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自分語りと共感・同調・容認

コメントするにしても、何を基準にしているのかはその人自身に委ねることが大きいというか、物差しによって違ってくるのではないでしょうか。
個人的には記事主さんが不快にならない程度でコメントすればいいと思いますが、人によって塩梅が違うから困るんですよね。分かります。
距離感もあるでしょうし、地雷になっているかもしれないし、だったらコメントしないほうが平和なんじゃないかってまであるし。けど言わないとやってられないってのもあって、なんやかんやで自分よがりになっちゃう自分がいるんですよね。そうしないと存在意義を見失っちゃうから。

じゃあコメントで気をつけていることって何よ?と言われれば、あんまし考えたことはありません。
強いて言うなら人生の古傷に苦しんでいることを誰かに伝えているような気がしますが、人によっては「自分語り」に捉えられてもおかしくないよなと最近気づきました。

事の発端は、note朗読でお世話になっているららさんのつぶやきでした。

彼女の記事にコメントした後に見たものだから「うわっ……私のコメント、自分語りすぎ……?」と超絶ナイーブになりました。

しかしこの萎えもよく分かるんですよ。
例えば、見ず知らずのnoterさんが書いた記事に「共感しました!」からの自ら経験した事柄を長々とコメントするパターン。これの良いところは、似たような経験をした人が共感して積年の想いを吐き出す機会があることです。記事にするにもまとめるまでに時間がかかりますし、せめてコメントでその想いを吐き出したい気持ちは尊重されるべきだと考えます。
一方で、人によってはそれを求めていないことも考えられますよね。何なら、酷いものだと他の読者さんが引く可能性だってあるのです。
このパターン、私は嫌いではないですが、物にもよるとしか言えません。

殆どのnoterって、一種の免罪符が欲しいと思うんですよね。
マイノリティの自覚があるから認めてほしいというか。だからみんな「共感した!」って叫ぶんじゃないですか?

他のnoteを見ているとやたら共感とか同調とかがありますよね。
それって単純に「同調しなければ共感もできないけど、まぁいいんじゃない?」って意味合いの単語がなかっただけだと思うんですよ。
それに見繕える言葉として「共感」を使っている説までありそうな……これについては記事を読んだ人に委ねることにしておきましょう。

でもコメントするってことは、共感が原動力になっているのでしょうか?
それとも容認はするけど自分の意見を言わせてほしいみたいな?
どちらにせよ、他人の琴線を動かせれば物書き冥利に尽きると思うんですけど……私だけですか?

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