【短編⑥】言葉は脆く、されど踊る。
足を踏み入れると、そこはまるでレトロな箱庭であった。
薄暗がりな照明に、クラシックジャズの音色、きらきらと極彩色を反射するステンドグラスのはめ込まれたアンティーク。
そのどれもが、私の感性を魅了した。
そんなアートとも呼べる店内を、私は子供のようにキョロキョロと見渡しながら、自分が寛げる席を探した。
まず目に入ったのは、焦げ茶色の古い木製のカウンターであった。
余白が残るほどにスペースを取ったカウンターの机は、まるで円卓のように角ばった角がどこにもない。
このお店は、カウンターの他にテーブル席が設置されていた。
テーブル席にはワインレッドのソファー席が置かれ、小さなボックスのような形を取っている。
私はどこに座ればよいかと迷っていると、カウンターでグラスを拭く背筋の伸びたおじいさんが適当に座りなさいと声をかけてくれた。
私は、それではと4人席用のソファー席に、余裕な面持ちで腰掛ける。
テーブルの隅に立てかけられたメニュー表を手に取ると、お食事のメニュー欄に目を通した。
上から、オムライス、ナポリタン、ハンバーグ、ビーフシチューと並んでいき、最後には冷やし中華なんてものが記載されている。
夏季限定などという文字はどこにもなく、それが常時メニューとして記載されていることに思わず私は驚きを堪えた。
だが、冷やし中華が1250円というのはだいぶ挑戦的な価格にも思えた。
きっとそれは、メニューには記載されているがあくまでもそれはアピールであって、店主はそれを注文させてくないのではなかろうかという裏腹さえ見えてくる。
私はそれに臆せずに注文しよう思ったが、財布の中身を見れば2500円しか入っておらず、結局のところ650円のナポリタンを頼むことにした。
私は店主と思われるカウンター越しのおじいさんにナポリタンとアイスコーヒーを注文する。
ちょっと待ってておくれと一言いうと、おじいさんはアイスコーヒーの準備をし始める。
カランカランという氷が転がる音がして、トクトクトクという心地よいコーヒーが注がれる音が聞こえた。
私は「待つ」ことが少し苦手だ。
童心にも似た好奇心と、むず痒い緊張が私の手足をそわそわとさせる。
カランという氷の音ともに、お待たせしましたという渋い声が聞こえると、私の目の前にアイスコーヒーが置かれた。
そのアイスコーヒーのグラスはとても洒落ていて、私はついそれに見惚れてしまった。
それは取っ手の低くついたワイングラスのような形をしていて、コーヒーが注がれているコップの部分はガラスに余計な曇りもなく、まるでコーヒーと氷がそこにコップの形を浮き出ているようにも錯覚させるほど、透き通っている。
なめらかな曲線を描いたコップの、ピアノ線のような細い淵に口をつけ、それをゴクリと一口飲む。
ただの変哲もないアイスコーヒーが、何か得体のしれない黄金の液体にさえ思える。
私の体中にアイスコーヒーが巡り、それは緊張した精神を弛緩させていった。
ソファーに体をもたれながらくつろいでいると、ジュージューという鉄板の上で何かが焼ける音が聞こえ、それが耳元まで近づいたかと思うと、ゴトンという鈍音とともに小さな鉄製のスキレットにこんもりと乗ったナポリタンが置かれていた。
ケチャップの油が弾け飛んだり、味のついた水分が湯気となって顔に覆いかぶさったりと、もはやそれは遊園地のジオラマのようなカーニバルを起こしていた。
私はその活気が覚めぬうちに、フォークを手に取り、一口分のパスタをくるりと巻き取ると、湯気とともにそれを口へと放り込む。
相変わらず口の中でも、それはやんちゃに暴れまわるが、次第にその熱にも慣れ、私はナポリタンを食した。
果たして、このナポリタンが美味しいのか、それともこのお店の雰囲気の中で、この器に乗ったナポリタンがそれを美味しくさせているのかは分からない。
分からないが、とにかくこれは美味しいと、二口三口と食べ進め、気づけば空のスキレットだけがテーブルにポツリと取り残されていた。
おかわりと言いたいところだが、財布の残金が頭をよぎり、上げかけた手がプルプルと小刻みに震えながらテーブルの下へと戻っていった。
私はソファーにまたお尻を深く座らせ、体を預ける。
すると、お店の入り口からカランカランという音が鳴り、お客が入店してきた。
興味本位でテーブルから体をのぞかせると、それはどうも華奢な体つきとその背丈から女性であることがわかった。
だが、パーカーを着てフードを被っていたせいか、肝心な顔に影が出来ていて見ることはかなわなかった。
ちょうど、その女性は私のソファー席に位置する通路を挟んだカウンターの席に座り、アイスコーヒーを一つ注文していた。
女性はパーカーのフードを外し、頭を軽く振った。
フードから現れた女性の髪の毛は綺麗な青色に染められていた。
例えるのなら青いガラス細工のような透き通った青と言えばいいのだろうか。
チラリと見えた右耳には、銀色のピアスがきらりと光っている。
純喫茶にはとても不釣り合いな、とても違和感のあるその女性の姿に、私は心の中で思わず「こんなところにいる人じゃないだろう」呟いてしまった。
「ねぇ、いま私のこと"こんなところに入ってくる人間じゃないだろう"って思ったでしょう」
私はその言葉にびくりと反応する。
その女性は座っていたカウンターの丸椅子をくるりと回し、こちらへと向いた。
私はその女性の顔に呆気にとられた。
白い肌に、くっきりとした目鼻立ち。
腫れぼったく塗られた赤いルージュのようなアイシャドーに、くっきり目元に引かれたアイラインが特に私の目を惹いていた。
今風でいうと、"地雷メイク"とでもいうのだろうか。
さらに、女性だと思っていたその容貌は女性というよりも、少女というのが正しい。
まるでフランス人形のような少女は、カウンターに置かれたアイスコーヒーを手に持ち、私のテーブルまで歩くと、向かい側に座った。
少女の目は私の目の奥を探るようにじっと見つめる。
「私ね、ここが好きなの。好きなものに外見なんて関係ないわ」
「あ、あぁ……すまん」
思わず私は謝った。
多分謝る必要なんてなかったのかもしれないが、それはまるで呼吸をするかのような長年の癖のようなもので、そう言わなくては自分が満たされないと思ったのだ。
「嘘。いま何も考えてなかったでしょ」
図星であった。
その言葉は鋭く、私の心に突き刺さる。
突き刺さったまま抜けないものだから、だんだん呼吸も苦しくなって、声さえ出ない。
「本当素直な人ね。素直すぎて生きるのが辛そうね」
「そんなことは……!」
「そんなことは?」
「ない……はず」
勢いよく立ち上がったものの、自分が否定した言葉にいまいち説得力を持つことが出来ず、私はまたへなへなとソファーへ座った。
「ねぇ、私と取引しない?」
「と、取引?」
私は急な展開に驚く。
「ねぇ、人の心が読めるようになったらどうする?」
「どうするって……そりゃ」
私は会社の人たちを思い浮かべた。
復讐してやりたいやつらはいっぱいいる。
そんな能力があれば、私に嘘をつく者はいなくなるし、悪事だってすぐに見抜ける。
便利な能力じゃないか。
「復讐ね……まぁいいや、大体の人って"人の嘘を見抜きたい"とか"人の好意が知りたい"とかそんなことしか望まないんだよね。いかに自分が愚か者かわかるようになるよ」
「君は人の心が読めるのか?」
「えぇ」
「それってどうなんだ?」
「それは自分が体験してみてからもう一度聞いてちょうだい。じゃ、手だして」
私は言われるがままに両手を差し出した。
その両手を白くか細い彼女の指が包み込む。
その指は冷たかった。
「そのまま目を閉じて」
言われるがままに目を閉じる。
すると、指先からなにか冷たい液体のようなものが血管を伝って徐々に体をめぐる感覚に襲われた。
不思議な感覚であった。
されど、どこかで見知ったような感覚でもある。
あぁ、そうか。これはさっきのアイスコーヒーを体に流し込んだ感覚と一緒だ。
体を巡る大きな海流に身を任せていると、その感覚はぷつりと電源を切るように途絶えた。
「終わりよ。目を開けてちょうだい」
私はゆっくりと目を開けた。
そこには先ほどと変わらないフランス人形のような少女の顔があった。
「じゃ、一か月後またここにきて。その時、また話しましょ」
そういうと、少女はアイスコーヒーを飲み切り、さっさと喫茶店を出て行ってしまった。
喫茶店の店内は、またクラシックジャズの流れるゆっくりとした時間へと戻った。
「そういえば……名前聞いてなかったな」
私はぼそりと呟いた。
アイスコーヒーの氷がカランという音を立てて溶けていく。
天井を向くと、そこにはぼんやり明かりの灯る照明だけがぶら下がっていた。
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