noteを続けるには才能が必要か? いや、そんなこともないと思う
11月も終わりかと思うと、ハッとした。
そう、こういった作文をつらつらと書き出したのは確か5年か6年前の11月、その終わり頃だった。
あの頃は確かこういう仕事をしていて…と、思い返すともしかしたら7年前かもとも思えてきた。
え、そんなに続けているんだっけ?と思ったが、いや実に長いこと続けているんだな。なにか身についたり得したり、得たものはあるかと聞かれるとぜんぜん全く無いのだけど、しかし毎回のように「スキ」してくださる方がいたりはするし、こころなしかこれをしていなかった自分は言葉遣いだったりものの理解度みたいなものは今よりもガクッと低かったのではないかと感じる。
ただ自分の言葉を連ねるだけなのにそんなことってあるのか?なんて思ったりもするんだが、そんなこともあるのかもしれない。
僕が思うに、もうちょっと友人ができたり、はたまたちょっと有名になったりするんだろうかと思ったりもしたが、実際はそんなことはまったくなかった。
毎日文章を書いている人なんて星の数ほどいるんだろうし、おもしろい文章であれば毎日でなくともひとつ書くだけでバチコンと炎上的にスキがつく。
特に有名でもなく文章が炎上しないとなると、単なる駄文であり、そのへんに転がっている普通の石ころとなんら変わりはないのだな。
僕の友人もnoteをやりはじめたりもしていたけど、やはり幼少期から文章を買いたり興味を持っている人はまじで違う。
何か、その文章の主題すら人を引き付けるような語彙力のようなものを持っているのである。なんと表現していいのかわからないけど、ちょっとした言葉にも物語性があるとでも言おうか、単なる意味のある言葉を連ねているのではなく、その先に何があるのかワクワクさせる言葉を本能的にでも使っているかのようなそんな感じである。めちゃくちゃ羨ましい才能なのかもしれないが、あいにく僕にそれは今からじゃ持てない。
僕なんて、そういう物語的なものを読んでいるわけでもないし、新たに何か調べて知識を蓄えたり勉強したりするわけじゃないから、単に状況を説明しているに過ぎず、電気製品についてくるポイと捨てられるような説明書の言葉に感じられる。いやいや…、それだと説明書に失礼か。
じゃあ、何のためにやっているのかと思うかも知れないが、意外とこの作業をしていると頭の中がスッキリするのである。
言うなれば、部屋(頭の中)の整理整頓とでも言おうかな。
こうやって感じたことや思ったこと、経験したこと、イラッとしたこと、なんでも良いからここに書き込んで吐き出すと、スッと落ち着くことがあるし、なるほどそういうことかとどこかに落とし込むことができるのである。
スポーツで言うなら、ゴールした瞬間とでも言おうか。
スッと散らかりが収まるような気がするのである。
そういう毎日をしているからかもしれない。僕には思い悩むことや、気がかりでしょうがないといったこと、不安や過度な怒りやいら立ち、寂しさを感じることがなんとなく無いように思える。
なんだお前、悟りでも開いているのかと思われてしまうかもしれないが、同じような現象が起こっているのでは?とは感じることがある。
だから、なんとなく続いているのかななんて思ったりするわけよ。
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