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〈三春町への旅2024〉八雲神社の荒獅子を見る〜エピローグ①〜神社仏閣に守られた城下町・三春

阿武隈山系の裾野の丘陵地に広がる小さな城下町・三春。町のほとんどが標高300から500mの丘陵地で、周囲にはゆるやかな山並みが続きます。

そして、そのほとんどに旧城下町を守護するように神社仏閣が建てられています。

三春城(舞鶴城)が位置するのも、中心部の小高い丘の上。そこに辿り着くためには、結構な坂を登らなくてはなりません。一度、登ったことがありますが、はあはあ、ぜえぜ、息切れしました💦 わたしが戦国時代の足軽だったら、「あの城、ぜってえイヤだ!」と上司に反抗するかもしれません😂


田村氏と秋田氏により、成立した城下町

どの町もそうだと思いますが、三春城下は支配者が変わったことにより、神社仏閣が立ち並び、大きく変貌しました。

1つ目の変化は、戦国時代に三春田村氏が居城を三春に移したとき。
2つ目の変化は、常陸から秋田氏が入部したとき。田村氏も秋田氏も、移城や入部に伴い一族の守護神や菩提寺を三春に移しています。

戦国時代、この地を支配した三春田村氏は、もともと守山城(現郡山市田村町守山)を本拠地としていました。

永世元年(1504)、当時の当主だった義顕が本城を三春城へと移します。その際、守山に鎮座していた大元帥明王(現在の田村大元神社)や牛頭天王(現在の八雲神社)を三春城内へと遷座(分霊?)します。

戦国時代末期になると、仙道制覇の野望に燃える伊達政宗が台頭。田村氏は奥州仕置きにより改易となってしまいます。

江戸時代に入り、三春藩となり、蒲生氏、加藤氏、松下氏と藩主が移り変わりますが、正保2年(1645)、常陸国宍戸より秋田氏が入ってからは、代々秋田氏が藩主を務めるようになりました。ちなみに秋田氏の三春入りは、3代将軍・家光さんの時代です。

……と、ここで秋田氏を調べていたら、えっ? 秋田氏って、安倍氏の末裔なの………ヤバイヤバイ、また沼が待ち受けていたので、それについては次の機会に書くことにしまして💦

秋田氏が三春城主となると、町内は6つに分割され、それぞれに鎮守の社が定められます。

未確認ですが、それが今も城下に残る6社と思われます。

◆中町→愛宕神社
ご祭神は迦具槌命(かぐつちのみこと)
境内の「由来記」によると、慶長18年(1613)に勧進。
当時の藩主、蒲生氏が三春鎮護と火伏などを祈念して、京都の阿多古神社(愛宕神社の総社)から「迦具槌命」と「将軍地蔵尊」などを分霊。京都にならい、三春城から西方の現在地に愛宕堂を建てて祀ったのがはじまり。

社殿の彫刻がすばらしい!そして、s参道の石段が結構きついです💦

◆大町→王子神社
氏子の皆さんから「王子っしゃま(おうっしゃま)」と親しまれている神社。
もともとは三春城山にあったと伝えられますが、秋田氏の三春入部以前に現在地に鎮座されていたそう。
秋田氏の入部前に鎮座されていたということは、田村氏の時代なのでしょうか? それとも、その前から鎮座されていたのか? そのあたりは不明。

ご祭神は三春昭進堂さんのサイトによると、第10代崇神天皇の皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)とのこと。
豊城入彦命を調べていたら、ここにも沼が待っていた💦 脱線しそうなので、後日別記事でアップします。
また、多賀大社と水天宮が合祀されています。


王子神社も大町を見下ろすも小高い丘の上に鎮座。背後に広がる散策コース、よく利用しました


◆新町→田村大元神社
ご祭神は大元帥明王(現在は国立常命)
延暦年間(782〜805)、征夷大将軍として東征した坂上田村麻呂が国常立命を奉斎し、武運長久を祈願したことに由来すると伝わりますが、実際は国常立命(くにのとこたちのみこと)がご祭神となったのは、明治初期の神仏分離令からのようです。

もともとは三春田村氏が信仰する大元帥明王をご祭神として、守山(現在郡山市田村町守山)に鎮座。永正元年(1504)の田村義顕の三春移城に伴い、三春城三の丸下に移し、領内総鎮守として祀られるようになりました。

祭礼の日に撮影。こちらも隋神門や社殿の彫刻が見応えあり

◆荒町→八雲神社
ご祭神は牛頭天王(現在は素戔嗚尊=すさのおのみこと※未確認)
戦国時代に、京都祇園の八坂神社から疫病を祓うといわれる牛頭天王(ごずてんのう)を勧請したのがはじまりと伝えられます。

戦国時代ということは、田村氏の時代?

祭礼「きゅうり天王」の日に撮影。段数は少ないけど、結構きつい石段でした💦

◆八幡町→八幡神社
ご祭神は品陀別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)
戦国時代の天文年間(1532-1555)、山城国石清水八幡宮より勧請と伝わります。
江戸時代に秋田氏が入部し、八幡宮は三春八幡鎮守となり、現在地に鎮座…ということは、勧請した際は三春城内に鎮座されたということでしょうか?
もしかしたら、城下の守護神として、八雲神社と同時期に勧請された可能性も?

◆北町→北野神社
ご祭神は“天神様”こと菅原道真
『三春町史6民俗』には、三春城山に祀られていた北野天満大自在天神宮を正保3年(1646年)に遷座とあります。
三春城山は、三春城のこと? やはり田村氏の時代に遷座、勧請、分霊された神社なのかも?

王子神社、田村大元神社、八幡神社、北野神社は、以前は三春城内(城山)に鎮座されていたという記述があります。その後、6町の鎮守として、各町内に遷座されたのかもしれません。

梅が咲く頃、撮影しました。こちらも社殿の彫刻がすばらしいです!

意外なことに、八幡神社以外はすべて参拝していました!(いつの間にか…)
これはぜひとも八幡神社にも参拝し、長獅子も見なくては!

藩の総社 三春大神宮
ご祭神は天照大神と豊受大神。
元禄2年(1689)、旧貝山村岩田(現在三春町貝山)にあったオシンメイ様信仰に関わる社を当時の三春藩主秋田輝季が神明宮として城内に遷座。

その後、本城から見渡せる岩田手前の岡を神垣山※と定め、社殿を造営。元禄2年(1689)、遷宮。神明宮を藩の総社としたそうです。以上神社の案内板より抜粋。

※おそらくですが、天照大神がすまう山のこと。伊勢神宮では、宮域林を天照大神が鎮座する山として「神垣山(かみがきやま)」と呼んで崇敬したそう。

ニノ鳥居と手水舎。社殿は以後の丘の上に鎮座

こちらも元々は城内にあり、現在地に遷宮。
「オシンメイ様信仰」とあったので、「オシラサマ」(福島県内では「オシンメイサマ」と呼ぶ地域が多い)と関連するのかと思いましたが、「シンメイ」→「神明」なのでしょうか? 

三春昭進堂さんのこの記事を読むと、もともとは「オシンメイサマ」を祀っていた神社のような気がします。それがなぜ、天照大神となったのか、気になるところです。

秋田氏の三春入部!ゆかりの寺院が常陸国宍戸から三春へ

寺院も多い三春町。先日、ハスの撮影で訪れた宝蔵寺が室町時代から続く古刹であることを知りましたが、寺院はいつごろ建立されたのでしょうか?
有名な寺院の由緒を上記サイトで調べてみました。

◆郡守山田村院 宝蔵寺
三春町荒町。時宗
正応2年(1289)、一遍上人を継いだ遊行二租他阿弥陀仏真教小人(ゆぎょうにそたあみたぶつしんきょうしょうにん)が開山。
田村氏の移城前から当地にあった町内で最も古い寺院です。

ハスの季節に撮影

慧雲山 福聚寺
三春町字御免町。臨済宗妙心寺派
暦応2年(1339)、田村輝定により、安積郡八丁目(現在の郡山市日和田町)に創建された田村家の菩提寺。
田村義顕が三春へ居城を移すのに際して、現在地に移りました。

◆龍穏院
三春町荒町。曹洞宗
曹洞宗大本山總持寺の御直末(おじきまつ=総本山直属の末寺)
三春藩主秋田家の菩提寺の一つとして、もともとは常陸宍戸(現茨城県笠間市)にありましたが、秋田氏の移封にともない、三春へ移りました。

2024年早春に撮影。風格ある構えです

◆日乗山真照寺
三春町新町。真言宗智山派寛喜3年(1231)、意教上人(いきょうしょうにん)が常陸宍戸(現茨城県友部町)に開山。
正保2年(1645)、秋田氏の三春移封の際、常陸宍戸に残りましたが、慶安3年(1650)、三春藩2代藩主盛季によって古四王とともに三春に遷されました。

………この古四王の内容が、とても興味深い……(あ、また脱線💦)
古四王についても、別記事でアップすることにします💦

節分会の夜、撮影しました!(節分会についてもアップしたいと思いつつ、貯めています💦)

すべてのお寺を調べていないので、確定はできませんが、田村氏の三春移城前は、宝蔵寺が建つ程度だったようです。
そこに田村氏が三春に移ったことで、菩提寺だった福聚寺が安積から移り、江戸時代に秋田氏が入部したことで、常陸国宍戸から菩提寺や信仰する寺院が続々と移されたようです。

秋田氏は城下の6町それぞれに神社仏閣を配し、三春城下の守りとし、人びとの心の拠りどころとしたことがうかがえます。

〈三春町への旅2024〉八雲神社の荒獅子を見る〜エピローグ②に続きます。


ところで、三春に移る前の秋田氏の領地は、常陸国宍戸。現在の笠間市平町にあたります。
宍戸や友部には、以前の仕事で半年程度通ったことがあります。なんだかなつかしい…。そして、またプチシンクロニシティ✨ 

また、ご縁がありますように!(常陸国自体が再度訪れたい場所の一つです)


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