カフェオレと塩浦くん #38
揺れる電車の中から外の景色をみると、すでに陽は落ち、星が点々と瞬いていた。
私はいつもなら向かうはずの家の方向とは反対方向の電車に乗っていた。
スマホのメッセージの画面を開いては閉じを繰り返し、そしてため息をつく。
何日も同じ行為を繰り返しているものだから、いい加減現実を見たほうがいいとは思うものの、それでも人間というのは機械のようにおいそれと今までの動作というものを急に変更できるわけでもなく、不合理だとわかっているはずなのに、私は願わない希望だけを夢見てしまっている。
「既読」という文字だけが相変わらず表示されているだけで、それ以上の会話が塩浦くんとは続いていなかった。
果たして、私はそれを黙ってていることが正解なのかどうかはわからない。
少なくとも、私は彼の安否を心配しているし、助けてもらったお礼だってできていない。
それに告白だってされているのだから恋人関係になったはずであったのに、それが曖昧になってしまっていることに当てどころのない怒りのようなものと、その怒りに対しての罪悪感が私の心の中に介在していた。
「十条~、十条~」
私は重くなった腰を座席から上げ、電車のドアへと向かう。
電車が止まり、ゆっくりとドアが開くと私はいつもとは違う見慣れない駅へと降り立った。
部活帰りの高校生、仕事終わりのサラリーマン、買い物帰りの主婦などが行きかっていて、大手町のような近代都市の空気はそこになく、日本の下町の原風景がそこにはあった。
ここに来たのは人生で2度目である。
1度目はつい先日の、塩浦くん家からの朝帰りの日であった。
そして、これが2度目。
私はこれから塩浦くんの家に向かう。
もはやそれが最善なのか、最悪なのかはいくら考えても私の中で答えは出ていない。
十条駅から徒歩10分という距離に彼の自宅はある。
ちょうど半分ぐらいの距離を歩いたところで、急に私の脚は重さを感じた。
目に見える錘なんてものはついていない。
だが心の中では、「嫌われたらどうしよう、見向きもされなかったらどうしよう、怒られたらどうしよう」などという未知の不安だけが錯綜し、それが無意識に体のありとあらゆる筋肉を絞めつけていた。
そのせいか呼吸も浅くなり、心拍も早まっている。
それでも私は前に進まなければならなかった。
なぜと聞かれれば、そんなものに明確な理由なんて存在しない。
ただ、前に進まなければ、私は元の弱い私に戻ってしまい、それ以上の成長はなくなってしまうことを感じていた。
それはすなわち私という存在の衰退である。
枯れ始めた百合の花のようにだんだんと葉先が茶色くなっていくのを、なんも抗いもせず、ただ淡々と観察することなど、自らの体を蝋で固めていることと同義だ。
きっとこの体がふいに重くなったのも、過去の自分が、緩く自分の筋肉に蝋を流し込んでいるに違いないと私は無理やり足を動かした。
そんな攻防を自分の中で繰り広げながらも、やっとの思いで彼のアパートの前に到着した。
あとは階段を登って、彼の部屋の前に行くだけ。
手と足が小鹿のようにぷるぷると震える。
おぼつかない足取りで、私は一段づつ階段を登っていき、そしてようやく彼の部屋の扉の前に立った。
私は無意識にスマホを何度も出したりしまったりしていた。
彼に失礼のないように電話を掛けるべきか、メッセージを送るべきなのかと、インターホンを押さない理由をいくつも浮かべる。
それはもはや自分が傷つかない為の本能的な防御反応とも思えた。
それでも、結局そんなことを頭の中で堂々巡りさせるだけで、行動に移そうとはしなかった。
私は人差し指をゆっくりとインターホンに近づけ、そしてボタンを押した。
「ピーンポーン」という音が聞こえ、私の心臓はバクバクと音を立て始める。
ほんの数秒が10分に感じるほどに私は緊張していた。
だが、1分しても2分しても部屋の中からの応答はない。
もう一度押してはみたが、やはり結果は同じだった。
「あぁ、こんなことで緊張してバカみたい」
そんな思いが走ると、私に肩にどっと疲れが乗ってきた。
私はそのまま塩浦くんの玄関前の扉にもたれかかるようにしてしゃがみ、そして体育座りをした。
「手袋、してくればよかったな」
3月も近いというのに、一向に冬の夜の寒さは相変わらずと言っていいほど、氷のように冷たい。
手先がひんやりし、私は「はー」と息を吹きかけた。
その寒さも相まってか、私の体は強い眠気に襲われた。
「少しだけ……」と私は小さな声でつぶやき、目を閉じる。
そしてそのまま、冷たい冬の夜の中、寂しげに膝に顔を埋めながら、私は眠りについてしまった。
(つづく)
※前半までのあらすじはこちらから
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