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カフェオレと塩浦くん #43


 美術館の企画展示を見終わった後、私たちは上野公園をコーヒー片手にぷらぷらと散歩していた。
 久々にずっと歩いているせいか、ふくらはぎが痛くなり、公園内の噴水広場に設置してあるベンチに腰を掛けた。

 遠くでは大道芸人が、大道芸やマジックを披露したりしている。
 あたりを見渡せば、私たちと同じように恋人たちが寄り添いながら座り合い、噴水の周りでは子供たちがわーきゃーと言いながらボール遊びをしていた。

 風が心地よく吹く、晴天の冬の土曜日はいつになく平穏であった。

「塩浦くん、これからどうするの?」
「うーん。決めてない。空季はどうするの?」

「私はもう決めたよ」
「どうするの?」

「来週の月曜日には退職届出すつもりだよ。塩浦くん、私には一言も言ってくれなかったけどもう退職届だしたんでしょ?」
「……うん。停職処分が次の日にはもう退職届は出したよ。遅かれ早かれこうなることはわかっていたしね」

「どうして?」
「空季は知らないだろうけど、三城部長は俺のこと、相当嫌っていたよ。結構嫌がらせとかもされてたしさ。それでもやっぱり上司っていうのは組織の中で権力を持っているわけだし、本当に些細なことを自分が我慢をすれば組織に波も立たないじゃん」

「でも……それってただ君が傷つくだけじゃ……」
「そうなるね。でも俺はそれを選んでしまったんだ。自分でも不甲斐ないよ」

 彼は俯いた。
 会社ではいつも周りを楽しませたり、気を使っていた彼が、心の中は傷だらけで血を流していたことに気づけていなかった自分が本当に未熟だと感じた。

「俺は自分の痛みから逃げ続けて、知らんぷりして。でもそれが結果として大切な人までも傷つけてしまった。だから、俺は空季に会うのが怖かったんだ。停職処分になったとき、心の隅の弱い自分がほっとしたというか、あぁ俺はまた逃げるんだなって思ったよ。何回も自分のことを責めたけど、やっぱりなかなか人って変われなくてさ。今日だってすごく来るのが怖かった」

彼の指は震えていた。

「それでも来てくれたじゃん。私は嬉しいよ?」
 私はその震える指を優しく握った。

「ごめんね」

 彼は謝った。
 それは何に対してだか私にはわからなかったが、きっとまだ私が誘拐されてしまったことを気に病んでいるのだろう。

 優しすぎるというか、考えすぎというか、それは病的なまでとは言わないけれども、自分の痛みよりも他人の痛みのほうが強く感じてしまう人間なんだなと私は思った。

 私と彼を静寂が包む。

「あ、そういえば塩浦くん。"遠くに行きたい"って言ってたけど、どっか行く当てあるの?」
「ないかなぁ。まだ何も決めてない」

「それならさ、広島行かない?」
「広島?」

「私の親戚の家があってさ。たまに戻ったりするんだけど、ここ2~3年いけてなくてさ。久々に行きたいなって思って」
「まぁいいけど……お邪魔じゃない?」

「邪魔じゃないよ。それにもう塩浦くんが"行く"っていうつもりで向こうに連絡しちゃった」
「え、うそ、早いよ空季」

「嘘じゃないよ、本当だよ。それにもし私に悪いことしたなんて今もずっと引きずるぐらいなら、私のわがままにも付き合ってよ」
「まぁ……うん。そうだね」

「はい、じゃあ決定ね。来月でいい?」
「うん、いいよ。日程決めよっか」

 それから私たちは日程を話し合い、一か月後の4月14日に広島に行くことを決めた。

 お互い、もう会社を辞める身としてはとても身軽なものであった。
 その後のことなんてなんも決めていなかった。

 今はただ、彼と一緒にいたいと思う気持ちだけが、私の未来を描いている。

 私は隣に座る彼を見た。
 彼は噴水で遊ぶ子供たちを見ては、少し微笑み、視線をずらしては青い空の遠くをじっと見つめていた。

「ねぇ、空季」
 ふいに彼の口が開いた。

「ん?」
「好きだよ」

 いきなりのことに私は戸惑い、照れる。

「どうしたの急に」
「なんとなく」

「なんとなくなの?」
「いいじゃん。言いたくなったんだから」

 そういうと彼は私の頭の後ろに手を添え、そのまま顔に引き寄せると、人目を憚らずにキスをした。

「……もう」
「ねぇ、今更なんだけどさ。約束してほしいことがあるんだ」

「なに?」
「俺のこと"塩浦くん"とか"君"って呼び方じゃなくてさ、下の名前で呼んでくれない?」

「……ごめん」
「俺は空季って名前好きだよ」

 私の胸が躍り、顔が熱くなる。
 本当に、彼はずるい。

「……雅也」
「なに?」
「……好き」

 そうして、私たちはもう一度キスをした。
 私の心は未だ、少女のように純真であった。


(つづく)



次話、最終回です。

これまでのあらすじはこちらから



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