写楽…… アンタ結局誰なの?
活動時期10カ月程度、制作数140点
そんな僅かな画業に関わらず現代においても世界的な知名度を誇る浮世絵師
東洲斎写楽。
そんな人物が如何にして後世に残る人物になったのか、については別記事で書いておりますが
ここでは、作品がどうのこうのより写楽を有名にしている要素
”写楽ってつまり誰なん??”
という点について紹介していきます。
【名前の意味と描いたモノ】
当然ながら東洲斎写楽、というのは雅号(ペンネーム的なもの)です。
一説に「東洲斎」、とは江戸の「東側の洲」である現在の八丁堀や築地辺りを表していると言われ
「写楽」とは、「写す(描く)」ことを「楽しんだ」人物だったから、というのが雅号の意味するところ(現代風に言えば「東洲斎お絵描き楽ちい」)。
作風は全て歌舞伎、つまり舞台を題材にしたものでもありました。
また何とも分かりやすく、当時の八丁堀や築地にはこうした演目の見世物小屋があり、写楽はここに取材して作品を作ったのでは……とされています。
「意外と誰か分かりそうじゃね?」
という感じになる通り、正直現段階である程度通説となってるものがあります。
ただ他の説の方が説得力があるものがあり、今後どうなるか分からないので是非知っていただければ嬉しいところ。
【その正体:能楽者説】
その正体は能役者、斎藤十郎兵衛であるとする説。
ぶっちゃけこれが今の定説です。
斎藤は徳島藩のお抱え能役者(生活は江戸)であり、徳島藩の江戸屋敷は八丁堀にあったので、「東洲斎」という名前にも信憑性があります。
また、能役者であったことで舞台に造詣・関係が深かったために
無名絵師にも関わらず人気役者たちを間近で描写できる環境であったとされます。
さらには1790年に太田南畝が記して以降、様々な人物に検証・補講がされた文献「浮世絵類考」において
とあり、この栄松斎長喜老人は写楽を出版した蔦屋と交流があった人物のため、そんな人の言葉であればより信憑性が増すというモノ……
また、本職のためでなく参勤交代などの合間の期間にちょっと嗜んだ故にこの製作期間だったともされます。
「いや反論の余地ないやんけ」というところですが拭えない疑問もあります。
本職じゃない人間にしては上手過ぎじゃね?
2日に1点作るペースとか素人じゃできなくね?
この点が「写楽=斎藤十郎兵衛」説が完全に固定化されない要因でもあります。
そしてそのせいで様々な下記のような説が生まれています(個人的に歌麿説が好き)。
【その正体:葛飾北斎説】
上記の疑問を解消できるほど「上手くて」「作るのが早い」人物として、後年考察されたのが
富嶽三十六景や生涯で93回引っ越したことでお馴染みのユニークおじいちゃんこと葛飾北斎です。
ですがこの説は、この疑問のカウンターにしかなっておらず全く信憑性に欠けるためほとんど話題にはなりませんでした。
【その正体:複数の外国人説】
この説はオカルト感あって割と好きなんですが「写楽とは複数のオランダ人だった」という説
さっきの疑問を全く解消できていないんですが、この考察が出てきた原因が写楽の作風が10カ月の間に変化をするため
写楽=共同ペンネームだったのでは?という発想から出ています。
江戸時代当時、出島(時に江戸)に出入りしていたオランダ人たちが
余技として浮世絵に触れ、制作をし、それらを面白がって出版した。
そのオランダ人たちが使用したものをまとめて「写楽」という雅号で世に出した。
という説ですが、書いてる私ですらツッコミどころ満載な論理ですが
「一人一つ必ず何か言わないと帰れない」批評会で20人くらいと意見が被った人が最後に絞り出したようなオカルト感があるので面白くはある。
【その正体:喜多川歌麿説】
この説は結構ガチで推されてる説でもあり、様々な論評があります。
(なんとあの仮面ライダーの石森章太郎氏も推している……)
歌麿については別記事でも描いておりますが、そのネームバリューと影響力から幕府が規制のやり玉に挙げた当代随一の浮世絵師。
この歌麿と深い交流を結んでいた人物が、写楽を出版した版元、蔦屋重三郎だったのですが
蔦屋も歌麿と同様、お上に目を付けられた挙句財産半分没収というキングボンビー並みの制裁を加えられていました。
蔦屋は失った財産を稼ぐために旧知の歌麿に新作の相談をしますが
歌麿も監視対象のためあまり目立つことができない……
そこで浮かんだアイデアが
無名の大型新人”東洲斎写楽”の鮮烈デビュー
そしてこの「写楽の中の人」を歌麿が務める、というものでした。
実際、先ほどの「浮世絵類考」を記した二人の友人、太田南畝も「写楽は歌麿ではない」と吹聴しているんですが
この友人たちのプロジェクトを助けるために”わざわざ”否定したのでは? という見解もある……
しかしながら、歌麿であれば技量・制作スピードともに申し分なく、なぜ「版元が蔦屋だったのか」という点も合点がいき
異常な制作ペースは、一気に話題を作ってバレる前にトンズラこくためだったのか、とも思わせられます。
さらに、歌麿と写楽の描写に共通点があり……など、この説は結構本格的に推されているモノ。
作品のインパクトのみならず、その謎めいた存在が知名度を爆上げしている東洲斎写楽。
今後なにかしら研究が進んで、歌麿説や新説が盛り上がったりすると
界隈にいる人間としては楽しい限り(多分数十年はないけど……)
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