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〈三春町への旅2024〉八雲神社の荒獅子を見る〜エピローグ②古代の三春を妄想する〜荒獅子はどこから来たのか?

古代の三春町中心部はどんな土地だった?

前回記事のアップから少々時間があいてしまいましたが、〈三春町への旅2024〉八雲神社の荒獅子を見る〜も、これが最終章となりました。

前回記事はコチラ↓

前回は神社仏閣が三春町に移った時期から、戦国時代に三春田村氏が城を移してからの旧三春城下を妄想しました。今回は「田村氏が城を移す前の旧三春城下は、どんな土地だったのか?」を考えてみたいと思います。 

荒町の宝蔵寺が鎌倉時代に創建されたことはわかっていますが、丘陵地と丘陵地の間に位置する三春町の中心部(旧三春城下)。
街中を「桜川」と呼ばれる小さな河川が流れていますが、水量はそんなに多くはありません。縄文時代は今より水量があったのかもしれませんが、阿武隈川などと比べると、水量は期待できなそうです。

現在の桜川周辺(壱番館の裏手あたり)
蔵が建ち並ぶ桜川沿いの風景(左端は人形館)

縄文好きの間では、三春町は「ハート形土偶」が出土したことで知られる柴原A遺跡などの縄文遺跡が点在することで知られますが、旧三春城下にも遺跡はあるのでしょうか? 

三春町歴史民俗資料館の公式サイトによると、三春城周辺で発見された最も古い遺跡は、今から約4000年前の縄文時代後期のもの。発掘調査では、竪穴住居跡が3軒発見されているとのこと。

「大滝根川流域に立地する縄文時代の集落が拡大するのと同じ時代なので、人口が増大したこの時期に、桜川のような小河川流域にも縄文人の生活領域が拡大した」と考えられるそう。

三春城周辺で発見される最も古い遺跡は、今から約4,000年前の縄文時代後期にさかのぼり、保健センターの発掘調査では、竪穴住居跡が3軒発見されています。

これは、大滝根川流域に立地する縄文時代の集落が拡大するのと同じ時代なので、人口が増大したこの時期に、桜川のような小河川流域にも縄文人の生活領域が拡大したためと考えられます。

三春町歴史民俗資料館公式サイト

とはいえ、ほとんどの縄文遺跡が三春町南部や三春ダム周辺に集積しており、中心部には少ないことがわかります。

弥生時代はどうだったのでしょうか?
桜川があるとはいえ、山間の旧城下町は土地が狭く、稲作には適さない環境のような気がします。

下記の資料を見る限り、古墳もほとんどが周辺部に分布しています。

それでは、三春田村氏が城を移す前の三春町中心部には、何もない土地だったのでしょうか?

13世紀前半、南町には武家屋敷が建てられ、寺院が点在


再び歴史民俗資料館のサイトによると、正応2年(1289)開山と伝わる宝蔵寺のほか、南町からは13世紀前半から14世紀前半の建物群や、15世紀代の大型建物跡などが発見されているようです。

……町内で最も古い法蔵寺は、正応2(1289)年の開山と伝えられ、さらに南町の高齢者住宅では13世紀後半から14世紀前半の建物群や、15世紀代の大型建物跡などが発見されています。

三春町歴史民俗資料館

三春町の南町は現在の保健センターあたり。県道飯野三春石川線を挟み、三春町役場や郵便局、図書館などの公共施設が並ぶ、現在の街の中心部です。そして、旧三春城のお膝元にあたります。


13世紀前半は鎌倉時代。フビライ・ハンによるモンゴル襲来の少し前(文永の役は1274年、弘安の役は1281年)、後鳥羽上皇と鎌倉幕府が戦った承久の乱(1221年)の頃でしょうか。

また、年表を見ると、浄土宗や浄土真宗、時宗など、鎌倉仏教が広まった時期でもあるようです。町内最古の寺院である宝蔵寺は時宗。開山は正応2年(1289)です。

蓮の季節の宝蔵寺
建物の写真がこれしかないとは…!
ちゃんと撮影しとけ!と自分にツッコミを入れたい

……とイメージしていくと、田村氏が三春城に入る永正元年(1504)以前には、土地の権力者が住む屋敷や寺院があったのかもしれません。歴史民俗資料館の公式サイトにも同様の記述がありました。

当時の三春は紀州熊野新宮の荘園田村庄の一部で、守山に拠点を置いた田村庄司が支配していました。

……三春は田村氏が築城したと伝えられる16世紀初頭よりも前の14世紀には、いくつかのお寺や武家屋敷などのある町が形成されていたと考えられます。

三春町歴史民俗資料館

当時の三春は紀州熊野新宮の荘園で、守山(現郡山市田村町守山)の田村庄司が支配していたとのこと。


三春田村氏の移城で、人口が増加し、道路も整備?

三春田村氏はなぜ、山間の三春に城を移したのでしょうか? 戦いに向いた立地とは思えないのですが…(補給路をたたれたら、アウトな気がする)

実際、田村氏も「田村四十八館」とよばれる支城や出城を構え、要衝に一族・一門を配していたようです。

また、歴史民俗資料館のサイトで「積極的な対外攻勢を行った」という記述も見かけました。田村郡全体をみると、三春は中心部に位置しているので、田村郡西部から中央部へ本拠を移したことで、戦国大名として田村郡を平定したことを周囲に知らしめようとしたのかも…と思ったり。

田村氏が神社仏閣を移したことで、守山や安積郡八丁目から移住する人びとが増えたと思われる旧三春城下。

江戸時代の記録は見つかりませんでしたが、人口が増えれば市が立ち、人やモノの往来も増えていったことでしょう。

また、下記のサイトによると、江戸時代は三春を中心にいくつもの街道が通り、参勤交代や物資の輸送がおこなわれていたそうです。
蚕の繭や絹織物を運ぶ「絹の道」小浜街道。
海産物を運ぶ磐城街道、塩を運んできた相馬街道。
奥州街道とつながる本宮街道。

人口が増えたことで、祭りも賑わったことでしょう。

田村大元神社の祭礼では、八雲神社の荒獅子と牛頭天王が露払いを務め、城下を練り歩きます。まるで生き物のように動き、怖いお顔の獅子頭を高く掲げ、口を開ける荒獅子に人びとは熱狂し、子どもたちは泣き声を上げたと想像されます。

2023年三春大神宮祭礼。新町の長獅子
2023年の三春大神宮祭礼。中町の神輿

大元帥明王に長獅子を奉納した小山村の名工とは?

ところで、他の地域では見られない、三春独特の長獅子はいつ頃、どこから伝わってきたのでしょう?

三春町歴史民俗資料館の記事でも、成立は不明でした。

田村氏の元の居城である守山で誕生したのか、三春に移ってから誕生したのか。
全国的にも珍しいとされる長獅子のスタイルはどのようにして生まれたのでしょうか。

八雲神社の荒獅子が田村大元神社や八幡神社に伝授され、それぞれ変化していったように、荒獅子もどこかからやって来て、三春城下に合うように変化していったのでしょうか?

荒町の八雲神社の荒獅子の記事↓

新町の田村大元神社の長獅子の記事↓

荒獅子のはじまりは結局不明でしたが、三春昭進堂さんのサイトで、興味を惹かれる記事を発見!

当初は、小山村(後の御祭村)の青年達が長獅子を奉納していました。
また、獅子頭は、小山村(御祭村)の名工によって作られその地名を「獅子造り」と呼ばれています。
三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

(中略)

この山こそ、小山城の跡である。小山城は、天正年間に三春城主田村清顕時代に築いた“田村四十八舘”のひとつである。
 
江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のとき、村内の志々作という部落に、獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納した。

以後、明王と牛頭天王の祭礼には、御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より、御祭の村名を拝領したと伝えられています。

三春昭進堂blogより

「小山村の志々作という部落に住む獅子頭作りの名工二人」は、獅子頭だけを奉納したのでしょうか?
それとも、今に伝わる長獅子の舞を奉納したのでしょうか。

後者だとしたら、この「獅子頭作りの名工二人」が長獅子をはじめた人物となりますが…。

かつては田村大元神社祭礼の露払いを八雲神社の荒獅子と牛頭天王が務めたり、今も三春大神宮祭礼に新町と荒町が長獅子を奉納していたりと、旧三春城下の神社の関係性にも興味を惹かれます。

ライバル心はあるけれど、三春城下を守る藩の総鎮守である三春大神宮(神明宮)を中心に、6町内が連携して城下を守る……そうした精神的な伝統が代々受け継がれ、今も残っているのかもしれません。

2023年の三春大神宮祭礼。最終日の神輿還御。旧町内の高張り提灯

だからこそ、観光資源化しなくてもいいといいますか。旧城下町に暮らす人びとの誇りであり、単純に楽しみでもあるといいますか。白河市や二本松の提灯祭りにも通じる、ちょっと閉鎖的な地元愛を感じます(あくまで外野の意見として、白河市や二本松市は観光資源として利用してるんだから、三春も桜と獅子でPRしてもいいんじゃないかと思ってしまう)

なんだか今回もまとまりのない文章になってしまいました💦

私は「旧三春城下の神社のお祭り」「長獅子」に興味を持ち、その歴史を辿るうち、旧三春城下のなりたちを知り、そこから中世や古代の三春町中心部の歴史へと、時代を遡っていったわけですが……

……最初に三春町の歴史を一から調べておけば、もっとスムーズだったのでは?

確かにその通り😅 
でも、個人的には「神社や祭り」から歴史をさかのぼり、いろいろ想像(妄想)してみる…というプロセスがとてもおもしろかったです。

前述した通り、きっかけは「新町の長獅子、カッコイイ♪ 荒町の荒獅子、見てみたい♪」でした。
いろいろ調べはじめたのは、記事を書くためです。まさか戦国時代を中心に、三春町の歴史を(なんとなく)紐解くことになろうとは…! 自分でもまったく思っていませんでした💦

人びとが集まる場所は、時代の流れ(特に権力者)によって変わっていきます。
人びとが暮らしはじめることで、モノの売買がはじまり、道が整えられ、他地域から人とモノと文化が流入し、それを取り入れたり、あるいは取り入れなかったりして、少しずつ発展していく。

私はその過程に興味があるのかもしれません。
三春なら三春、郡山なら郡山を定点観測し、そこに何百年分ものレイヤーを重ね、興味のある年代にタイムスリップして、起こった出来事を見てみたいです(タイムスクープハンター的に)

次は郡山市の歴史にこだわって、自分なりに追求する予定です。
今回は『郡山の歴史』を図書館から借りて、一から学んでみたいと思っています。行き当たりばったりも楽しいけれど(本当にワクワクする♪)、時代ごとの変遷を楽しみながら、歴史を学びたくなりました。

〈三春町への旅2024〉八雲神社祭礼の荒獅子の記事はコチラ↓

マガジン【旅の記録】福島県内・東北中心はコチラ↓


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