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カフェオレと塩浦くん #29


 ほんの数時間、私たちはただ寄り添いながら、普段は見ない恋愛映画なんかを見たりしていた。

 なにも話さないし、突発的に獣のように暴れたりもしない。
 肩を寄せ合い、癒しあうようにした怪我をした翼をこすり合わせる。

 気づけば時刻は午後4時を回っており、明日の出社のことを考え、名残惜しくも私は彼の部屋を後にした。
「また、明日ね」と嬉しそうにも悲しそうにも聞こえた彼の言葉が、耳の中で未だに残響している。

 まるで明日というものがいつもどおり訪れるだろうと、私の期待を膨らませるように。

 家に着いたのは午後6時前で、私は家についてすぐにシャワーを浴びた。
 汗をかいたとか、体が匂うだとか、そんなたいそうな理由もなく、ただシャワーを浴びた。

 シャワーから出るなり、さっさと部屋着に着替えた。
 ベッドにダイブでもしようかと思ったが、ちらりと自分が今まで来ていた私服がちらりと目に入った。

「あぁ、一つトラウマができちゃったな」
 私は呟くと、新調したばかりだったバレンタインの日に着ていた私服を半透明のポリ袋に詰め込んだ。

 本当は塩浦くんのために買った私服だった。
 そう思うとため息が出るが、あんな悪夢を思い出すよりもマシだと思い、腹を括った。

 いつもなら、寝るには少し早い時間。
 それでも、また明日彼に会えることが楽しみで仕方なくて、子供のようにわくわくしていた。

 会社が楽しみだなんて、なんか自分ので可笑しなことを言ってるなと思わず笑いがこみ上げる。
 そんなことを妄想が夢と現実を行き来して、気づけば私はスマホの画面をつけっぱなしのまま、眠りに落ちていた。



「おいおい、まじかよ」
「あの塩浦さんが……いやぁ人ってわからないね」

 私が意気揚々と出社した会社のフロアでは、皆がこそこそと立ち話をしながら「塩浦」という名前を出していた。

 なんだなんだと思いながらも、私は自分の席に座った。
 きょろきょろとあたりを見渡すが、当の本人である塩浦くんは見当たらなかった。

 私はいつものようにパソコンを開き、会社の共通インフォメーションを開く。
 すると、そこには今日付けて『人事発令』というタイトルのお知らせが一件、新規のメッセージが届いていた。

 なんだろうと思い、マウスポインターを合わせクリックする。
 添付ファイルが開き、白い紙が表示された。

『塩浦 雅也社員 同社社員への暴行により、停職3ケ月を命ずる』

無機質な言葉が白い紙に記されていた。

「……えっ?どういう……こと」
私は声を失った。

誰がこんなことを予想していただろうか。
私は、何気ない明日が来るとばかり思っていた。

昨日の塩浦くんは、いつものように優しく、何も言わず私を抱きしめてくれたのだ。

彼はすでに知っていたのかもしれない。
知っていながら、彼は理不尽に泣きたい心を殺していたのかもしれない。
のうのうと生きている私があまりにも滑稽に思え、眉間を銃弾で撃ち抜かれたような衝撃が私の体に走る。

「停職って……絶対懲戒免職になるよなこれ」
「暴力沙汰なんてなぁ……人って何考えてるかわかんないな本当」

 他の社員はこそこそとあることないこと噂する。
 人というのは自分に関係のないことであれば、ゴシップを虚飾し、私が情報源だぞと言わんばかりにペラペラと言い始める。

 この暴力沙汰というのは、確実にあの夜の一件だということは私だけが知っていた。
 それにしても、あまりにも停職処分が下るのには早すぎるのではないかと私は疑問を抱いた。

 それに停職というのは事実上の懲戒免職と同義であることを私も薄々感じてはいた。

「あ、おはようございます」

 がちゃりとフロアの扉が開く音がすると、爽やかな笑顔を振りまいた東条が元気よく入室してきた。

 私の背中に悪寒が走る。
 その顔には、ちょうど塩浦くんに殴られた箇所に肌色のテーピングがつけられていた。

「どうしたんですか東条さん!」
 社員たちが東条に群がり心配の声をかける。
 彼はそれを困り果てた顔をしながらも、「まあまあ」と諫め、自分のデスクについた。

 その様子を見た三城部長が席を立ちあがり、「大丈夫か?」と声をかける。
「大丈夫ですよ」といい、東条はカバンから一枚のA4サイズの茶封筒を渡した。

 三城部長はその中身を確認すると、人事に回しておくとだけ言い残し、東条の肩を叩いた。
 やりとりが終わり東条はふうと一息つくと、ふいに立ち上がりこちらへと向かってきた。

 彼の足音に胸がぎゅっと締め付けられるような苦しさを覚え、額には冷ややかな汗が流れる。
 その足音が私の後ろを通過すると、ふと立ち止まった。

「おはよう、上井さん。よく眠れた?」
 東条が私に囁いた。
 呼吸をすることさえ忘れるほどの恐怖がフラッシュバックする。

「あ……うん、おはよう……」

 私は震える唇を無理やり動かす。
 平静を装うことさえ、もはや限界であった。

 東条はそれだけを聞くと、さっさとその場を離れた。
 私は急いで女子トイレへと駆け込む。

 個室のトイレに入りうずくまると、嗚咽を漏らした。
 口で押えようとも、恐怖がそれを押し上げ、堪えることが出来ずに思わず私は吐いた。

 私はぜーぜーと言いながら口元をトイレットペーパーで拭くと、ぐったりと壁にもたれかかる。

 塩浦くんは何も悪くない。
 悪くないはずなのに、なぜこんなにも理不尽な目に合わなければいけないのだろうか。

 思わず私の目から涙が流れる。
 こんなことになるのなら、私が最初から彼を好きになったことが罪だったのだろうか。

「ごめん」と私は天井に向かって小さく呟いた。

 (つづく)
※第1話はこちらから

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