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生き方をデザインする。

子供の頃、1度はこんな妄想に耽ったことはないだろうか。

「もし、魔法が使えたのなら」
「もし、私に秘められた才能があったなら」
「もし、白馬の王子様に求愛されたなら」

恥ずかしながら、私も幾度となくそんな事を妄想していた時期はある。
そんな思春期を乗り越え、一旦落ち着いたかと思いきや、社会人になって大多数の大人がこの妄想病を再発させるのだ。

自分の思い描いた理想とは程遠い生活、淡々と過ぎていく日常、ストレスに晒される仕事、幸せになれるかどうかもわからない婚活。
鏡に映る理想からかけ離れた自分の姿に、ため息が出る毎日。
大人の逆説的な妄想とは、なんて質の悪いことなのだろう。

「理想」というあやふやな未来を人生の着地点としたとき、果たして今の自分は美しくデザインされている未来への途中にいるのだろうか。
かの偉大な彫刻家ミケランジェロは、「全て大理石の塊の中には予め像が内包されているのだ。彫刻家の仕事はそれを発見する事」だと言い残したことは有名であるが、これは私たちの人生にも言えることである。
自分の理想とする未来は、もともと目に見えぬ形で内包されており、私たちはその形を掘り当てていくという作業を行っている真っ最中なのだ。
壮大な夢を描けば描くほど、困難な工程を進んでいくのはそのためである。

生まれた瞬間の人間を、四角い石と考えるのなら、着地点Xに向かって私たちは黙々と掘り進めていく。
丸い形を作りたいと思うのなら、トンカチとノミで、ひたすら球体に削っていけばよいだろう。
だが、そんな形で満足しないのが人間である。
「オンリーワン」という特異な形の夢を描くとなると、技術と道具が必要となる。
トンカチやノミは一種類から数種類に増え、その使い方を覚える必要があり、そしてそれを使いこなすために修練も必要だ。
曲線を描くという作業でさえも、ひとえに上手くいくはずもなく、ひたすらに反復して削り続けることだろう。
だが、多くの人はその反復作業でさえ、一度の挫折で諦めてしまう。

例えば、「考える人」という彫刻を掘り出そうとしてみよう。
足や腕の形、ポージングから顔の表情まで、非常に難しい彫刻技術を使い、根気のいる作業が待ち受けていることが安易に想像できる。
ではまずは頭から掘りだすことにしよう。
ボーリングの玉のような形を、歪ながら掘り出し、それっぽい形となった。
次は腕を掘り出す工程だ。
掘り進める途中、私は誤って考える人の小指を一本、間違って折ってしまった。
果たして、あなたならこの後、彫刻をどうするだろうか。

これは、あなた自身の人生への問いかけである。
ある人は、「小指が折れちゃ形にならない」と、トンカチとノミを放り捨て、寝転がりながら怠惰を貪るだろう。
またある人は、適当でいいやとこのあとの作業も適当なものになるだろう。
これを挫折とするのなら、ここからが創造力の始まりである。

私なら、あえて指を3本にしてしまうだろう。
そしてその腕に、これでもかと筋骨隆々に描き、鱗を掘り出す。
なんと、奇抜だろうか。なんと、不自然だろうか。
この彫刻にタイトルをつけるのなら、「片腕がドラゴンになってしまって、思い悩む人」とでもつけるだろう。
模範解答が「考える人」であるのなら、これは間違いなく不正解だろう。
だが、人生にそんな模範解答など存在しない。


メディアやネットは、あれが正解、これが不正解だと勝手に決めつけてくるだろう。
だが、それは自分の未来に介在することの出来ない雑音に過ぎない。
一つのミス、一度の挫折は決して失敗なのではないのだ。
デザインとは美しくなければならないが、万人が美しいと思えるものなどこのようには存在しないし、それを作れるのは、ほんの一握りの天才だけである。

挫折や失敗の数は、その人が創造を繰り返した証である。
そうして出来上がった完成形こそが本物の美しさなのだと私は思う。


私たちの多くは、天才ではない。それは私も含めてだ。
だからこそ、私たちは模範された美ではなく、歪で、不自然で、奇抜な美を目指すべきなのだ。
きっと、子供のころに描いた美しい理想とはかけ離れてしまうだろう。
それでも、トンカチとノミを捨てずに、私たちは自分らしさを掘り続けていこうではないか。

出来上がったものに、もしかしたらクスリと笑ってしまう自分がいるかもしれない。
そうなれば、自分の人生は勝ちも同然である。
誰も作ることの出来ない自分だけの未来を掘り出すことができたのだ。
きっと、象られたその彫刻は、黄金に輝いていることだろう。

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