DX(デジタルトランスフォーメンション)の本当の未来
テクノロジーとはなにか? 生成AIが衝撃といえるような登場を果たして以来、テクノロジー論は日常会話にも確実に浸透してはじめている。いわく、仕事を奪われる。いわく、ただの道具だ。誰もが無関係とはいえなくなった。それがもっとも大きな出来事だろう。
いまそこにあるDX
GPT-3.5がリリースされて、とくにテクノロジーに関心のない人でもふれるようなって最初に危機感めいた話をきいたのは今年の1月だったろうか。あるタブロイド紙の編集部を訪れた際、同行した週刊誌の記者さんが「コタツ記事」といわれる取材や調査をしないで、公表されている一般情報だけで執筆するような小さな記事などは、ChatGPTでいつでも書けるようになり、既存の情報をまとめる、たとえば更新回数かせぎのWeb記事などの仕事で糊口を凌いできたライターなどは早晩いなくなるだろうと話した。いよいよ、AIが具体的に業務を代替して人から仕事を奪う時代になったのかとの感を強くした。
失職者が増えそうな業界でもあるメディアはこぞって脅威論で盛り上がるだろうなあと考えた。その後のG7での議論を通じて生成AIの取り扱いについての国際的な取り組みである「広島AIプロセス」が定められたことや、ここではなんども登場するがジェフリー・ヒントンがAIにまつわるリスクをじゅうぶんに発言するためにGoogleを辞めたり、加速主義者であるはずのイーロン・マスクが生成AIの研究停止を提言したりと、否が応でも世間は19世紀初頭に起こったラッダイト運動にも似た生成AIへの攻撃が展開されることを私は予想していた。
ところが、である。現状では、そうした過激な反対論、脅威論はわずかしか聞かない。3男1女を東大理Ⅲに進学させたことで有名な佐藤亮子さんがChatGPTを教育に有害なものとして議論を繰り広げたのが有名なぐらいか。
むしろ世間からは、生成AIを積極的に取り込んでいこうという機運のほうを感じる。まさに数年前から多くの企業がこぞって取り組んできたDXの本丸であるかのようだ。生成AIの業務導入は企業のDXを加速させるのは間違いない。
前回も生成AI関連の書籍を多数紹介したが、その後、さらに類書は増えており、その多くがChatGPTを代表とする生成AIの業務活用についてである。ビジネス実用書なのだ。そういう点では、もはや生成AIは、エクセルやパワポ、検索サービスのようなツールと同じ類に見られている。DXのための最新型のビジネスツールだ。
ビジネスパーソンを読者にかかえる「週刊ダイヤモンド」は今年はやくも二度目のChatGPT特集だ。2023年9/9号は「コピペですぐに使える! ChatGPTプロンプト100選」というタイトルだ。2023年6/10・17号は「これさえ読めばすぐわかる ChatGPT完全攻略」だった。ChatGPTが「週刊ダイヤモンド」の購読層から、これほどの関心を惹くのはまさにこの業務ツールとしてのパワーに気づいたからに違いなかろう。
テクニウム、非物質的な進化
話は変わるが、昨今のサブスクリプションサービスによる音楽配信の普及は、若者に古い曲を発見させその虜にさえしている。古い歌謡曲の歌詞から、若者がなにを思うのか、普遍的なロマンスやセンチメントを受容しているのだろうとは考える。が、しかし、彼らの耳には、異性からの電話を待っている情景や恋人が来ない待ち合わせ場所での動揺などほんとうに理解できるのだろうかと思う。
異性間のやり取りはもっぱらLINEで、待ち合わせなどスマホ片手にその場で調整すればいいという時代に、彼らはこの時代的な情景にまつわる心情をどのように感じるのだろうか。あるいはそうした心情そのものの普遍性になんら違いもなく、彼らは感情移入できるのだろうか。
そんなことをなぜ考えるのかといえば、ビジネスシーンにおいて、いまさらメールを使用しない業務は考えなられないし、検索エンジンなしに何も調べられないし、Officeなしにどんな書類作成もままならない。しかし、これらの変化はほんの25年の間におきたことで、それ以前にはみんな、これらのテクノロジーなしに業務に従事していたのだ。
そして、現在のビジネパーソンの生成AIへの関心をみるに、いずれ生成AIなしにどんな業務もままならない時代がくることが想像できる。それはすぐそこの未来だ。
こうしてみると、生成AIもまたただのツールではある。現在もそういう議論が多い。ツールではあっても、しかし、それは確実にテクノロジーであり、私たちの仕事を変え、生活を変え、社会、文化を変え、最後には存在そのものと同一化する。テクノロジーなどというと、それこそデジタルなものを思い浮かべがちだが、人類史でいえば言語も火熾しもみなテクノロジーだ。人間はテクノロジーと共振しながら進化してきた。
アメリカのジャーナリストであるケヴィン・ケリーは『テクニウム テクノロジーはどこへ向かうのか?』(服部桂訳/みすず書房)で、テクノロジーの進化を自律的なものとして生物学的な進化に擬えて論じる。題名にもなっている「テクニウム」とは、著者はこうしたタームの創作を嫌いながらも提唱する、これまでにない新しい概念だ。テクノロジーやツールは生態系を形成していて、人間の想像力に応じて変化、進化していくという。テクニウムは自然現象の根本であるエントロピー(拡散)に対して、エクソトロピー(収束、秩序化)という性質をもつ。
テクノロジーは人間の想像力や欲望、あるいはそのほかのテクノロジーのさまざまな要素を変数としてうけいれて進化する複雑系であり、それはあらゆる世界、場面に浸透するという偏在性をもっている。テクノロジーは、複雑で遍在しつつ進化しながらひとつの普遍のなかに収束し秩序化をなしていく。テクノロジーの進化は物質を変形させるにとどまらず、情報という非物質的な進化を遂げようとしている。これがケヴィン・ケリーの見立てだ。
わたしは情報という非物質的なものの進化にこそエクソトロピーの本質を感じる。
「テクニウム」の考えに従えば、生成AIはあらゆる人種、国籍、信条をもつ人々のプロンプトを吸収して複雑系のような有機的進化をみせそうだし、あらゆる人種、国籍、信条をもつ人々が多様な用途で使うという遍在性を見せるだろう。ケヴィン・ケリーはテクニウムの概念のなかに「美」をおいているが、プロンプトを「呪文」と呼び、誤った回答をハルシネーション(幻覚)というだけでも、かつての──いや今も、か?──人類が自然についていだいていた神秘性に似た美的な感覚の芽生えをみることさえできる。
“遍在”と“偏在”
ケヴィン・ケリーは『テクニウム』は当初はテクノロジー批判のように──ケリーはユナボマーにシンパシーを示してみせたりするのだ──読めつつ、徐々にその思想を明らかにする展開になっている。最後に次のように書いている。
わたしはこのレビュー記事のなかで繰り返し、テクノロジーの魔術化、宗教性について述べてきた。レイ・カーツワイルの思想には超人主義、トランスヒューマニズムのみならず反進化論的なものがあるのではないかと考えていた時期もある。きわめてキリスト教原理主義めいた──。
そんなカーツワイルの思想を嗅ぎとり、その著作のタイトルである『シンギュラリティは近い 人類が生命を超越するとき[エッセンス版]』(NHK出版編集/NHK出版)は洗礼者ヨハネの「天は近づいた([マタイによる福音書]第3章2節)」という叫びを模倣しているとユヴァル・ノア・ハラリは『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』上下(柴田裕之訳/河出書房新社)のなかでいう。
データ至上主義についても引用で説明を付しておこう。
わたしはこれまでこのハラリのベストセラーを読まずにテクノロジーの神格化についてカーツワイルをその代表者として述べてきた。えてしてそんなものだが、このユダヤ人歴史学者はより精密により丁寧に、同じことを論じていた。ふと、そこでようやっと「ホモ・デウス」の意味が腑に落ちたというわけだ。まったく情けない。言い訳だけしておけば、ハラリの『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』上下(柴田裕之訳/河出書房新社)が世間で言われるほどの知的刺激をわたしに与えてくれなかったために、こっちの本には手が伸びなったのだ。いや、『サピエンス全史』に期待が大きすぎたせいかもしれない。ジャレド・ダイヤモンドの人類史に感じた若き日の喜びを、すれっからした40代にもおきることを期待したことが間違いだったのかもしれない。しかし、『ホモ・デウス』こそ読むべきものだった。
AIのみならず生化学でもテクノロジーが圧倒的に進化し、生物としてのヒトの限界を超えた人間はまさに“神”となる。同時に、こうした高度なテクノロジーは先進国や富裕層に偏在してしまうがゆえに不平等を拡大するとハラリはいう。第一次産業革命が資本家を生み出したように。
この点は先に挙げたケリーのいうテクニウムとはやや対照的な考えである。
“遍在”と“偏在”。
わたしのテクノロジー観はケリーに近い。
20世紀に訪れた情報革命において、テクノロジーはどんどん民主化されている。中央集権型から分散型へという方向性がテクノロジーを加速している。民主化がもたらす遍在こそが情報テクノロジーのコンセプトであるはずではないか。
テクノロジーは否応なくあふれでていくものであるし、テクノロジーがもたらす新しいスキルもほぼ普遍的に享受される。それは、ケリーがテクノロジーをわざわざテクニウムと呼ぶ理由だし、パーソナルコンピュータにしろ、インターネットにしろ、スマートフォンにしろ、結局のところそれは世界に拡散していく。そうしてデータ化を促進し世界を情報(≒アルゴリズム)のなかに収束させていくのだ。こう考えたほうがわたしにはなじむ。
ふと思うのだが、ハラリのいうテクノロジーのあり方は一神教的だし、ケリーのそれは汎神教的である。ハラリがユダヤ人であること、ケリーがヒッピーのようでありその奥さんが東洋人であることと果たして関係があるだろうか。ここでは深く立ち入るのはよそう。
アルゴリズムの終焉
テクノロジーについて考えさせられるもっと新しい本が、ジョージ・ダイソンの『アナロジア AIの次に来るもの』(服部桂監訳/橋本大地訳/早川書房)だ。「IT批評」を手伝っていただいている都築正明さんに教えてもらった1冊だ。著者があのフリーマン・ダイソンの子息なのは本書を読み進めればすぐにわかる。
著者は、人間(と自然)とテクノロジーの関わりを次の4つの時代に区分する。
①工業化以前。テクノロジーは、人類がみずからの手で生み出せるものに限られ、自然に支配されていた。
②工業化の時代。機械が誕生し、機械は機械を生みだせるようになり、じょじょに自然を支配できるようになる。
③デジタル論理の時代。情報が情報を複製する。自己複製、自己増殖という生物のみがおこなっていたことをマシンが行うようになり、自然の支配は失われる。ネットワークは張り巡らされ多細胞的に情報があふれかえっていく。アナログからデジタルという流れが変わりはじめる。
④マシンと自然が互いに歩み寄る時代。アルゴリズムの時代の終焉によって、人類は主導権を失う。
この時代区分の説明の直後に、本書のカバー袖にも一部が引用される痛烈な文章が続く。長いが引用しよう。
本書のメッセージはほぼここに要約されている。アナログとデジタルは共存しつつ、時代の主役を交代でつとめてテクノロジーを進化させてきた。アナログな真空管をデジタルな計算に使用したように、デジタルな人工知能を脳というアナログな構造を模して構築しようとする。現在の生成AIはそれがいったいどうやってアウトプットを生成しているのか、誰にも説明できない非デジタルな存在でもある。
著者のダイソンは、第四の時代にはアナログシステムの台頭によって、デジタルプログラミングは終焉するという。わたしはここにレイ・カーツワイル風のトランスヒューマニズムやユヴァル・ノア・ハラリのホモデウスに対するもっとも適切な反論をみる。
著者はデジタルを非連続、アナログを連続とする。帯に「世界は連続体(アナログ)である。」と書かれているが、この連続体こそケリーのいう遍在と通底する。テクノロジーは非連続に分断できるものではなく、世界とも人間ともそこらじゅうに連続しているということだと考えている。
テクノロジーは想像力の乗り物
生命は遺伝子の乗り物だという有名な一節で知られるリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(日髙敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳/紀伊國屋書店)で、遺伝的な伝達のみならず文化的な伝達を論じるために生まれたタームが「ミーム」である。ドーキンスはミームを論じた章で、科学の進歩と自然淘汰による遺伝的な進化にふれつつ(その元祖をカール・ポパーにみている)、遺伝子が繁殖する際に精子や卵子の間を飛びまわるように、ミームも繁殖の際には脳から脳へと渡り歩くと述べる。まるでミームはあふれだし遍在すると言っているようだ。そのうえでミームをテクノロジーと言い換えても大きな間違いにはならないだろう。
わたしは思う。生命が遺伝子の乗り物というのなら、テクノロジーは人間の欲望や想像力の乗り物である、と。そして、それはつねにあふれだし漂う。ドーキンスは、人間の脳はミームが寄生するコンピューターだともいう。そして、ミームも遺伝子同様に残忍で利己的なものだという。
デジタル化が進む時代(ダイソンのいう第三の時代)に入って、情報は情報を複製するようになったと先にみた。自己複製、自己増殖こそ遺伝子に与えられた使命であり、情報もまた複製と増殖を使命とする。文化的遺伝子たるミームも同じだ。
新たなテクノロジーはほとんど利己的なまでに拡散、増殖するのだ。人の脳から脳、手から手へ。パーソナルコンピュータを扱うスキルも、インターネットで身につけたスキルも、スマートフォンを身体化するスキルも、そしておそらく生成AIが人間のなかに生みだす新しいスキルも、国籍、人種、宗教、業種や業態、年齢、性別を超越して拡散、増殖するはずだ。
ダイソンのいうように、わたしたちはそれをデジタルにはコントロールできないだろう。わたしたちがコントロールできるのは、わたしたちの想像力であり欲望のほうなのだ。
ただドーキンスに従えば、わたしたちの想像力や欲望も、その遺伝子の指示に則っているだけということになってしまうのだが──。
はじめにレイ・カーツワイルの思想的な根底を感じたのは10年ほどまえのEテレの番組だったと思う。そのとき、わたしは得体のしれない不気味さを感じたが、それは必ずしもテクノロジーへの嫌悪と一致するものではなかった。そのせいで、その不気味さを考える日が続いた。それがこの半年ほどで一気に、過去の自分に回答できるところまできた。
それがどうだといわれれば、なにもいうことはないのだが──。
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