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「食べる」ための犠牲

「最近食べ過ぎなんじゃないか?」と考えていました。太ってしまったんですよね。

なので。そんなこんなで考えていると最終的に行き着いたのが

「なぜ自分は食べるんだろうか?」

ということに至ってしまったのでした。


考えるだけ無駄なような気がしますけど、最近収穫したお野菜とかを食べるのがおもしろいなぁってことを経験したり、YouTubeで虫を食べるくらいの極限サバイバル動画を見たりしていると、何だか自分の食事について考える必要があるんじゃないかと感じたのでした。

というのも。
なんだか、食べたくもないのに時間が来ると食べていたり、みんなが食べているから自分も食べるとか、クセになるからもっともっと食べたいとか、刺激が強くてついつい口に運んでしまうんだとか、周りの食事やオヤツにそういうのがすごく多いなと感じたんですよね。
あと、新感覚だとか、かつてない味だとか、流行っているんだとか、そういう宣伝じみたものに左右されていまいか?と。


ま、そんなこんなで元の質問に戻って。

なぜ我々は食べるんでしょうかね。

そんなこと、「お腹がすいたから」に決まってるじゃない。もしくは「生きるため」だ。とかと言うかも知れないですね。

そうするとじゃあ、「お腹がすかなかったら食べないのか?」っていう質問が出てきます。
そんなことないですよね。お腹がすかなくってもオヤツは食べたいし、誰かが何かを食べていると、つられて自分も何かを食べたくなるし、美味ししそうなにおいとか、写真や映像を見ると食べたり飲んだりしたくなります。


あとは、高校生でもオトナになったりしても、「流れ」ってのがありますよね。
「タピオカ飲みに行こうよー。」とか
「焼き鳥で一杯呑みませんか?」とかね、ありますよね。

そして

行こう行こう!(ってなりますよね、実はあんまりお腹すいていないんだって時もです。)

そうです。誰かとコミュニケーションをはかるのに、「食べる」というツールが使いやすすぎるのですよ。


それに、不必要にもそこいら中に食べ物が溢れているような気がします。
コンビニやうどん屋さん、ファミレスやハンバーガー屋さん、スーパーに八百屋さん。程度の低いオヤツやパンまで!

「生きることは食べることだ」とは言いますけど、食べるものや飲み物が溢れすぎてやしないのかと思います。みんないつの間にか、食べることに躍起になってやしないでしょうか?自分がお腹すいたからって、隣のナントカちゃんはお腹すいていないのかもしれないのですよ。



だって、こう言っちゃなんですけど、街を歩くと何人かにひとりは太りすぎなひとっていますよね。
これは主に自分に向けて言っているのですが、自分の体を見て

「なぜそんなになるまで放っておいた?というか、なぜそんなにも食べることに熱中してしまったんだ?」

と問うたのですよね。


太ってしまうというのは、動いていないからなのか、あるいは食べる量が多いのか、食べる量が多いのか、はたまた食べる量が多いのか、そして食べる量が多いのか、のどれかです。……。


もうね、十中八九で食べる量が格段に多いわけですよ!

お腹いっぱいになるのが目的の食事ではなくて、本来の食事は、活動するためとか元気を出すためのエネルギーなんですよね。
それを忘れてしまって、「食べることに活力を使いすぎている」んじゃないかと思ったんですよね。

そうやって考えて、食べるのは「食べたいという気持ちを消すだけでいい」という食べ方をしてみようと心がけると、自然と食べたい欲求が小さくなって、冷蔵庫がすっからかんになってしまいました。


あと、そういう価値観について考えたときに「食べる」ということに関してかなりの時間を使っているんだなぁと感じたのでした。
買い物したり、何を食べようかと考えたり相談したり、お金を計算したり準備したりね。料理はどうやろうか考えたり、誰と食べようか、どれくらい食べたいか、予約はしたのか、と。かなりの時間を食事に費やしているんだと考えると、「何やってんだろうな?」なんて考えるようになってしまって。料理欲とか、買い物したい欲がかなり削がれてしまいました。今僕は、「食べる」ということが億劫になっているのでございます。


吉と出るか凶と出るか、ですね。

できれば吉と出て欲しい。


「食べる」の優先順位を下げてみる、これからの僕は。

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