何故なしに生きるということ 「PERFECT DAYS」と神秘主義
ここ数回は香港の哲学者、ユク・ホイの著書に感銘をいだいたことをきっかけに京都学派にあたり東洋思想の影響なんかを交えて、近代とテクノロジーについて考えを巡らせてきた。しかし、今回はちょっとばかしこのテーマは措く。
ヴェンダースが選んだもの
年末年始の休みにヴィム・ヴェンダース監督の映画「PERFECT DAYS」を観た。主演の役所広司が2023年5月のカンヌ国際映画祭で主演男優賞を、2004年の是枝裕和監督「誰も知らない」の柳楽優弥以来19年ぶりに受賞したことですでに早い段階から話題になっていた。
なんといってもヴェンダースの日本での人気は根強い。「ベルリン 天使の詩」が80年代にミニシアター系映画では異例のロングランを成し遂げたり、2000年の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のヒットは、サルサブームをさえもたらした。そうでなくとも「パリ・テキサス」を生涯ベストテンに数える日本人映画ファンも数多くいる。
ヴェンダース自身も、小津安二郎への愛を惜しみなく表現する。「ベルリン 天使の詩」のエンドロール前に、トリュフォー、タルコフスキーと並んで映画の“天使”として献辞を捧げているし、小津映画の面影を東京に追った「東京画」というドキュメンタリー映画まであるのだ。「東京画」の冒頭で、「東京物語」の尾道、上京前の平山家の茶の間で、笠智衆が東山千栄子に水枕を持ったかと尋ねるシーンに被せて「トリュフォーは小津の映画には世界の家族がいるといった」とナレーションが入る。小津映画の普遍性を高らかに宣言する言葉だ──「東京画」を見直す余裕がなく、30年以上前に映画館で観たときの記憶だけを頼りにしているので、大きな間違いがあるかもしれない。悪しからず、ご了承いただきたい──。
ことほど左様にヴェンダースと日本の関係は深い。
そもそも、わたしが最初にカンヌでの「PERFECT DAYS」上映のニュースを聞いたときに思ったのは、2008年にヴェンダースが村上龍の小説でファンも多い『インザ・ミソスープ』(読売新聞社/幻冬舎文庫)をウィレム・デフォー主演で撮ると発表していたことだ。ヴェンダースはこの企画をサイコホラーとして撮るのだと言っていた。おそらくはパトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』(佐宗鈴夫訳/河出文庫)を原作にした1977年にデニス・ホッパーを主演に迎えた同名作のようなジャンル映画を目指していたのだと思う。
『インザ・ミソスープ』映画化についてはついぞ聞かなくなったと思っていた矢先に登場したのがこの「PERFECT DAYS」だった。
ルー・リードとアル・グリーンの“Perfect Day”
「PERFECT DAYS」のモチーフになっているのは米ロックミュージシャン、ルー・リードの名作アルバム「Transformer」──劇中、主人公が下北沢のカセットテープ屋で手にとる──の一曲“Perfect Day”だ。同アルバムでもっとも有名なロックアンセム“Walk on the Wild Side”の過激な歌詞──この歌の物語はどこかヴェンダースのロードムービーを思わせる──に比して、静かで平穏な歌詞である。今回の映画にも通ずるような感想を言えば、どこか宗教的な、禁欲的な日常の美しさが歌われるのだ。
ヴェンダース映画のカンヌでのニュースよりあと、2023年の8月にソウルシンガーのアル・グリーンが同曲のカバーを発表している。古式ゆかしいままのハイ・サウンドのバックに包み込むようなアルの歌が響く、素晴らしいカバーでもあった。アル自身も、オリジナルの“Perfect Day”が大好きだったと語っている。アル・グリーンは人気の絶頂期に牧師に転身し、一線から身を引いて宗教活動を行なっていた。ソウルシーンに戻ったのは10年以上のちのことだ。アルが宗教活動に転じた理由もまた壮絶──付き合っていた女性に大火傷をおわされ、その女性は自殺した──だったことを考えると、この曲の穏やかさにある種の宗教性を牧師ならではの経験から感じ取っていたのではないかと思う。
わたしはヴェンダースの「PERFECT DAYS」の日本公開を待ちわびながら、アル・グリーンの“Perfect Day”を聴いてすごしていた。
ルー・リードは特別な詩人だ。ニューヨークのドラッグカルチャー、ストリートカルチャーを織り込んだ複雑でセンセーショナルなストーリーを語りかけるように歌う一方で、シンプルな歌詞で静謐な思いを祈りのように歌う。
「PERFECT DAYS」でもう一曲とりあげられたヴェルベット・アンダーグランド時代の”Pale Blue Eyes”も祈りのような曲でこちらもカバー曲が多い。ルー自身は『ニューヨークストーリー ルー・リード詩集』(梅沢葉子訳/河出書房新社)のなかで、ヴェルベット・アンダーグランドのドラマーだったモーリン・タッカーのカバーが好きだと述べている。
この映画「PERFECT DAYS」は“Perfect Day”や”Pale Blue Eyes”のみならずさまざまな曲が使われている。それは劇伴というよりも、ほとんど曲がシーンのテーマとなるような使われ方である。思えば、ヴェンダースは自身の映画でこのような曲の使い方を多用する。このごろ、日本のアニメ映画などでシーンがそのままミュージックヴィデオのような作りになっているものを見かけるが、曲をそのまま、映像のストーリーテリングに取り込むような手法はミュージカル映画の方法を除けば、ヴェンダースが発明したのではなかったか?
ヴェンダース映画には多くのミュージシャンが登場する。ルー・リードも「時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!」に本人役で登場しているし、「都会のアリス」のチャック・ベリー、「ベルリン 天使の詩」のニック・ケイブ&ザ・バッドシーズなど印象的なライブシーンも数え上げればキリがない。
そうだ。ルー・リードにも「ベルリン」という名作アルバムがあることも付記しておこう。そしてNHKの『映像の世紀バタフライエフェクト「ヴェルヴェットの奇跡 革命家とロックシンガー」』でも取り上げられたように、チェコスロバキアでのヴェルベット・アンダーグランドの時代のルー・リードのセンセーショナルな歌詞が若者に自由と想像力を与え、ビロード(ベルベット)革命を起こし、やがてはベルリンの壁を崩壊させる契機になっていったことも有名だ。ルー・リードの詩は強い。
このほかにも、使用曲でわたしが言及しておきたいものはたくさんあるのだが、紙幅がない。エンディングで使用され印象深いニーナ・シモンの“Feeling Good”も素晴らしかった。
小津と禅
ニーナ・シモンの“Feeling Good”は、アルバム「I Put Spell on You」のB面の1曲目に収録されている。デジタル音源が当たり前の昨今、なんでそんなことを知っているかといえば、わたしはむかしからこのレコードアルバムを持っていて愛聴していたからだ。だから映画でこの曲が流れたときには涙を禁じ得なかった。いったい、それは主人公と同じものだったのか、わたし自身の過去が蘇ったためかはわからない。そのままにしておきたい。
それでは、なぜこのアルバムを持っていたのかといえば、これまたヴェンダースにまで辿れる。というのもアルバムタイトル曲“I Put Spell on You”はスクリーミン・ジェイ・ホーキンスのもので、その曲を知ったのは──わたしの世代の多くのサブカルファンがそうであるように──ジム・ジャームッシュ監督の映画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」で、なんども安っぽいカセットプレーヤーで再生されるからだ。そして、ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」はヴェンダースから譲り受けたモノクロフィルムがもとで撮影されたものなのだ。思い出してしまったので書き足すが、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」でもジョン・ルーリー演じる主人公が競馬をするシーンで、馬の名前が「晩春」、「出来ごころ」、「東京物語」とでてくるのだ。
ジャームッシュにも「パターソン」という、乗合バス運転手の非常に静謐な日常が描かれた映画がある。映画「パターソン」に小津の影響をみるのは、「PERFECT DAYS」にそれを認めるのと同じぐらい容易なことだろう。「パターソン」の主人公も、あたかも俳句のような詩をノートに書き綴るのを日課にしている。
そして、欧米の批評はこれらの映画に対し声を揃えていうだろう、ZEN(禅)の世界だ、と。
労働という祈り
ビルの床清掃をして糊口をしのいでいたことがある。大学を出てすぐのことだ。就職活動というものをいつはじめて、どうやってやるものか知らなかったのと、どんなに口が曲がってもお愛想のひとつも言えなかったせいで、バブル崩壊直後とはいえまだそれほど冷えんではいなかった就職市場で見事に迷子になった。あわてて安物のスーツを買って学生課の募集をみて何社か面接にいった。面接で「御社の取り組みは……」云々とやっているうちに気分が悪くなって、面接に行った会社を出て路上に嘔吐した。それほど心にないことを話したことがなかったという未成熟さのせいなのだが、すっかり就職を諦め就職活動をやめてしまった。
仕方なくアルバイト雑誌を開いて平日昼間に働ける仕事を探した。それがビル清掃だったというわけだ。
当時のバイト仲間はバンドマンや小劇場の役者ばかりだった。みんなロックが好きだった。だから、現場に向かうミニバンの車内ではいつもロックが鳴り響いていた。ストリーミングサービスどころか、MDさえない時代だったから、カーステレオはカセットテープだった。
映画「PERFECT DAYS」で主人公がカセットをカーステレオに差し込むのを懐かしく思っていたし、当時、現場へ出発する朝はみんな缶コーヒーだった。映画とちがうのはくわえタバコだったことと、カセットはレンタルレコードからのダビングだったから、maxellやTDKのノーマルテープだったことだ。
バイト仲間が、床清掃に非常な熱心さを傾けるわたしに「きれいにすることよりきれいに見えることだよ(そのほうが効率がいい)」とか「バイトはお金になればいいんだから(それ以上、がんばっても意味ない)」と言ったことも、今回、「PERFECT DAYS」を観て、主人公の仕事仲間(柄本時生)の振る舞いから、わたし自身の強烈な記憶として思い出した。
わたしといえば、嫌なことばかりの毎日のなかで清掃に打ち込むことぐらいしか気が紛れることもなかったし、生まれた禅寺で「不浄の掃除は心の浄化」と言われ育ったためもあってお金以上に何かを求めているところもあった。とはいっても、まあまあの頻度でサボっていたが。
ビル清掃の現場は月に1度ぐらいの頻度で訪問するわけで、「PERFECT DAYS」の主人公のように毎日、同じ現場を回ることはなかった。ただ、やはりトイレなどの清掃は高齢者の方たちが毎日、同じ現場に出勤していた。雇い主の会社は同じであるから、挨拶するぐらいの仲になる人もあった。
そうした年寄りたちはみな丁寧に懸命に清掃していた。きっとそういう姿をみてわたしも熱心さを傾けるようになったのだろう。後年、海外のニュースで新幹線の清掃員や空港の清掃員のプロフェッショナルぶりが取り上げられるのをみて、妙に嬉しかったのはこの経験のためだったかもしれない。
わたしは当時から、丁寧に懸命に清掃に励む年寄りたちの姿がなにかに祈る姿に似ていると思っていた。それは畑仕事に励む農家の方たちや、土木現場で働く人たちにも同じく祈りのオーラを感じることがあった。
だから、「PERFECT DAYS」のトイレ清掃員の姿に感動したのは、祈りのオーラを役所広司が身に纏っていたからだ。それは、欧米の批評とはまた別の禅の姿であったと思う。
「PERFECT DAYS」のパンフレットに次のことばを見つけたときは同じ感覚があると思った。
これは共同で脚本を手がけた高崎卓馬がヴェンダースに宛てたシノプシスの冒頭に書かれた言葉だという。ただ、この後につづく「他人のために生き、それをひたすら繰り返す。」には合点のいかないものがある。このパンフレットで対談をしている小説家、川上美映子の発言にも同じく違和感を抱く。長いが引用する。
わたしたちは戦争直後から松竹ヌーベルバーグ期にかけての小津安二郎に対する若者たちの批判を知っている。曰く、「戦後の混乱で労働者たちが食うや食わずで生きているなか、鎌倉あたりの中流家庭の娘の嫁入りなんぞにどんな現実があるというのか」と、多くの若者たちが小津を無視した。戦後の小津にも「東京暮色」のような映画はあったが、かえって現在では評価が低い。この「PERFECT DAYS」に対する川上美映子の考えは、当時の若者たちのそれとほぼ同じだ。その点でも「PERFECT DAYS」が小津映画に似ているとすれば皮肉めく。
この映画を、ある種の現代都市のファンタジーとして消費することも、そのファンタジーをファンタジーとしてリアリズムの視点で批評することも、わたしにはとても貧しいことに思えてならない。というか、そんなことは誰でも言えそうなことで、そんなことなら何も言わないほうがいいのではないかと思う。松竹ヌーベルバーグの若手監督たちの小津批判がなんら普遍性をもたなかったように。
劇中で主人公・平山の姪ニコ──これらの名は小津映画へのオマージュでもなく、ヴェルベット・アンダーグランド関連のそれでもないと雑誌「SWITCH」2023年12月号のなかで高崎卓馬が答えている──が平山にねだって借りていくパトリシア・ハイスミスの『11の物語』(小倉多加志/早川書房)の「すっぽん」のヴィクターのように、歪んだ世の中を見せて歪んだ子どもが生みだされることのきっかけはこういう誰でも言えそうな言説のもっともらしさがもたらすものだと考えてしまう。ニコがヴィクターにシンパシーを感じるのは、大人たちが決して自分で生み出したわけではない、他者の視線から学んだ軸でしかが判断しないからではないか。狂っているのは子どもか大人か。川上が批判的に指摘するように、平山がみせる子どもっぽさがかえって重要だと、わたしは考える。
平山と三上の生きる道
映画「PERFECT DAYS」のオープニングカットはかなりなローアングルだ。繰り返される日常のタイムスタンプとなる竹箒で道を掃く音がし、竹箒を握った老婆のむこうに平山の住む安アパートが映る。そのアングルはまるで安アパートを宮殿か神殿かのように見せる。小津映画へのオマージュとして──厚田雄春のカメラによる──ローアングルかと勘繰ったが、小津映画では建物をそういうふうには撮らない。はたして、ローアングルで見上げられた安アパートは荘厳な僧院のような印象として残る。
平山の日常を禅僧のそれに準えることも簡単だろう。しかし、平山に禅僧を見るには世間への未練が煩悩めいて見え隠れする。かといって禅を離れたミニマリストとしてみても、そこには主義や信条はまったくない。
平山はどこかで世間を覗きこんで未練を残しているし、──役所広司がインタビューで意外な演出だったと驚いていたように──仕事仲間の柄本時生の急な退職によって増加した業務についての不満を雇い主に強い口調で言うシーンも、スナックのママのお世辞にヤニさがったり、その逢瀬に出くわして慌てふためく姿はけっして悟りのそれではない。
無口ではあるが、その内奥にある感情は静謐なままではないのだ。むしろそれが平山の魅力になっている。
それでは平山は頓悟を目指しているかといえば、わたしにはそういうふうにも見えないから清掃業務や生活態度は修行のようにも見えない。それは修行とはべつに祈りのように見えるのだ。願いではない。祈りだ。自力ではなく絶対的な他力にすがるような。
この映画を観て、同じく役所広司が主演した西川美和監督の映画「すばらしき世界」を思い出した人は多い。「すばらしき世界」はノンフィクションライターの佐木隆三が書いた『身分帳』(講談社文庫)を現代に置き換えて、佐木の自身の語りをTVディレクターの若者を狂言回しにした構成になっている。
主人公となる元ヤクザで元殺人犯の名も、小説の山川から映画では三上に変えられている。この三上は、平山と見事な対照をなす。きっとほかにも同じことを論じる人がいるだろうから、あまり立ち入らないが、平山が現在の一瞬に生きようとする禅の僧侶とするなら、三上は過去の呪縛を解き現在に踏みとどまろうとする悪人正機説の浄土真宗の信徒だ。三上の過去はそこらじゅうに刻印されている。体には刺青があり、心にはトラウマが残っている。対して、平山の過去は語られないし、わずかに姪を迎えに来た妹の佇まいから上流な育ちを想像させるのみだ。それは経済的な上流なのか、教養的な上流なのか、いや現代は経済的な豊かさが教養の豊かさの必要条件であるなら、そのどちらともの上流なのだろう。
平山の生活に過去がみえるのは本と音楽だが、それも学生時代以降の成熟がみえるものでもなく、気の利いた大学生ほどの趣味といえば、そういえるもので特別な家柄を示唆するとも言い切れない。
精妙で難解な生のバランス
ここまで話しながら、わたしが平山に否応なく禅をみるのは、その悟りきれぬ凡庸さゆえだ。もちろんドラマツルギーの要請としても、悟り切った清掃員であれば映画もまた凡庸なものになっていたであろうから、悟りきれぬ凡庸ゆえの主人公の揺らぎが観る者に橋を渡しその感情を共振させるのであるが。
さきにパンフレットからの引用で、わたしが高崎卓馬や川上美映子の発言に違和感があったのは、禅というものへのありきたりな誤解があるからだし、かえって平山に禅をみることの理由は、もっともらしさや◯◯っぽいことの嘘こそ、禅が嫌っているものだと考えているからだ。いや、わたしは禅などまったくわかってはいないが、それでも役所広司が演じることで平山というキャラクターが得たのはそんなふうに、なにかの根拠や理由をもって存在しているからではない。なにかのため、誰かのためにそこにいるからではないし、三上のように自分のために過去を埋め立てながらそこにいるわけでもない。
ヴェンダースがドイツ人であり、この映画に対し禅のようだという評価もあることからわたしが連想する名前は中世のドイツに生きたキリスト教神秘主義の代表者であるエックハルトだ。エックハルトについては、前回の記事でも京都学派との絡みのなかですこし触れた。
エックハルトは「無」をめぐる思想で禅と通底し、ハイデッカーにも影響を与えた。やがて異端審問で処刑された人物だ。わたしはエックハルトと禅の関係を京都学派に連なる哲学者、上田閑照の『哲学コレクションⅣ 非神秘主義 禅とエックハルト』(岩波現代文庫)で詳しく知った。本のなかで繰り返し引用される詩がある。それはルネッサンス期の神秘主義の宗教詩人シレジウスのつぎのものだ。上田閑照の本では一部分の引用なので、『シレジウス瞑想詩集』上(植田重雄、加藤智見訳/岩波文庫)から全文を引用する。
上田が注目するのは「理由なし(上田の訳では何故なし)」の部分だ。人々は存在に理由や根拠を求める。ふつうであれば、平山の静謐さに、穏やかな暮らしに理由を求める。しかし、ヴェンダースはそれを避ける。それだけでなく、理由として落着できそうな修行の姿や悟りの姿を遠ざける。それがわたしには重要だった。
平山は“無”になろうとしている。しかしながら“有”と強引に抗うことも違うと気づいている。先に挙げたハイスミスの「すっぽん」のヴィクターが母親に答えるように「無念無想」をしているというのでは、そもそも無念無想とは程遠い。すこし力を入れれば、それは遠ざかる。透明になりきれず、自己を消しきれずにいる哀しみこそ、この映画を貫いているもので、その大きな哀しみが祈りにみえる。
『臨済録』(入矢義高訳注/岩波文庫)──訳者の入矢義高について、上田の『非神秘主義』のなかに素晴らしいエッセーがある──で有名な公案には「無位の真人(すべての地位や肩書きを離れて本来自然のままで真実の人)」とは何かと激しく問われて「乾屎橛(かんしけつ:糞掻き箆)だ」と答えるというのがある。
平山は何故に生きると自分に問い、自分に答えるように目の前の便器を磨いている。そこにこそ私は禅を見てとってしまったのだ。
平山はファインダーを覗かずに木漏れ日を撮影し、仕上がりの良し悪しを厳しく評価する。ファインダーを覗かないということで自分を無化していながら映った写真になにか消えきれないもの(自分)があると破り捨てている。そう見えるのだ。木漏れ日のように、日光と枝葉の関係の中にのみ姿を現すものとして、存在しようとしているように思えるし、三浦友和が演じる友山と興じる影踏みは平山の子どもっぽさを感じさせつつも、影という存在証明を互いに認め合う仕草に思える。そんなふうに影にも透明にも、“無”にもなれず悟りきれもせずとも、ただある。そういう平山に、わたしたちに近づけるような生のあり方を感じた。「平山に会いにいく」とプロデューサーの柳井康治の言葉が何度もとりあげられているが、この感想がフィルムに焼き付けられた修行でも悟りでもない生を象徴しているのではないか。
だからこそ川上美映子のように、平山の姿に感じ入るだけの満たされた観客たちの傍観を疑うより、川上自身がいう彼岸と此岸のあわいにいる平山の生き方を観客は学ぶべきであり、扱いやすい解釈やキャラ付けで平山を眺めてはいけないと思うのだ。
彼岸と此岸とは、永遠と一瞬のことだ。繰り返される日常は永遠のようであり、一瞬の積み重ねのようでもある。禅に見立てて言えば「永遠即一瞬 一瞬即永遠」というような。日日是好日のままに、平山は一年後の朝もアパートのドアから出て空を見上げて微笑むであろう。その日もきっと好い日であろう。取り返しのつかない一瞬を生きながら、それがそのまま永遠を生むような。永遠に続くようにみえて、一瞬ごとに姿をかえる世界のような──木漏れ日のようにたゆたう瞬間。そのどちらでもあって、そのどちらでもない生。
そういう平山の生のもっとも精妙で難解なバランスを見落とさないようにしなければならない。
すっかりとりとめなくなってしまった。エックハルトとハイデッカー、禅と京都学派をめぐってテクノロジーを思索する道の寄り道として、今回は映画「PERFECT DAYS」から禅的なものにまとわりつきやすい、それっぽいだけのイメージを探ってみた。
おっと、もうひとつ思い出した。鎌倉にある小津安二郎の墓には「無」の銘が刻まれている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?