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カフェオレと塩浦くん #26

 塩浦くんの自宅に着いたのは、タクシーがコンビニから走り出して20分後のことであった。

 彼がお金を渡そうとしたが、運転手は「受け取れません。本当に申し訳ない、私が弱いせいであなたを事件に巻き込んでしまった」と深く頭を下げた。

 私は無言でそのタクシーから降りた。
 今更謝られても、そうそう許す気など起きなかった。

 彼と私はタクシーから降り、タクシーは軽快なエンジン音と共に、闇夜へと消えていった。

「行きましょうか」

 彼は私の手を握り、目の前のアパートへと迎えいれた。
 入口近くにある階段を上っていき、最上階である3階まで登りきると、廊下を歩いていき、一番左端の303号室の前で足を止めた。

 ガチャガチャと鍵を開け、部屋へと入室する。
「ただいま」と彼は呟き、私は「お邪魔します」と小さくお辞儀をした。

 パチンと明かりをつけると、そこは綺麗に片付いた部屋が広がっていた。
 作業用のデスクと本棚とベッドぐらいしか置いておらず、テレビは隠し布が被さっていた。

 1人暮らしにしては少し広めの部屋であり、1LDKほどの大きさがあると、彼に教えてもらった。

 時計を見ると、すでに時刻は夜中の1時を回っていた。
 あまりの出来事に時間の感覚を失っていたが、改めて、大変な一日だったと実感した。

 緊張が緩和し、疲れが一気に体を襲う。
 体の震える感覚はまだ残っていて、膝にうまく体重が乗らず、手荷物を床に下した瞬間、がくりとよろつく。

「大丈夫?」
 彼は倒れそうになった私の肩を後ろから抱き、私の華奢な肩を優しく受け止める。

「ごめん……ありがとう」

 私は彼のぬくもりが私の中に浸透する。
 ぬくもりが私の中に残る先刻までの恐怖を諫めていくと、ふいに寂しさというか人肌の恋しさみたいなものがこみ上げてきた。

「ねぇ……塩浦くん」
「なんですか?」
「少しだけ……このままでいさせて。震えが止まらなくて」

 彼は私の後ろから肩を抑えられていて、みじめったらしい私は俯きながら両手を胸の前でクロスさせ、ぎゅっと彼の指を握る。

 ちょうど子供がお化け屋敷を怖がるような握り方だ。
 寂しいだなんて口では言えないし、私は彼に罪悪感さえ抱いている。

 もう、自分の気持ちが押しつぶされてしまいそうなのだ。
 こんな時、自分に素直になれたのならどれだけたくさんの言葉を伝えられただろうか。

「上井さん」

 私の名前を彼が呼んだ。
 彼の手が肩を離れ、私を引き寄せ、後ろから抱きしめた。

 言葉はなかった。
 恥じらいと緊張と、安堵と嬉しさと、後悔と寂しさと、もう数えきれないほどの感情が私の目から漏れ出していく。

 私って本当にばかだ。

 自分の背中が彼の胸に密着し、背中越しに彼の心臓の音がよく聞こえる。
 だんだんと胸を打つ間隔が早まっていく。
 彼の手に力が入り、ぎゅっとニットにしわが寄った。

「俺のほうこそ……ごめん」

 彼が私の頭の後ろで言った。
 少しだけすすり泣く声が聞こえる。

「ごめんって……それは私の言葉だよ」
 私は俯きながら小さく呟いた。

 人間の体の半分以上が水で出来ているだなんて嘘だと思っていたけど、あながち嘘じゃないんだなって思えるぐらい、涙が止めどなく溢れ出る。

 急に鼻まで水に満たされ、呼吸が息苦しくなるほどだ。
 鼻をすすりながら、涙でぐしょぐしょに顔が濡れて、自分を守る化粧が落ちていく。

 こんなかっこ悪い顔、塩浦くんに見せられないよ。
 こんなかっこ悪い顔見られたら、げんなりされちゃうかもしれない。
 こんなかっこ悪い顔なんかで嫌われたくないよ。

 私たちはお互いの顔を見ないまま、すすり泣いた。
 彼の指から体温が流れ出し、私の手に絡みついては、指先を温かく包んでいく。

 冷たくなった部屋が温まるにはもう少し時間がかかりそうだ。
 涙が枯れるまで、私たちは部屋の真ん中で茫然と泣いていた。

 (つづく)
※第1話はこちらから

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