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掌編小説【喫茶去】

お題「掛け軸」

「喫茶去」

ひよりさんのカフェは「KISSAKO」という。彼女の叔父さんが大切にしていたという掛け軸に書かれていた禅語の「喫茶去」からきている。ひよりさんのカフェは北欧風のこざっぱりとした白い空間だが、そこに黒々とした立派な毛筆の掛け軸がかけられているのはかなりシュールな光景だ。店主のひよりさんの外見も、三つ折りソックスを履いた丸顔のサザエさんだし。そんなひよりさんは掛け軸を指差して、
「ちょっとまるめっこみたいにも見えるでしょう」
などと言う。それを言うなら「マリメッコ」だ。でも私は彼女より二十歳年下なので、そういう事を指摘すると「また年寄り扱いして…」と拗ねられるのでめんどうなのである。

そもそもこのカフェが北欧風であるのも彼女の趣味ではない。居抜き物件がたまたま北欧風だっただけで彼女の自宅は彼女の外見同様、ほぼ磯野家の茶の間だ。ではひよりさんがなぜカフェを始めたのかというと、若い頃に両親を亡くした彼女の、たった一人の身内だった叔父さんが亡くなり、ある程度まとまった額の遺産が入ったからである。五十五歳になるまで気楽にアルバイトをしながら、簡素な一人暮らしを続けていたひよりさんだったが、せっかくの遺産を生かそうと、いきなり一国一城の主となったのである。

「年貢の納め時、って言うじゃない?」
と彼女は言ったが、この場合その使い方が正しいかどうかわからない。
「コーヒーとか淹れられるの?」
ひよりさんと私はアパートの隣同士で、すでに十年以上の付き合いになるが、彼女がコーヒーを淹れるところを見たことがない。
「喫茶店でバイトしたことあるからね」
そう言ってひよりさんが淹れてくれたハンドドリップのコーヒーは意外なほど美味しかった。
「えー、どうしてこんなに上手く淹れられるのに家では飲まないの?」
「だって、めんどうじゃない。あたしは白湯でいいし」
「そんな人がカフェの経営って…」
「仕事ならできるのよー」
ちなみにコーヒー以外では、ひよりさんの手作りおはぎとトーストしかメニューにはない。
「禅の精神よ」
と彼女は言うが、その意味もわかっているのか不明だ。多分面倒なのだろう。

でもその程度のテンションで静かにオープンした「KISSAKO」だったが、意外にもお客さんは少しずつ増えていった。そして多くの人が掛け軸の言葉の意味を聞く。
「あれは、キッサコと読むんですよ。まぁお茶でも一杯どうぞ、お気楽にねって意味の禅語です」
ひよりさんがニコニコしながら答えると、たいていの人はうなずいて、
「いい言葉ですね」
「渋くて素敵」
などと好意的な感想を言いながら写真を撮って帰って行く。おそらくインスタやFBで紹介してくれるのだろう。店主はそんなことにはトンと疎かったが。

そんな感じで穏やかな日々が続いていたある日、カランカランとドアベルが鳴って一人の男性が入ってきた。私は、ご近所のよしみでコーヒー永久百円権をもらっていたので、いつものようにカウンターでうだうだとひよりさんとしゃべっていたのだが、その瞬間ひよりさんの丸い顔が四角くなった。
男性は六十歳くらい。背はあまり高くないが痩せていて、ツイードのジャケットを着てメガネをかけている。定年後の学校の先生のような風情だ。
「こんにちは」
穏やかな、温もりのあるいい声だ。しかし、ひよりさんは黙って目を逸らしている。知り合い?目で問いかけた私からも目を逸らした。男性は一番奥のボックス席に座った。
これはなにかあるな。私はいそいそと男性のテーブルに水を持って行った。安くコーヒーを飲ませてもらうお礼に、時々手伝いもしているのだ。
「お決まりですか?」
「コーヒーを」
男性の手は、よく躾けられた子どもみたいに膝の上に置かれている。
カウンターに戻ってひよりさんに告げると、彼女はコーヒーを淹れ始めた。
「ひよりさん、あの…」
異変に気付いた私が問いかけるのを右手で制して、ひよりさんは四角い顔のまま黙ってコーヒーを淹れている。出来上がったコーヒーを見て「これでいいの?」と私は目でたずねたが、ひよりさんはうなずいている。
「お待たせしました」
恐る恐るコーヒーを置いて、私はそそくさとカウンターに戻った。男性はそっとカップを持ち上げて一口すすった。手が止まる。しかし続けてまた飲む。また飲む。彼はほとんど一息にコーヒーを飲み干した。頭頂部が少し薄い。そしてふうっと肩で息をつき、ようやくカップを置くと、壁の掛け軸の方をじっと見ていた。表情は見えない。しばらくして立ちあがり椅子を真っすぐキチンと戻すと(よく躾けられた子どもみたいに)、カウンターに来てコーヒー代を置いた。

「少し、話ができますか」
いい声だ。映画みたいだわ…。私はどきどきしながら横目でひよりさんを見たが、ひよりさんは黙っている。
「…きっさこ」
ひよりさんは三十秒ほどしてようやく男性の顔を見て静かに言った。男性もまた三十秒ほどひよりさんをじっと見ていたが、ふっと口元をゆるめ、軽く会釈して帰って行った。ひよりさんの横顔が四角からゆっくりと丸く戻り、肩が少し下がるのを見て、私はたずねた。
「さっきのコーヒー、粉の量がハンパなく多かったよね…」
ひよりさんは凝りをほぐすように首をぐるりと回しながら、
「苦かったでしょうねぇ」
と、一仕事終えた後のように平らな声で言った。
「でも全部飲んだね」
「そうね。…喫茶去ってね、もう一つ別の意味もあるのよ」
ひよりさんは私が回収してきた空のカップを手に取って言った。
「茶でも飲んで出直してこい、って」
そしてサーバーに少し残ったさっきのコーヒーを自分用のカップに入れると一息に飲み、顔をしかめて咳き込んだ。
「うっわあ、想像以上に苦いわ。あの人よく飲んだね、こんなの」
「ひどいなぁ。ねぇ、あの人が出直してきたらどうするの?」
ひよりさんは、そうねぇと言いながら掛け軸に目をやり、
「きっさこ」
と言った。そして、彼のカップをもう一度手にとってくるくると回しながら、首をかしげる私を無視してフフンと笑っていた。

おわり (2021/11 作)

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