から約7カ月後のことでした。
実際にゴーギャンが到着するのは、そのさらに約1か月半後のことですが。
【一瞬で破綻した共同生活 切り落とされた耳は無関係な女性のもとへ】
はい、ぶっちゃけこの共同生活は約2か月で終わります。
原因としては二人の性格がアホほど合わなかったから、というのが主なところ。
(後年も数回手紙のやり取りはありますが)
共同生活が始まった10月23日から共同生活が破綻する2か月後の12月23日
ゴッホは自身の片耳を切り落とす怪事件を起こします。
経緯は諸説ありますが、二人が互いの肖像を描き合った際にゴーギャンが画像のようなゴッホの肖像を描いたのですが
ゴッホはこの絵に描かれた自身の耳の形がどうにも気に食わなかったらしい。
「俺の耳こんなんじゃねぇよ!」
「いや こんなんですけどぉ?」
という感じで口論になる他に、何事においても意見が合わない二人。
互いの関係が好転することはありませんでした。
事件当時の詳細が話し手によって異なる部分があるのですが
事件当日、蓄積した不和が爆発してゴーギャンは出て行ってしまいます。
(ゴーギャン曰く「ゴッホが剃刀を持って襲ってきたから逃げた」らしいですが、微妙に整合性が取れない部分がある)
ようやく始まった念願の共同生活が崩壊し、一人残され悲嘆にくれたゴッホは失意に任せて(先ほどの絵で口論になった)自身の左耳を切り落とします。
その後、二人がよく通っていた娼館にゴーギャンがいると思ったゴッホは
娼館へ赴き、そこにいた女性に「これを大事にしてくれ……」と何かを手渡し去っていきます。
それが切り落とされた耳だと知った時の女性の恐怖たるや。
実際、ゴーギャンは娼館におらず、耳を受け取った女性は娼婦でもないただの清掃係でゴッホのこともゴーギャンのことも知らず
結果的に、流血した見知らぬ中年のオッサンが現れたかと思ったら「大事にしてね……」とか言いながら自分の切り落とした耳を渡してくる……
世にも奇妙な音楽に合わせてタモリが出てきそうなこの事件は当時の地元紙にひっそりと取り上げられ
ゴッホは「自称画家のオッサン」で「ヤバイ精神異常者」という、地域のアブナイおじさんの称号を手に入れてしまいます。
その後、「このアブナイおじさんと同じ地域に住みたくないんですけど」住民投票が行われた結果
ゴッホは精神病院へ入ることになります。
【片耳の切断は闘牛を参考にした結果?】
これが、今は巨匠と呼ばれ、当時は町のヤバイおじさんだったゴッホの耳切り事件の概要です。
現状では、先ほどのゴーギャンの絵による口論が耳切りの原因、というのが通説ですが、この話でイマイチ腑に落ちない点があります。
なぜ、切り落とした耳をゴーギャンに届けようとしたのか?
それには、ゴッホが闘牛の慣習を参考にしたのではないか、という説があります。
闘牛とはスペインやポルトガル、ゴッホが過ごした南仏など南ヨーロッパ地域で行われる興行。
猛牛にマタドール(人間)が相対し、牛の突進をかわしながらすれ違い様に剣を牛に突き立てていき、観客が盛り上がってきたところでとどめの一撃……
みたいな感じだということを知ってる方は多いかと思います。
(昨今は動物愛護の観点から難しい開催ですが)
しかしながら最後に、つまり牛にとどめを刺した後に何が行われるかご存じでしょうか?
そこで行われるのが、牛の耳切りです(あと尻尾)。
マタドールの興行の評価する行為として牛にどめを刺した後
観客はレゲェのライヴよろしくハンカチを回すことでその興行の良し悪しを評価します。
この評価に応じた報酬、というか牛の耳がマタドールに授与されます。
会場の半分くらいがハンカチを回したら牛の片耳
会場の全体より少し少ないくらいだったら牛の両耳
会場全体がハンカチ回したら両耳と尻尾
が、それぞれ授与されます。
(もらってどうするかは知りません……食ってもなって部位だし)
ゴッホはこの風習を参考にした可能性があります。
実際、ゴッホはこの時期に闘牛の絵を描いており、こうした習わしを知っていた可能性は高い。
しぶしぶながら提案に応じるも後味の悪い共同生活となったゴーギャンに対して
「満足にいくものじゃなかったけど、やりたかったことは実践できた」
みたいな思いを込めて、自身の”片耳”を届けようとした、そんな風に見ることもできるかもしれません。
未だにその生涯にいろいろな考察が飛び交う画家ですので
その不器用でなんか切ないゴッホの生涯に新たな視点と発見が発表されることを楽しみにしてます。
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