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テクノ・リバタリアンから神秘哲学へ

わたしがやっている「Web IT批評」のインタビューを書籍化、刊行して、すでに2カ月が経った。いまだに喜びと不安が同居するような気持ちで成り行き(売れ行き? 反応?)を見ている。

ELIZAの亡霊

たくさんの人からの支援と協力があって刊行した『生成AI時代の教養 技術と未来への21の問い』(桐原永叔・IT批評編集部編著/風濤社)は制作請負やら編集のみを担当した書籍を除いてずいぶんと久しぶりの本となった。インタビューしたり文章を書いたりは「Web IT批評」を通じて行なっていたのだが、1冊の書籍を制作するとなると気持ちのうえでも力が入る部分があった。そのために、果たしてちゃんと読者に届くだろうか、読んでもらえるだろうかという不安はひとしおで、Amazonの順位やら取次店のデータやらが気になって仕方がなく、お恥ずかしいことに、そういう状態は今もつづいている。
同時に、古くから懇意にさせていただいていたベテランの書店営業の方々のご支援で、蔦屋代官山店で、トークイベントなどという身に余る催しを開いていただくことができた。このイベントでは、書籍刊行後の燃え尽き気分もあって、なるべく力を抜いて親しみやすい話題となるように心がけた。
AIといえば、すぐに仕事を奪われる式の、人間の尊厳を損なわれる式の脅威論に偏る。一方で、ビジネス界隈に目を向ければ、ビジネスへのAI導入が遅れれば、いよいよ日本産業は没落するぞというような危機感、あるいはAI導入でビジネスはこんなに変わる、競争のルールが変わって君にも彼にもチャンスがあるといった立志論が目につくように思う。
だから、トークイベントに登壇いただいた中央大学の岡嶋裕史先生と相談して、AIがもたらすディストピアでもユートピアでもない未来を語らった。ちょうどよい湯加減のAI論といった感じだ。なんとなれば、ChatGPTの公開以降、ついに誰にとってもいつでも使えるAIが登場し、いよいよそのユーザー層が爆発的に拡大したと実感しているからだ。これはどういうことかといえば、肩肘はらないユーザーの自分勝手な欲望おもむくままのAI使用が日常になるということでもある。
岡嶋先生も言っていたが、ビデオデッキはアダルトビデオによって普及が大きく促進されたし、インターネットがより一般化する過程でのエロ画像、動画へのリビドーを無視することはできないだろう。同じ視点でいえば、生成AIに美少女イラストを描かせ、それを動かしたい、その美少女とコミュニケーションしたいというリビドーもやはり推進力となるだろう。
これまで意識の高い者たちのツールだったAIはそうやって本当の意味で民主化していくのだろうと思う。
「Eliza」と名付けた対話型AIと気候変動の問題を語り合ううちに絶望感を募らせたベルギー人の男性が自殺した例もAIが卑近な存在になったことを示している。Elizaという名の皮肉に気づくのはAIの歴史に通じた人だろう。それは1966年にジョセフ・ワイゼンバウムが発明した人類初のチャットボットと同名なのだ。ChatGPTに比べれば圧倒的に原始的な自然言語処理モデルしか有さなかったとはいえ、人と会話できる機械など想像できない時代において大きな感銘を与えた。期待の大きさゆえか、機能の限界があらわになるにつれ多くの研究者を失望させた、かつてのELIZAの亡霊が遂に人間を死に導いたというのは象徴的な出来事だろう。

選択肢よりも正解を求める若者

岡嶋先生も『ChatGPTの全貌』(光文社新書)のなかでELIZA効果といわれる現象について広く論じている。ELIZA効果とは、この初代のELIZAによって確認された事象だ。理論、原理としてはそれが機械であると理解していても、その応答がすこしでも文脈に適えばどんな応答であれ好意的に解釈して、わたしたち人間はELIZAのような“おしゃべり機械”に人格を感じてしまうのだ。
前回の記事に書いたようにわたしたちは近代以降、総じて孤独を感じやすい世界に生きている。すこしでも誰かに承認されなければならないという思いが常態になっているのだ。
だからこそ、積極的にAIに人間のあたたかみを感じようとする。岡嶋先生はそういう状況を件のトークイベントでも『ChatGPTの全貌』のなかでも、1976年に刊行された星新一の『妖精配給会社』(新潮文庫)を喩えにする。妖精たちは所有者の承認欲求を満たすうちに、所有者をして家族さえ不要のものとさせる。驚くべきは当時、最先端のメディアであったテレビさえ個別の欲求に対応できる妖精によって存在感を失っていく。先生は、この妖精たちを現代におけるSNSのメタファーとして使い、その後の対話型AIのそれとしても挙げる。
最も重要な示唆は、わたしたちが孤独と疎外感ゆえに、AIに人格を認め慰められることを求めるのみならず、判断や決断さえも委ねてしまうことがある点だ。先のベルギー人男性はその先例かもしれない。
岡嶋先生は次のように書く。

人間は操られやすいのだ。むしろ、操られたがっていると言ってもいい。推しに群がるファン、ホストに群がる客、教祖に群がる信者、いい夢を見せてくれる誰かに操られることは陶酔を生じさせる。

『ChatGPTの全貌』

トークイベントではこの点について時間を割かしていただいた。
前回、AIがデマゴーグを生成しうる懸念を述べた際にとりあげたように、人間はある状況において自由から逃避する。権威主義にすがりつき、カリスマに操られることを求めるのだ。
私と岡嶋先生は、「選択肢よりも正解を求める若者」という背景において、このテーマを話し合った。実態としてどれくらいの裏づけがあるかはやや不安なのだが、近年の若者論のひとつに「絶対に間違いたくない」、「最短で(タイパを最大化して)答えを得たい」傾向が顕著になっているというのがある。テレビやネットの言説においては、よく目にするものだ。
こうした素地があるなかで、AIデマゴーグが誰にでもわかりやすいもっともらしい“正解”を生成してしまえば、容易に若者を動員することができるだろうし、それを政治的な力にする方法もいくらでもある。
岡嶋先生は“もっともらしさ“こそ、言語モデルの中核だという。確率計算によって、言葉の接続のもっともらしさの尺度である「尤度(ゆうど)」を最適化しているのだ。まるで空気を読むことだけは抜群にうまいが個性には乏しいクラスの人気者のようなことを数学的に処理している。
若者は選択肢という自由を得るより、誰にも否定されない間違えのない答えを得ることや所属や承認への欲求のほうが強い。だから、人々を覆う空気をうまく醸成できるデマゴーグになびきやすい。間違わないことだけに注意するのであれば空気を読むのがいちばんだ。空気というのは読めば読むほど、個は全体のなかに埋没していく。デマゴーグに操られるのは、そういうときだろう。いま、多くの若者たちの心情はElizaと名付けた対話型AIに判断を委ねたベルギー人のそれとなんら違いはない。

自由な世界を希求するテクノ・リバタリアン

このトークイベントで、「ちょうどよい湯加減のAI論」というのにこだわったのは、一方でテクノロジーによる解放を極度に求め、イデオロギーとする集団が登場しているからだ。
もともとITの基本思想はカリフォルニアン・イデオロギーを祖にしている。それは数回前の記事で論じたように、「ホールアース・カタログ」のスチュアート・ブランドらの影響によって強化されていったアナキズムにも通ずる自由主義なのだ。
このアナキズムの土壌になったのは、ドラッグ文化でありヒッピー文化であり、そのルーツには東洋思想にある精神の解放(解脱)があるというわけだ。
完全な自由どころか、選択肢をもつことを忌避するような承認だけを強く求める者が増えている一方で、極度に自由な世界を希求するテクノ・リバタリアンといわれる者たちもまた増えているのだ。
作家の橘玲は『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』(文春新書)のなかで、旧来のリベラル(左翼)でも共同体主義(右翼)でもなく、その中間にリバタリアニズムを位置づけ、さらのその中核に「クリプト・アナキズム」と「総督府功利主義」を置く。これは道徳心理学者のジョナサン・ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』(高橋洋訳/紀伊国屋書店)で6つに分類した道徳基盤のうえに、「正義をめぐる4つの立場」を書き加えたもので、現状の見取り図としてとてもわかりやすい。
「クリプト・アナキズム」とは暗号(クリプト)によって国家の規制から自由な社会をつくろうという立場。一方の「総督府功利主義」とはテクノロジーによって社会の最適化を推進して功利主義を徹底する立場である。総督府と言われるのは現在の民主政を超えた体制を予感するためである。
橘玲の『テクノ・リバタリアン』でさらに興味深かかったのは、物理学者のエイドリアン・ベシャンの「コンストラクタル法則」を引いて、自由な世界は当然、競争を激化させ社会の階層化を促進させると論じた点だ。
ベシャンの「コンストラクタル法則」については、次のように説明される。

生物であれ無生物であれ、あるいは微細な分子から広大な宇宙にいたるまで、この世界に存在するすべての物質(もちろん人間も含まれる)はひとつの単純な法則に従っている。それが、「流れがあり、かつ自由な領域があるのなら、より速く、よりなめらかに動くように進化する」という原則で、これには例外がない。

『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』

魚は水中で最も速く滑らかに動けるように流線型になり、山間部から大量の水を運ぶ河川は平野部においてより速くより滑らかに海に放出できるように分岐して支流をつくり、それは広大な三角州となる。分岐する支流こそがそのまま階層化を意味するのはおわかりいただけるだろう。この動きは情報の流れにも当てはまる。遺伝情報も同じだ。
三角州という形状についていえば、それの立体はピラミッド構造である。それがもっとも滑らかに素早く、エネルギーや情報を全体に行き渡らせることができるのだ。
ベシャンはこの点でダーウィンの進化論を否定する。

べジャンは、「進化」を本来の意味に戻すべきだという。ダーウィン以来、進化には目的がないとされたが、コントラクタル法則では、生物だけでなく世界に存在するすべてのものが、「流れ」と「自由」があるかぎりにおいて、「より速く、よりなめらかに動く」という目的に向けて進化するのだから。

『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』

わたしは先に名をあげたスチュアート・ブランドが「情報は自由になりたがる」といい、それがIT産業のひとつのステイトメントになったことを思い出す。本当はその前に「情報は高価になりたがっている」というもうひとつの定義があることは、以前の記事(#40「鈴木大拙からスチュワート・ブランドへ ホールアースは宇宙技芸論で語れるか?」)に引用した。情報がますます価値を高めているのは、生成AIの学習にはデータが欠かせないことをとっても明白である。「情報は高価になりたがっている」という言葉も、より大きな意味を持ちはじめている。
べジャンのいう「進化」は、大量の情報に溢れ、さらに巨大な情報(データ)を必要とする生成AIというテクノロジーが主役となる時代において、いやましに加速するだろう。それはさらに社会の階層化を促す。
下層に置かれた人たちは、しかし、ホモ・ユースレスとなるのか、そしてテクノ・リバタリアンの目指す自由のために淘汰されるべき犠牲者なのだろうか。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011174

デカルト的パラダイムに支配された近代社会

わたしは『生成AI時代の教養』の序論で近代化の問題を改めてとりあげた。詳しくは序論にあたってほしいのだが、この序論もまた、現代という時代の孤独と疎外の原因をさぐるためであった。わたしたち日本人は近代化の過程でどういう変化をしてきたのかを問うことは、現代という時代の孤独と疎外の原因究明のヒントとなると考えたからだ。
進化に目的があるとべジャンがいうとき、わたしが想起するのは、かつての人類にとって自然世界のあらゆる事象と存在は目的をもっていると考えられていたことだ。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「目的論(テレオロジー)」の主導者とされている。アリストテレスは物事には固有の目的(テロス)があると主張した。
この目的論に対して近代の扉を開いたのが「機械論」である。もちろん、それはルネ・デカルトから始まる。機械論においては、自然世界における存在や事象には原因があり合理的な過程を経て結果に至ると考える。デカルトは理論的に自然を理解する方法を確立し、経験と観察から自然を理解しようとしたもうひとりの哲学者、フランシス・ベーコンと対立した。デカルトの演繹的な論理と、ベーコンの帰納的な論理は、実験という科学的方法を重視したガリレオによって統合する。ここに真に近代が口火を切ったと。
しかし、デカルト的パラダイムはここ数十年、なんども反省され、それが近代批判の根拠となってきた。身体と精神の二元論についてはすりきれるほど批判に晒されたが、いまだにわたしたちは心と体という二元論を常識に生きている。デカルトが身体と精神を分けたことが、主観と客観を明確に分け、無意識と意識を分け、自然と人間を分けた。わたしたちは合理的な人工世界を数百年にわたって築いてきたのだ。マックス・ヴェーバーのことばを借りれば脱魔術化してきたのだ。
こうした議論は近代批判が簡単には出口を見つけられないように、なんども繰り返し口にされてきたし、デカルトはそのたびに敵役であった。わたしたちの自然世界には気づかていない目的があり、人と自然は不可分なものであり、合理性だけでは世界の謎は解ききれないのだ、と。
1980年代の終わりに出た、こうした書籍の代表であった一冊が近年、新装されて再刊行となったのは反デカルト・ムードの何度目かの繰り返しを思わせる。その一冊は『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』(モリス・バーマン著/柴田元幸訳/文藝春秋)である。帯に「落合陽一」と「ドミニク・チェン」が並ぶのはいかにも現代であると思う。
アメリカの科学史家であるバーマンはこの本のなかで、人類学者のグレゴリー・ベイトソンの学習理論に基づいて学習Ⅰ、学習Ⅱ、学習Ⅲというレベルにわけて人間による世界への対応を説明している。簡単に説明しておく。
学習Ⅰとは、個別の具体的な問題を解決することで、習慣化や行動のパターン化による学習をいう。これに対し、学習Ⅱは学習Ⅰの問題の背景や文脈、ルールを理解し“学習のための学習”といったメタ視点の学習で、パラダイムの形成でもある。
そして、学習Ⅲは、学習Ⅱで学んだメタルール、パラダイムさえ恣意的なものにすぎないことを突如として覚悟することだ。ここにおいて個人はある種の解脱を体験する。宗教的な回心や神の顕現として表現される状態だ。
バーマンは近代における社会問題を克服するためには学習Ⅲのレベルを通じて自然との調和を取り戻すことが重要だと論じた。バーマンはまた、デカルト的パラダイムに支配された近代社会において個々に分断された人間、自然の問題をひとつの統一的な視点のもとで眺め直し解決すべきだと論じる。

矛盾と非合理で居場所を取り戻す

統一的な視点というと、それは全体論を想起させ、わたしはユク・ホイが『中国における技術への問い 宇宙技芸試論』(伊勢康平訳/ゲンロン)で論じた「形而上学的ファシズム」を思い出し警戒感を抱かずにはおられない。権威主義になびきやすいわたしたちにとって、統一的な視点という言葉はあたかも世界を網羅する“大正解”と感じさせるだろう。そして、学習Ⅲを通して宗教的な回心で認識を改革しえたカリスマが登場すれば、その支配は現代であればこそ容易なものだと考えるためだ。
バーマンはサイバネティクス理論とオートポイエーシスについてとりあげる。全体を見渡す概念としてサイバネティクス理論は有効なものだ。フィードバックループという循環によって全体が全体と関係する。これによってデカルト的な自然世界観を脱する。そのうえで、オートポイエーシスという個別な自己が再帰的に参照、創出を繰り返すという生物システムによって主客の未分離の状態を保つことができる。これによって、わたしたちは自然世界のなかに意識を没入することができる。
『デカルトからベイトソンへ』は多くの人がいろんなところで紹介しているし、じゅうぶんに有名なのだが、書きだすと述べたいことが尽きない。それが名著と呼ばれる所以なのだろう。そういえば、#20「文体を得ること、思索すること 純粋な観察と洞察の到達点」で言及したジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙—意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳/紀伊國屋書店)もとりあげられる。太古の昔、人類の脳には神々(先祖)の声を聞く機能があったという同書の説を引いて、世界から個々の意識も疎外されずに存在し、わたし自身が神であり、神もまたわたし自身であるという神との一体という明瞭な状態にあったということができる。思えば、最初に『デカルトからベイトソンへ』の邦訳が出た80年代に、この『神々の沈黙』の邦訳はまだ刊行されておらず、当時、この部分はどのように読まれたのだろうとも思う。
もうひとつだけ、付記しておきたいのは次の一説だ。

禅の師と弟子との間にも……、師が弟子に対して、解決不可能と思える問題を与え、ダブル・バインドを課すのである。これを「公案」と言う。……これに対しどういう創造的な出口が可能だろうか? 出口が創造的かどうかは弟子が行うメタコミュニケーションの質で決まる。……もしも師が、その行為が弟子の概念的=情感的飛躍から生まれていると判断すれば、師はこの反応を良しとするだろう。

『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』

わたしは書いてきたものやインタビューでよく禅についてふれてきた。それは単にわたしが禅寺の生まれであることだけでなく、どこかで因果に縛られない、統一された心と体について直感的に納得しているものがあるためだ。創造性、即興性、融和、そういったものがたったひと言のなかに込められて爆発的な美しさを放つ禅の悟りの瞬間への憧れの気持ちの強さのためかもしれない。
一休宗純の「これが悟りじゃないなら、悟りなんかいらない!」と師に怒鳴り返して、大悟したエピソードは幼い頃から忘れられないものだ。もっといえば、幼い頃から禅にふれてきたわたしは明確な答えや合理的な方法に対し、どこかしら醒めた気分がある。「それはそうだろうが、それがどうした!?」というような気分がいつもどこかにあるのだ。
長くなりそうだ。やめよう。

神秘哲学を求める理由

わたしが繰り返し述べてきたものに神秘主義というのもある。禅もどこかしら、その香りがあるし、ドイツのキリスト教神学者マイスター・エックハルトについて述べたこともある。
神秘主義にわたしが惹かれるのは、どうしても合理主義になじみきれず、不可知論へのシンパシーが強いためでもある。思春期の前後から、まあ、数学が苦手だったこともあってだろうが、デカルトは疑ってかかるものになりかかっていたように記憶している。
もうひとり、デカルトと同じぐらい疑いをもって眺めていた哲学者にプラトンがいる。プラトン主義といえば唯一絶対のイデアがわたしたちの住まう物質世界のむこうにあり、わたしたちは愚かにも洞窟の壁に映った影絵を真実と思い込んでいるというやつだ。ここの記事でも、AIが人間を超えるというロジャー・ペンローズをかつての盟友スティーブン・ホーキングがプラトン主義だと退けたことを紹介したし、ポール・ファイヤアーベントのような哲学者が、プラトンが詩を否定したとして激しく敵視したことにもふれた。
もっといえば、プラトンこそデカルトに先立ち精神(魂)と物質(身体)を分ち、数学的な思惟の普遍性を述べた最初の哲学者として西洋の哲学史に巨大な影響を遺し、近代哲学の土壌を肥沃にしたとされている。
そういうわけで、わたしはつい数年前までプラトン主義と神秘主義を対照的なものと捉えていた。しかし、その考えを決定的に覆す本を読んだ。世界的な言語学者、イスラーム学者であった井筒俊彦の『神秘哲学─ギリシャの部』(岩波文庫)に出会ったのだ。
この本によってわたしのプラトンへの認識は転回したし、井筒の論によってわたしはこれまで西洋近代の解釈によってプラトンを誤読していたのだと知った。
『神秘哲学』では、ソクラテス以前からソクラテス、プラトン、アリストテレス、プロティノスまでのギリシャ哲学を自然神秘主義の視点で読み直す。井筒は自然神秘主義こそ全一的な体験をもたらすものであるとし、直感的な認識である観照によって、経験的な世界から超経験的な世界を通じて叡智に至る道を拓くものだとする。
わたしの拙い説明では伝わらないかもしれないが、それはほとんどバーマンが『デカルトからベイトソンへ』で論じたことに先行している。たとえば、アリストテレスの哲学を「思惟の思惟」とするのは、学習Ⅱのプロセスと同じある。
プラトンの数学的な思惟についても次のように明確に解説する。

数学的思惟は知性を馴化し、魂を実在界に向かわしめ、善のイデアの観照に対してそれを準備することはできるが、それは飽くまで予備教育(propaideia)であって、純粋イデア観照を絶対に保証するものではない。

『神秘哲学─ギリシャの部』

この部分を、数学的思惟のルール性は予備的な段階(学習Ⅱ)であり、純粋イデア観照(学習Ⅲ)には至っていないと解釈できる。この論点で──成功と富と幸福を与えてくれる10の数式を知る「TEN」と呼ばれる──数学の天才たちであるテクノ・リバタリアンのイデオロギーの先に、純粋イデア観照の思想が登場すべきではないだろうかと考えている。「いまや世界を変える思想はリバタリアニズムだけになっている」(橘玲)のだとしたら、そこまでを見渡してほしいのだ。幸いにして、彼らはカリフォルニアン・イデオロギーを通過した神秘哲学、あるいはSFやアニメというサブカルチャーを通じた超自然的な事象への抵抗感がない。と同時に、彼らが神秘哲学に接近するとき、彼らが身につけるであろうカリスマ性は非常に危険なものになりうるのだが──。
わたしが井筒俊彦に惹かれ、神秘哲学に大きな関心を寄せてしまうのは、西洋的知性に対抗する東洋的知だとか、キリスト教的な倫理に対する仏教的な道徳だとか、偏在と遍在だとかにわかれてしまう思考の分離を超越的に眺め直すことができるからであり、そこにこそ近代の行き詰まりをブレークスルーするヒントがあるように思うからだ。

ここにいう知性あるいは叡智とは近代思想に所謂「理性」の極限を突破せる更に彼方なるものであり、人間知性が窮まるところ却って人間の限界を踰越(ゆえつ)して神的知性にまで通ずるところの霊性を意味する。

『神秘哲学─ギリシャの部』

観照的生の実践において自ら親しく宇宙的実在の主体となり、脱自的に個人意識の外なる客観的世界に踏み出て見た経験がなければ、人はただデカルトを捩って「我れ思惟す、故に我れ在り(と我れは思惟す)」を繰り返すか、或はカントに従って先験的主観主義の呪詛に身を委ねるほかないであろう。

『神秘哲学─ギリシャの部』

主観と客観を超越的に統一し、神であり人でもある存在に到達し、叡智にいたる道は宗教がかったものではない。キリスト教者であったエックハルトが「我は神なり」と発言したことで異端審問の末に処刑されたことを思い出せば、それは宗教の教義にはまったくそぐわないものと考えてもよい。叡智にいたる道はギリシャ的──こういって許されるなら禅的──合理主義を極める道なのだ。近代に曇ったわたしたちの目で捉えることができないだけなのだ。
さらに井筒は重要な点を述べる。プロティノスの哲学に論じられる、観照的な霊性あるいは叡智への上昇の道のみでなく、人間の本性へと下降する道についてだ。ただ、一者(絶対者)への道を上昇することにのみを重視せず、叡智を得てのち、いまだ霊性を知らぬ人々のもとへ下降する。叡智への道を上りきった者にしかこの下降の道は与えられない。わたしはここに解脱という個の救済を求める小乗仏教と、衆生の救済を進める大乗仏教の両面と同じものをみる。多くの浅はかなインテリたちは個のみの救済を求めることをもって小乗仏教に批判的になる。しかし、その道を通るしか衆生を救済する法は拓かれないのだ。プロティノスはこれと同じことを言っていると考えられる。そして、この上昇と下降の循環こそが、わたしたちの観照的霊性を鍛えるのだ。循環全体が叡智の真なる姿だとすれば、サイバネティクスのフィードバックが世界の実相であることとそっくりだ。上昇の道において抽象化し形而上的になる観念は、下降の道によって具体化し形而下の生活になるのだ。この循環がなければ、人々の生を変容する力はどこにも働かない。循環は、無と有との循環でもあろう。万物は無に向かって下降し、下りきった後、有に向かって上昇を始める。この「永遠の交換」から実相を忽然と把握する瞬間に至る人たちがいる。それが覚者であり見神者だ。
上昇と下降の矛盾を循環の内部にはらんでおくことが何よりも重要だ。
ギリシャ哲学にいう「一者即一切者」とは、仏教でいう「一即多、多即一」に通じる。この近代的合理にとっての大矛盾が、カントのアンチノミーであり、ベイトソンのダイブルバインドであろうか。
この矛盾の循環を体験的に、実践的に思惟し抜いてこそ叡智を得られるのだ。この「一者即一切者」の真理のなかには孤独も疎外もありようがない。わたしたちはここを考え直さなければならない。

潜勢態を現勢態へ暴きだすテクノロジー

ずいぶん遠いところまで思考がきてしましった。最後にすこしだけ考えたことを書き加えておきたい。井筒俊彦の『神秘哲学』では、アリストテレスの「潜勢態」と「現勢態」についても深く思考されている。全宇宙の質量性(潜勢態)の混乱を突き破って、純粋形相(純粋現勢)が存在の整序を成すという。潜勢態とはある事物が持つ可能性や潜在的な能力のことであり、現勢態とは潜在的な能力や可能性が現実化された状態をいう。森の樹木は潜勢態として、木材や燃料や次の樹木の種子という現勢態を裡に秘めているのだ。
ここで私が思い出したのは2つのことだ。ひとつはハイデガーの技術論にあるポイエーシスであり、つまり隠蔽されているものを明るみに出す──開蔵する──というのが技術の本質であるという論である。技術(テクノロジー)とは潜勢態を現勢態へと暴きだすことだと言い換えられるだろう。
いまひとつ思い出したのはイタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンの『バートルビー 偶然性について』(高桑和巳訳/月曜社)のことだ。アガンベンはこのハーマン・メルヴィルの短編小説「バートルビー」〈『書記バートルビー/漂流船』 (牧野有通訳/光文社古典新訳文庫)に収録〉に触発された哲学的エッセイで、働くことも生きることも突如して放棄してしまうバートルビーの行動を潜勢態と現勢態を用いて説明する。法律事務所の青年書記バートルビーは潜勢態としてあらゆる可能性を放棄することでわたしたちのあり方に見直しを迫ってくる。わたしたちはあたかも何者か(現勢態)であるように、あるいは何者かであろうとするのが当然のことだと考えている。アガンベンはここに高度に合理的で無駄のない効率を求める近代社会への反抗を読みとる。わたしはもうすこし進んで、このバートルビーの行動は学習Ⅲに思えるのだ。バートルビーの奇行が「概念的=情感的飛躍から生まれ」た悟りのように感じられるのだ。もっと言えば、ギリシャ哲学でも曹洞宗でも、キリスト教神秘主義でも、おまけにハイデガーまでがGelassenheitと論じる「放下」と同じ行為だと考える。非常に優秀なビジネスマンの道(上昇)を懸命に歩むバートルビーが突然すべてを放擲することこそ、無への道(下降)のそれではないか、と。
蛇足をもうひとつ。『生成AI時代の教養』のなかの岡嶋先生へのインタビュー記事に、オンラインゲームのなかで、ゲームをプレイするでもなくただ漂うだけのプレーヤーの存在の話をしているが、すぐさま思い出したのもバートルビーのことだ。わたしはそのとき先生に「リアルのサボタージュ」と言った。近代がもたらした孤独や疎外に対抗する方法として、この「リアルのサボタージュ」は大きな意義があるかもしれない。なぜなら、目的のある反抗や抵抗は安易に意味づけされ、その情感が奪われてしまうからだ。リアルのサボタージュは放下にほかならない。リアルをサボタージュ(放下)して潜勢態にとどまるという在り方はわたしにヒントを与える。

またしても長々と書きつらねてしまった。なぜ、AIなどの先進テクノロジーを論じるのに近代の問題から問い直したいのか、そのために一見、宗教がかってみえる論点までをも導入したくなるのか、まだうまく説明できない。しかし、しばらくはこのままにしておこうと考えている。

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