月夜に鳴く
「今夜の満月は霧がかっているが、それもまた美しいな」
英輔さんは私の頭を優しく撫でながら、星が点々と瞬く夜空へとか細い声で呟いた。
彼の呟きに、私は一言「そうですね」と猫撫で声で答える。
霧がかる月が見える次の日はよく雨が降ると、英輔さんが昔教えてくれたことをふと思い出した。
そうか、明日は雨なのかと少しだけ凹んでしまったが、今は英輔さんの温もりが私の癒しとなり、そんな気の落ちた心情などは頭の片隅に埃となって山積した。
縁側で感じた昼間の暑さが嘘のように、夜の風は冷たく、私の体をひんやりと包み込む。
すると、蚊取り線香のツンとした匂いが、私の小さな鼻の奥をツンと突いた。
私はこの線香の匂いがどうも苦手だ。
先ほどまで縁側に漂っていた四畳間の井草の匂いが、線香の苦みと酸味の混じり合う不快な匂いにかき消され、私はその匂いを嗅がんと小さな体を丸めこんだ。
早いもので今年も六月を迎えたのだなと、嫌な匂いが私に時期の訪れを知らせてくれたのであった。
あれはもう八年も前の、とある六月のことであった。
日照りにいては暑さで死んでしまうと思った私は、ちょうど近くにあった木陰の下で、柔らかい雑草の中に体を埋めていた。
前の日の記憶などなく、ただただ空腹に飢えた私は、もうじき迎える死神の手を振りほどいては朦朧とする意識の中で、生きることに一生懸命しがみついていた。まだ、私の目は半分も開いておらず、視界がぼやけて、景色などはボンヤリとしか見えていない。
ただ、一つだけ覚えているものはある。
土と草の自然の香りを打ち消すほどの、酸味と苦みが入り混じる線香の嫌な匂いである。幼いながらに、"不快"というものを生まれて初めて知った日でもあった。
木陰で空腹に耐えながら休んでいると、向こうから人間の足跡が近づいてくるのを感じた。
最初は恐怖心にかられ、身をこわばらせたが、木陰に隠れるその姿を見つけると、人間は私へと近づき、甚兵衛の袖から拳大のおにぎりを取り出し、私の口元へと近づけた。
私は、鼻を頼りにおにぎりへと口をつけるが、どうも塩味が強く、私は口からぺっとおにぎりの粒を吐き出してしまう。
それを見た人間は慌てて元来た道へと走り出してしまった。
私はてっきり、恵んだ食べ物を吐き出してしまい、それに嫌気を指されたのかと少し後悔の念が付きまとっていた。そんな凹んだ心が頭の中を右往左往と駆け回るが、遠くの方からまた同じ足音が聞こえてくる。
足早にこちらに向かう足音と、ちゃぷちゃぷとした水が打ち付ける音に私の心は沸き立っていく。人間は素っ気ない感じで、柄杓に組んだ水を私の方へと近づけ、飲みやすいようにと少しだけ傾ける。
私は一生懸命に頭を動かし、その柄杓の中の透き通る水に小さな舌を突っ込むと、生き急ぐようにして水を飲み込んだ。幾度となく咽返ったが、それでもなお水を飲み続ける。人間はその姿を見つめながら、うんともすんとも言わず、ただただその光景を眺めていた。
私は水でお腹がいっぱいになると、柄杓の中から頭をどかし、雑草の中へと頭を丸めこむ。私は生きているのだと大いに実感し、その幸福は私に温かな眠気を誘いこんだ。
すると、私の体は不思議と浮遊感に包まれた。
目を少しだけ開けたが、そこには白いものが映っており、その時は夢にいるものだと思っていた。その時の私は夢か現かなどという些細なことはどうでも良いと気にはせず、重い瞼を閉じる。そこは土の柔らかさとは違う、ゴワゴワとした触り心地であったが、包み込まれた温もりが私の痛んだ体をそっと癒してくれるのであった。
それが英輔さんであったことは後に知った話である。
それからというもの、私の居場所はこの四畳間の畳の上となっていた。
特に仏壇の前に敷かれている座布団はふかふかして、私のお気に入りの場所となっている。
私は日ごろから、好奇心旺盛なのである。
一度だけ、仏壇の上に備えてあった大福をくすねたことがあった。
家の中の人間がいなくなったのを見計らって、仏壇の上へと高跳びし、甘い匂いを醸し出す大福に飛びついた。
大福を畳の上に落とすと、白い粉がぶわっと舞い、私の黒い毛並みを白く染め上げる。
そんなことはお構いなしに、私は鋭い歯で柔らかな大福に噛り付く。もちもちとした外側の生地が歯へと張り付き、これはどうも食べづらい食べ物だなと思っていたが、中へぎっしりと詰まるあんこをペロリと舐めた途端、今まで食べたことのない甘美が口の奥を幸福で満たしていった。どうもこの甘みは本能に直撃したようで、私は貪るようにして大福をムシャムシャと食べ始めた。
すると、誰かが慌てて家の鍵を開け、四畳間のこの仏間へと入ってきた。
仏間の障子が勢いよく開いた音に私は驚き、その方へと顔を向ける。あっと驚く婆さんと目が合うと、その顔は瞬時にして額と眉間にしわの寄った怒り顔へと変化した。
私はまずいと直感で思ったのか、その場から飛び出すかのようにして、縁側の外へと逃げだした。あとからドスドスと私を追いかけてくる音もしたが、その足音も結局は縁側の外へと出ることはなく、トボトボと引き返し、私のひっくり返した大福を拾い上げると、そのまま台所へと行ってしまった。
あの時から、私の好物は大福となった。
仏壇にはいつも大福が備えられていたが、私がそれをつけ狙っていると知った婆さんはすぐさまにお供え物からその大福をあげ、一人台所でお茶をすすりながら大福を頬張っていた。私はその光景を恨めしそうに台所の戸の前で覗き込んでいたが、お前になんかくれてやるものかという婆さんの嫌味ったらしい顔は、今思い出すだけでも不快な思いが脳裏へと蘇る。
そんな私を英輔さんは微笑ましく観察していた。
英輔さんは婆さんに、私も大福が食べたいからと余分にお金を渡し、お供え物ついでに大福を二つほど買ってきてもらっていた。
私は日当たりのよい縁側に英輔さんが腰を掛けた隣に座り込み、差し出されたお皿に乗った大福をまじまじと眺めてから思い切りかぶりつく。英輔さんも同じくして、大福へとかぶりついていたが、私はどうもあのようにうまくは口の中で咀嚼することは出来ず、外側の皮を剥がすことに苦戦していた。
その様子をいた英輔さんは、さぞ食べづらいだろうと、大福をいくつも千切ってはお皿の上へと起き、どうぞとまた私の前へと差し出した。
次こそはと、千切れた大福から見えるあんこをペロリと舐め、その甘美を舌なめずりしながら味わると、勢いよくかぶりつき、そのまま喉の奥へと流し込んだ。
お互いが見つめ合いながら、なんとこの大福は美味しいのだろうと笑い合ったあの日はとても私にとって幸福な時間であった。
時が経つにつれ、英輔さんの体はやつれていった。
私は最初、食欲不振だろうかと思っていたが、どうもそれは違うみたいであったと判明した。ごほごほと咳をし、少しばかりのうずきをした後に、手の平には赤い血がべっとりと引っ付いていた。
これはただ事ではないと、私は必死に英輔さんに「大丈夫か、大丈夫か」と擦り寄るが、決まって英輔さんは「大丈夫だ、心配ないよ」と私の頭を優しく撫でてくれた。
心配ないという言葉とは裏腹に、時たま、深夜に英輔さんは私の体を布団の中に引き寄せては、ぐすりと涙を流しながら弱音を吐いていた。
どうやら英輔さんは癌という死神に魅入られてしまったようであった。
それからというもの、英輔さんが歩く姿は日を追うごとに少なくなっていき、ついには朝昼晩の食事以外は、仏間に布団を引き、ずっと寝込んでいるという状態になっていった。私は決まって、英輔さんの近くへと擦り寄り、近くにある大福を我慢しながらもぺろぺろと英輔さんの手の甲を舐めている。
ちらちらと私が仏壇の大福に目がいってしまっているのを見ていたのか、英輔さんは婆さんにあの大福が食べたいと、お供え物から大福をおろしてもらい、それを細かく千切ると、私と英輔さんの二人でそれをちびちびと摘まんで食べた。
途中、私の食い意地が張ってしまったのか、英輔さんは二欠片ぐらいしか食べず、残りは私が全て平らげてしまい、なくなった大福を見ては少しだけ後悔した。それでもなお、優しい英輔さんは「お前は元気そうでなによりだ」と優しく頭を撫でる。
私にはそれが優しさなのか我慢なのかはわからなかったが、いつもの笑顔に少しだけ陰りがあったことを見流すことはなかった。
英輔さんは体がやつれてもなお、月夜に縁側に座ることは欠かさなかった。
特に満月の日は特別で、太陽が沈みこむ前から縁側へと座り、いまかいまかとその満月を訪れを待ち望んでいた。
英輔さんは私を膝の上に乗せると、か細い指で私の毛並みを優しく撫でてくれた。
そして、私に星と月の話をよく語ってくれたことを思い出す。
星には数多くの星座というものがあり、古代の昔、もう五千年も昔のカルディアの羊飼いが、夜番をしながら、夜空に輝く星を手でなぞって作り出したのが始まりであったということ。月はもともと地球の一部であり、遠い昔、まだ人間なんてものが生まれてくる前の時代に、分裂した惑星であるということ。月は夜空に現すその姿形によって、二十九もの名前があるということ。
英輔さんは月を見るたびに、私に星の歴史と月の美しさを教えてくれたが、当時はなんのことだかよくわからず、ただただ英輔さんの温もりに触れたいという自分の我儘を通すために、うんうんと頷きながら膝の上で体を丸め、すうすうとよく眠っていた。
「あぁ、いつかあの広い夜空を泳いでみたいものだな」と彼は遠い空を見ながら呟いていた。
英輔さんの呼吸が日に日に薄くなっていく。
よく婆さんが仏間と台所を行ったり来たりしながらおろおろとしながら、家の中を歩いていた。相変わらず仏壇には大福が置かれていたが、もう誰もその大福を食べるものはおらず、私はじっと大福を見つめていた。
そんな様子をもう気に掛けるほどの元気もない英輔さんは、寝ているのか起きているのかもわからず、ただスースーと肺から空気が漏れる音だけが仏間に響く。
布団から突き出た頭だけが英輔さんの温もりを感じる場所になってしまい、痩せこけた頬に私の頬を擦り付けては構ってほしいと少しだけ叶わぬ我儘も言ってみたりしたが、英輔さんはか細く「ごめんよ」と一言、何もない虚空へと呟いていた。
まだ日も昇らぬ早朝、仏間に幾人もの人が入ってくる足音に、私は目を覚ました。
白衣を着た医者が、英輔さんの目に光を当てると「ご臨終です」と一言呟き、英輔さんの前で手を合わせる。
それに倣って、そこにいる幾人もの人は手を合わせながら、わんわんと涙を流し始めた。音を立てず医者は仏間を出ていき、そこにはもう悲しみを堰き止めるものは誰一人としていなかった。
私は微動だにしない英輔さんをみながら、「あぁ死んでしまったのだな」と涙の出ない目をこすりながら、「頑張ったな」と一言鳴いてみた。
あれから幾日の月日が経ち、私は今日も仏壇の大福を狙っていた。
一つ変わったことといえば、仏壇の大福が二つに増えたことであった。
その前には英輔さんがまだ世紀に満ち溢れ、夢であった天文学者を目指していた屈託のない笑顔を浮かべながら移る写真が飾られている。いつもその写真を見ながら、「この大福をもらっていいですか?」と問いかけてみるが、当然のように返事があるわけではない。私は頭の中で勝手に英輔さんの声を思い出し、「いいですよ、食べてください」と再生をする。
それではと大福を仏壇から畳へとひっくり返し、がぶりと噛みついてはみるが相変わらずに食べにくい食べ物で、幾度となく噛みついては外の皮を少しづつ剥がしていき、中に詰まったあんこをぺろぺろと舐めながらその甘さを堪能した。
その光景を婆さんに見つけられ、怒られるものかと逃げる構えを取っていたが、婆さんにはもうそんな元気もなく、散らばった大福の皮を拾い集めては、散らばった粉を箒で掃くのであった。
いつしか婆さんもこの家を空けることが多くなり、大福が置かれるペースも日ごとに間隔を空け減っていった。
どうしたものかと思ってはいたが、ある時それは突然起こった。
大きな大人が幾人も家の中にドスドス入ってきては、箪笥や鏡、はたまた台所の食器など、家のいたる物すべてを家の外へと運び出している。何事かと、私は身をこわばらせ、小さくなりながら庭を囲う石垣の上でその様子を伺っていた。
明くる日も、騒がしく同じようなことが続く。
ちょうど太陽が真上に昇ったころ、家の中はもぬけの殻となり、最後に仏間の仏壇だけが取り残った。腕の袖を捲った大人たちが、ガハハと大笑いしながら、疲れを癒す煙草を口に咥え、煙を蒸かしている。すると、玄関から誰かが入ってきたのに気が付くと、大慌てで煙草を庭の土に落とし、草履でぐりぐりとその火を消した。
仏間に、のそりのそりと入ってきたのは萌黄色の袈裟を着た坊主であった。
仏壇の前に坊主が座ると、その大人たちは周りを取り囲むようにして正座をし、坊主が垂れ流すお経に目を閉じて聞き入っていた。勿論その中には婆さんもこじんまりと座っている。
すると、もくもくとした白い煙が庭へと流れだしてきた。
白い煙は風に乗り、私の鼻を掠めていくが、この線香の匂いは相変わらず嫌いだと、私は石垣から下り、煙が届かぬ縁側の下の木陰へと潜った。
数珠のジャラジャラとした音と、平坦な読経が三十分ほど続き、ついうとうととしてしまったが、それがすべて終わると、大人たちは四人がかりで、仏壇が壊れぬよう丁寧に外へと持ち運んだ。
その光景に私は訳が分からぬまま混乱をし、そのまま日が暮れ、夜を迎えた。
夜の静寂が、私の寂しさをくすぐる。
もぬけの殻となった家の中には、今まで遮られていた風が通り、どうも家も外も区別がつかぬような感覚に陥った。
縁側の外に広がる庭からは、虫の音だけが聞こえる。
誰もいないこの仏間には畳から出る井草の匂いだけが充満していく。もうあの私の嫌な線香の匂いがすることはなくなったが、それもまた私の心を埋めていたものであったと、失って初めて気づいたのであった。
日に日に家からは生気が抜け出し、家の中を空虚だけが支配していく。その空間が伽藍洞となっていくことに私はとてつもない恐怖を感じていたが、私の居場所はここなのだと逃げることもなく、縁側の隅っこで体を丸めながら蹲っていた。
太陽が東から西へと何度も何度も行き来する。
そんな私の変わらぬはずであった日常に少しだけ違和感が生まれた。
どうもこのごろ、私はお腹を痛く感じている。
同じくしてお腹の中にタプタプとした水が溜まり、息苦しさを感じている。
食べ物を食べることも億劫となっていき、ついには水を飲むことさえも躊躇うようになっていた。
一人苦しみながら、いつものように縁側へと座り込む。
もう目はそんなに良くなく、一寸先がぼやけて見えるほどにまでなってしまったが、夜空に煌々と侘しく光る月だけは見ることができた。
今日もまた、重い体を動かし、縁側へと座り込む。
なぜかはわからないが、今日はとても特別な夜が来ると、私はそう感じていた。
そうして眩しく太陽が地平線へと沈み、夜空には一等星が浮かび始める。
あぁそろそろなのだなと、霞む目を一生懸命に開き、夜空を見上げた。
そこにはいつもより大きく見える白い満月が、ぽうと漂うように浮かんでいる。
ただ丸いだけの満月が、縁側を儚げな白い光で照らしだす。
「英輔さん、あなたの言っていた月の美しさがようやくわかりましたよ」
虚空へと鳴き声が響き渡る。
「そうですか。それではあの夜空へと泳ぎにいきましょうか」
いるはずのない英輔さんが私の頭を撫でてくれた感触がした。
あぁ、満ち足りた生涯だったな。
私の鼻に微かに線香の嫌な匂いが漂う。
相変わらずこの匂いは苦手だなと、私は微笑みながら、静かにその場で眠りについた。
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