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静 霧一『Pale Memories』

きっとこれは夢だ。
あなたの「別れよう」という言葉が、今も耳に残響する。
私は思わず耳を塞いだが、未だ残響は消えてはくれない。

これはきっと夢だ。
私は渇いた唇で笑った。



脱衣所で服を脱ぎ捨て、そっとお風呂場へと足を踏み入れる。
そして、いつものようにシャワーのノブを右に捻った。
シャワーノズルからは、温まりきっていない冷水の粒が溢れ出し、私の柔肌を傷つけていく。

冷水で痛いはずなのに、今の私にはその痛さを感じることは出来ない。
なぜならそれは、"今私は夢の中にいるんだ"と自らを錯覚させてしまっているからなのだ。

自らの手で打ち込んだ白昼夢という麻薬は、水の冷たさも、ひりつく柔肌の痒みも、ささくれのじんとする痛みも消してくれたが、どうも心の痛みだけは取れることなく、ぎゅっと心臓を鷲掴みされているように苦しかった。いつもなら湯舟に浸かる私だが、今夜はその気にはなれなかった。

シャワーを浴び終え、びしょびしょの身体で鏡の前に立つ。
なんとひ弱で、なんと薄っぺらいのだろう。
洗面台の疎らに水垢の付いた鏡面に、私はすっと手を伸ばした。
鏡越しの私に触れようとするも、ぴたりと張り付くだけでそれ以上向こう側へ行くことは出来ない。

鏡越しの世界線にいる私は、今幸せなのだろうか。
決して交わることのない向こう側に、私はふと憧れ、そして悲観し、力無く鏡面から指先を離した。

身体を拭き終え、少し湿っぽさを残したまま、いつものパジャマを着込む。
袖がヨれ、ボタンの紐が外れかかっているが、私はどうもそのパジャマの愛着を捨てきれずにいた。

生乾きの髪から、ほのかにシャンプーの匂いが香る。
あなたが好きだといった匂いだからと使い続けていたが、その匂いが香るたびに私の目頭が熱くなり、だんだんと視界が涙で溺れていった。

夢ならばどれほど良かっただろうか。
イヤホンから流れる「Lemon」が、私にそっと寄り添い、背中を撫でる。
心地よい優しさが、傷ついた心を慰めていく。
私は音楽に身を預け、深く、深くへと眠りについた。



真っ白な世界に、あなたがポツリと立っていた。
白い服を着て、黒い輪郭だけを描いるあなた。
色がない世界にいるあなたが手にしていたものは、色のない花束でした。

「ねぇ、どうして別れようなんて言うの?」
私は涙ながらに尋ねた。
「君は僕がいないほうがいい。そう感じたからだよ」
あなたは優しく答える。
「どうして?私はあなたがいないとダメなの」
私は必死になって声を上げるも、あなたは黙ったまま下を向いていた。

こんな思いをするのなら、出会わなければ良かった。
傷つくぐらいなら、好きにならなければ良かった。
この世は絶対値に縛られている。
「悲しみの後には」なんて言うけれども、そんな綺麗ごとを罵りたいほどに、私の心は棘だらけとなっていた。

この無色の世界は、夢だ。
夢だというのなら、あなたを散々罵るのも、わんわんと泣き叫ぶのも、パンっと顔を叩くのも、私の自由なのだろう。
それでも私は―――

「ありがとう」
小さく呟き、震える頬で笑顔を作った。
溢れ出る記憶が、一つずつ色を作っていき、あなたの持つ花束に色を重ねていく。
青に、黄色に、ピンクに、オレンジ。
彩りが花を咲かせ、だんだんと思い出の花束が出来上がっていた。

あなたがその花束を宙へと投げる。
虹の花びらがひらひらと舞い踊り、彩の雨を降らせた。
一緒に行った喫茶店、肩を寄せて見た花火、寒さで震える手を握り合ったクリスマス。
一枚一枚の花弁に、私とあなたが残した思い出が鮮明に映し出されている。

花びらを浴びた彼に、少しづつ色がついていく。
ぼやけていた輪郭がはっきりし始め、そして霞がかっていた顔がだんだんと晴れていった。
現れたのは、私の愛したあの日のあなたでした。

私は思わずあなたに抱き着いた。
私はその温かさに泣いた。

「ごめんね、ごめんね」
私は泣きじゃくりながら、謝り続ける。
あなたは何も言わず、私の頭を優しく撫でた。

ずっと、ずっと好きでした。
ずっと、ずっと大切でした。
鼻先に触れるぐらいに、ずっとあなたを見つめていたかった。

苦しみさえも愛せるのなら、もう少しあなたの手を握っていられたでしょうか?
あなたとの物語に、もっと愛の台詞があったのなら、もう少しあなたとお話しできたのでしょうか?
あなたとの舞台で、私がもっとあなたのステップに合わせることが出来たのなら、もう少しあなたと踊っていられたでしょうか?

それも、もうこの夢で終わり。
最後にもう一度だけ、あなたの胸の中で眠りたかったの。
わがままを言ってごめんね。
これで最後だから。
何も言わなくていいから、忘れられないくらい抱きしめて。
ただ、それだけだから―――

ずっと、あなたのことが好きでした。
ずっと、ずっと。

さようなら、私の愛した人。
きっと、どこかでまたあなたと会えたのなら―――


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