カフェオレと塩浦くん #22
私はうつろうつろになりながら、重たい瞼を少しだけ押上げ、細く目を開いた。
車の揺れがまるで揺りかごのように心地よく、私の眠気を誘う。
夢から醒めたばかりの私の瞼はぴくぴくと痙攣し、起きることに抗っていた。
隣で、東条が私の右手をギュッと握っている。
その感覚さえ、今は麻痺してしまっているようで彼の温かみを感じない。
まだ私が少女の頃は、男の子と手を繋ぐだなんてそんなこと考えられなかった。
そんな緊張なんてものは、いつの間にか微塵も感じなくなっていた。
いつからだろうと思い出してはみるが、慣れというのは恐ろしいもので、気づいていたらそうなってしまっていた。
大人になることは恐ろしい。
傷つきたくないがために、卑屈で、臆病で、打算的になるからだ。
恋愛なんてものにもはや面白みなんてものは感じない。
今、彼の手に体温を感じないのがその証拠だ。
手が冷たいとかではなく、人肌の温もりというか、空気というか、そういう温かさは彼から感じ取ることが出来ない。
ひどく酔いが回っているせい……なのだろうか。
私はお酒が飲めないほうでもないし、幾度となく失敗を重ねているがために、自身のキャパシティも把握している。
それとも心が荒んでしまったせいだろか。
いや、なぜだかそれも違うと感じる。
きちんと理性というものがあって、今も周囲の状況を把握することは出来るが、どうも別の何かが私の思考に割り込み邪魔をする。
いったい、この違和感は何なのだろうか。
「とうじょ……さ……ん。どこに……むかってる……んですか?」
私は言うことを聞かない口を無理やりに動かし、彼に目的地を訪ねる。
そもそも私はいつからこのタクシーに乗っているのだろうか。
寂しさを埋めるために2軒目のバーに行って......。
私は必死に思い出そうとするが、記憶がプツリと欠落してしまっている。
「ん?起きた?空季さん、すごい酔っちゃうんだもん。いま休めるところに向かってるよ」
「あ……いや……そんな」
口が上手く回らない。
右手が握られていて、そこに上手く力が入らず振りほどくこともできない。
私は東条をちらりと見ると、彼はタクシーの窓から煌びやかに光る都会の喧騒を眺めながら鼻歌を歌い始めた。
あぁ、"カントリーロード"か。
聞きなじみの名曲が、軽やかに車内に流れる。
喜びに満ち溢れた歌で、私もこの曲は好きだ。
学生の頃、私はいいことがあると、その帰り道にスキップしながらこの歌っていたのを思い出した。
だが、それは私に気づきを与え、恐怖へと転じた。
ずっと彼には違和感は感じていた。
私は彼は紳士的で優しいとばかり思っていたが、それがまったくの虚像であって、状況を見れば一目瞭然であった。
誰も、不幸な時に"カントリーロード"なんて口ずさまない。
ましてや、隣で女性がぐったりとしている横で、そんな歌を口ずさむ男が正気なわけがない。
幸い左手はコートのポケットの中に隠れていて、ちょうどそこにはスマホがしまわれていた。
私は気づかれぬよう下に目線を向け、少しばかり見える小さな画面をぎこちない指で操作していく。
ブラインドタッチが出来るほどスマホに依存していることに驚くが、一度もエラーを出さずにコミュケーションアプリの画面を開くと、私は直近のトーク画面をスクロールした。
カントリーロードが終わるまで、30秒。
彼の鼻歌が最後のサビを歌い始める。
私は適当に名前をタップし、現在地の位置情報を送り付ける。
『―――助けて』
その一言だけを添付し、バレぬようすっとスマホの画面を落とした。
「空季さん大丈夫?そろそろ到着するよ?」
「はい……なんとか。あとで水をもらって……いいですか?」
「水ね。わかった」
そういうと東条はタクシーの運転手に声をかけ、近くのコンビニに止まるよう指示をした。
「じゃ、少し待ってて」
彼はそういうと、すぐさま外へと出てコンビニへと駆け出して行った。
「運転手さん……助けてください。私……あの人に」
運転手に問いかけるが、俯いたまま言葉を返さない。
私はごくりと生唾を呑む。
「すまない……私は彼がここに乗り込んだ時、目をつぶれと言われてな。前金で3万円ほど受け取ってしまっているんだ。悪いことだとはわかっているが、受け取ってしまった以上、お嬢さんをここで下ろすわけにはいかないんだ。本当にすまない」
そういうと、すっと運転手は前方を向いてしまった。
もはや私からは言葉も出ることがなかった。
車のドアを開けようとするが、なぜかロックを解除できず、びくともしない。
夢……だと思いたいが、手の平を抓っても痛みが走るだけで、目の前の景色は変わってはくれない。
人生には一度ぐらい絶体絶命という場面があるというが、それが今まさにその時だとはこの瞬間まで感じず、心の準備がまったくできていなかった。
「お嬢さん……少し落ち着きなさい」
「落ち着けるわけ……ないでしょ!警察に通報するわよ!」
「通報……はあまり得策ではないぞお嬢さん。きっとお金を渡した彼はこんなこと、想定済みなんだよ。だからあんな風に自信満々なんだ」
「どうして……そんなこと言えるの」
私は掠れた気力で語気を荒らげる。
「私も……脅されているんだよ」
運転手は小さく呟いた。
私は先ほどまでの怒気が冷水を被せられたように鎮まっていく。
「どこで私の名前を知ったのかは知らないが、彼はタクシーを呼ぶ際に私を指名してきてね。タクシーに乗り込んで開口一番こういったんだ。"目的地に到着するまではこの子を出さないでくれ"ってね。そういって私の前に3万円を差し出したんだ。驚いたよ。何を言っているんだこの客はって。だから最初は断ったさ。"こんなものは受け取れない"って。そうしたら"これを見てもか"って一枚の写真を見せられてね」
「写真……?」
「あぁ。20年前に別れた妻との間に出来た一人娘だよ。彼は私に"近況が知りたいだろ?だったら言うことを聞いてもらえませんか?安心してください、彼女は当分起きませんよ"ってね。すまない、私はどうしても娘の近況が知りたいんだ。本当にすまない」
運転手は涙ながらに謝った。
私はため息をつき、運転手に呆れた。
同情は出来ないが、どうしても非難する気持ちにはならなかった。
決して運転手にすべての責任を押し付けてはいけない。
あまりにも計画的で隙がない状況に、私の酔った頭が明瞭となり、思考が警報灯のようにちかちかと回転し始めた。
彼の内には悪魔が棲んでいる。
私の背中に冷たい汗が一筋流れ、まるで心臓が悪寒に捕まれる感覚がした。
(つづく)
※第1話はこちらから
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