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カフェオレと塩浦くん #27

 ベッドの中で眠りについたのは夜中の3時を過ぎた頃であった。

 お互い疲れ果ててはいたものの、走ったり、叫んだり、逃げ回ったりしていたせいで、冬の季節だというのに服の下は汗をかいていた。

 彼はお風呂を沸かしてくれて、入ってきてくださいと私に部屋着を渡した。
 脱衣所で彼から渡された服を見たが、男サイズの灰色のスウェットの上下に、LサイズのTシャツだった。

「女性の人、呼んだことないんだ。ごめん」と彼は謝っていたが、私は内心それをひどく喜んだ。

 スウェットに鼻を埋めると、彼の香りが香った。
 東条のような香水臭いものではなく、彼の体臭と柔軟剤が入り混じった匂いだった。

 シャワーを浴び、ゆっくりと湯船につかる。
 今日一日ほど、感情が乱高下した日は生涯一度もない。

 浴槽のふちを頭を傾げ、白い天井に向かって疲れのため息をついた。
 まるで映画でも見ていたような、そんな気分であった。
 気持ちよくなってしまい、つい頭がかくりと項垂れてしまったため、私は湯船で寝てしまう前に浴室から出て、丁寧に体を拭い、スウェットを着込んだ。

 スウェットの首袖から彼のにおいが香る。
 私はそれに陶酔しながら、彼のベッドにごろんと横になった。

 初めて入った人の部屋で失礼だとは思ったが、もう体がぐったりと疲れていて、そんなことすら気を回すことができなくなっていた。
 彼がシャワーをひねり、ぴちゃぴちゃと水の落ちる音が聞こえる。

 スマホの画面を点けると「3:12」と表示された。
 こんなに夜更かしするだなんて大学生の時以来だろうか。

 私は彼の匂いに包まれなら、毛布の端をぎゅっと握りそっと目を閉じた。



 眩い光が瞼の裏を照らし出し、ちゅんちゅんという小鳥の囀りがベランダから聞こえる。

 私は少しだけ重い瞼をゆっくりと明け、夢から目を覚ました。
 上体を起こそうと寝返りを打とうとしたが、背中に何かが当たって寝返りが打てない。

 仕方がないので腕をついて上体を起こす。
 そこには背中を向けた塩浦くんが寝息を立てて眠っていた。

 いつの間に私の横で寝ていたんだろう。
 男だというのに、私のほうには体を向けず、彼は右手で布団を握りしめていた。
 気づけば私は無意識に彼の頭に手を伸ばしていて、その黒髪を優しく撫でた。

 未だに夢の中にいるんじゃないかと、私は手の甲を抓ってみたが、しっかりと赤くなり痛みが走る。

 もう少しだけこの幸せを噛みしめたい。
 普段ならしない2度寝も、今日だけはしたいと思える。

 私は布団の中に潜り直し、次は彼の背中を向けるのではなく、同じ方向に体勢を変えた。
 ぎゅっと彼の背中の服を摘まみながら、私はもう一度眠りに落ちた。

 再び目を覚ますと、彼はすでにベッドにはいなかった。

 台所ではジュージューと音がしていて、香ばしい匂いが私の鼻をくすぐる。
 私はゆっくりとベッドから降りて、匂いにつられるように台所へと向かった。

「あ、おはよう。上井さん」

 彼は笑顔を私に向けた。
 フライパンの中ではベーコンとソーセージと目玉焼きが焼かれている。
 私はその光景を、眠気眼で呆然と見ていた。

「洗面所で顔洗ってきてください。タオルとかはセットしてありますから、使っていいですよ」

 そういうと、彼は朝食づくりに意識を戻した。
 私は洗面所へ行くとバシャバシャと顔を洗い、眠気を落としていく。
 乱れた髪の毛を整え、リビングへと戻る。

「朝ごはん作れたから一緒に食べませんか?」

 すでにテーブルには湯気を立てたソーセージとベーコンと目玉焼きが白いお皿に乗り、キツネ色に焦げたパンが小麦のいい香りを立ち昇らせている。

 私は「うん」と頷き、彼の隣にちょこんと座る。
 自然とその距離は他人行儀なんかではなく、指と指が届く距離に自然に座っていた。

「いただきます」
 私と彼は食事の前に手を合わせ、2人でパンを齧った。

「バターいります?」
「もらっていい?」
「ちょっと待っててください」

 彼は冷蔵庫へと行き、チューブ状のバターとナイフを持ってきて私に渡した。

 パンの上にバターをつけると、パンの熱で融解し、生地の上に染みていく。
 バターを優しく塗り込んでいき、ナイフをお皿において、私はもう一口パンを齧った。


 誰かに朝ごはんを用意してもらったなんて何年ぶりの出来事だろうか。
 同棲なんてしたことない私にとって、他人の朝ごはんを頂くなど初めての経験かもしれない。

 私たちは無言のまま、むしゃむしゃと朝食を食べる。
 いつもなら流し見してしまうニュース番組も、今日はなんだか少しだけ面白く思えた。

 お互いのお皿が空になると、彼はそそくさとそのお皿を台所へと運んでいく。
「手伝おうか?」と問いかけたが、「大丈夫だよ」と彼にいなされてしまう。

 私は少しシュンとしながら、ボーとテレビ画面を見ていると、「上井さん」と呼ぶ声が聞こえた。

「コーヒーとカフェオレ、どっちがいい?」
 彼の手にはスティックが2本握られている。

「んー……。カフェオレ」
「りょうかい」

 彼は2つのマグカップを用意し、その中に粉状のカフェオレを入れる。
 トボトボとお湯が注がれると、家の中にカフェオレの香りが花開いた。

 温かなマグカップが渡され、私はコップの淵に口をつける。
 甘くてほろ苦い味が、一息の時間を私に与えた。

「ねぇ、塩浦くん……。聞いていい?」
「ん?」
「昨日……なんで助けに来たの?」

 私は少しだけ指を震わせながら聞いた。

 彼は考え込み、静かになる。

 私が昨日、助けてとメッセージを送ったことは間違いないが、別れる直前にあんな出くわし方をしてしまったんだから、私はてっきり見限られたのかと思っていた。
 だからこそ、彼が現れたときは奇跡だと思ったし、声を失った。

 彼に一体何があったのだろうか。
 沈黙が私の心を揺らす。

 私の手の平にじっとりと汗がにじみ出していた。

 (つづく)
※第1話はこちらから

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