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掌編小説【空っぽ】

お題「枕」

【空っぽ】

「永遠に今の住処を離れることになったとして、鞄ひとつに入る分しか持って出られないとしたら何を持って行く?」
男の学生時代、他愛のないおしゃべりの途中でそんな話になった時、金だスマホだと答える友人達の中でただ一人、こう答えた奴がいた。

「俺は、枕だな」

当然、皆に大笑いされた。枕なんて、それひとつで鞄パンパンになるじゃねーか。それでもあいつは大真面目に、いや絶対に枕だと言い張った。金にスマホだと?くだらねーな。お前らは何もわかっちゃいない。あいつはそう言って、ふんと鼻を鳴らした。
しかし男は、あいつが枕だと言った理由を思い出せない。どうして枕と言ったのだろう。そこに何かが隠されているのか、聞いてみればよかったと男は思った。

そんな事を思い出したのは、男が今、住処から永遠に離れようとしているからだ。ベッドの上には空っぽの鞄。時間は残されていない。一刻も早く出なければならないのに。
あの時、自分はなんと答えたのだったか。やっぱり、金とかスマホとか言ったのだろうか。男は思い出せないまま手に持っていたスマホを床に叩きつけて壊した。
そしてぐるりと部屋を見渡す。
財布?通帳?免許証?時計?写真?手紙?本?いったい、この部屋にあるものの何が必要なのだろうか。どれもこれも、どうでもいいような気がする。必要なものなんてあるのか?男にはわからない。

そうだ、いっそ何も持たずに出ればいいのかもしれない。そう思って男は手ぶらで玄関まで行ってみた。しかし外に出ようとすると、男は激しい違和感を感じて足を止めた。まだ家の中になにかが残されているのだ。必要ななにかが。

男はもう一度部屋に戻った。ベッドの上の空っぽの鞄。少し離れたところにある枕。
枕…。男の手が勝手に伸びて枕を掴んで鞄に押し込んだ。ファスナーを閉める。もう何も入らない。手提げの鞄はふんわりといい具合にふくらんでいる。持ってみると当然だが軽い。

男の肩から力が抜けた。
男はそのまま靴を履いて玄関を出た。なんの違和感もなかった。
家の中に残してきたもので必要なものは、もう何もないということだ。

男はひたすら歩き続けた。どれくらい時間が経ったかも、どこを歩いているのかもわからなくなった頃、真っ暗な森の中で一本の樹を見つけ、その下に座った。そして鞄から枕を取り出し、頭を乗せて横になった。
枕は、しっとりと柔らかく男の頭を包み込んだ。頭から全身が吸い込まれていくようだ。眠るのだろうか…と思ったが、入眠の感覚ではない。頭は冴えていた。
どうせ俺の頭にはゴミしかない、と男は思う。だから逆らわずに枕に吸い込まれていく。意識ははっきりしていたが、頭の中身はどんどん空っぽになっていく。あれほど急いでいた理由さえ思い出せない。

「お前らは何もわかっちゃいない」
男の耳に、あの時の声が聴こえる。そういえば、あいつはあれからしばらくして学校に来なくなった…きっと、来る必要がなくなったのだろう。

ああ、……そうだな、わかっちゃいなかった。
男の唇には微笑みが浮かんでいる。
男はすべてを枕にゆだねる。

朝。
樹の下に、枕だけがぽつんと残されている。
早起きの猫がやってきて、くんくんと匂いを嗅ぎ、枕の上にゆったりと体を横たえる。


おわり

(2023/4/13 作)


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