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「裏」タケミナカタ神話「裏」⑦7/7 織姫と彦星と徐福の渡来伝説

▼織姫と彦星

昔々天の川のほとりで織姫様が機織りをしていました。織姫様の作る布はそれは素晴らしい品で父親の天の神様も誇らしく思っていました。しかし、年頃になってもひたすら機織りにしか目がない娘を心配に思い、お婿さんを探しに出かけました。

天の神様はその中で彦星という大変まじめな牛飼いを見つけました。
織姫と彦星は出会ってすぐに惹かれ合い、仲の良い夫婦となりました。しかし、これまで真面目すぎた反動か、二人は二人の世界に没入し仕事を疎かにするようになりました。

天の神様の注意にも耳を貸さない二人。ついに天の神様は二人を引き離してしまいます。

それから二人は悲しみに暮れ、やはり仕事はしませんでした。

呆れた天の神様は言いました。
「お前たちが前のように一生懸命に仕事をするのなら一年に一度だけ会うことを許そう」

このことにより一年に一度、7月7日の七夕に会える日を希望に二人は再び働きだしたのでした。

▼暗号解読の続き

▽東国への亡命、派遣神話は全て同じ物語

前回の記紀神話の暗号解読の続きを行います。

私は記紀における東に逃れた、派遣された系の物語は全部同じ出来事を表していると考えています。

・武甕雷に敗れて諏訪に逃れた建御名方命

・天甕星命を討伐するために派遣された武甕雷と布都主、建葉槌命

・神武東征の結果、東に逃れたという伝承のある長髄彦

・神武天皇の命で忌部を率いて阿波を開拓し、そのまま房総(現、千葉周辺)に移動した天富命(あめのとみ)

・崇神天皇の命で北陸に派遣された大彦とその息子で東海に派遣された武渟川別(たけぬなかわわけ)命

・丁未の乱で敗れ東に逃れた物部守屋の勢力

どういうことかというと、記紀では実際は追いやったことも、「命令により派遣した」、という形で書くことがあるのです。

そして、ややこしいのですが、侵略・追いやった側も、被害者側も、裏切った者たちも元は同族であることが多く、この場合、伝承間で被害者と加害者が入れ替わることがあったり、ほぼ関係ないのに同族という理由で名前を引っ張り出されたり、ということが起きるのです(時代の流れによる解釈のズレもありますが意図的にも行われています)。

武甕雷がその例です。武甕雷と布都主、建葉槌命が東国に降り立ち(鹿島神宮、香取神宮)天津甕星を成敗したとありますが、武甕雷は古事記において大田田根子(おおたたねこ)の父に建甕槌の名があり、意富(おお)氏の神ということになります。また鹿島開拓の神に建借間命(たけかしま)という神がいて意富氏の祖神になります。武甕雷は建借間命ということになります。

天津甕星と建葉槌命は実際は同族であったと考えました。

武甕雷、布都主、建葉槌命が東国に派遣された、というのは同族を頼って東国に逃れてきた、と考えます。

このとき天富草命が忌部を率いて阿波→東国へ派遣された物語ですが、物部守屋が忌部の縁者で一族が諏訪や東国に逃れたことと繋がります。ですので物部守屋が建御名方命で、天富命であることが阿波の名方郡に諏訪元宮がある理由になります。


崇神天皇に派遣された大彦は意富(おお)彦で、派遣されたのではなく北陸(建御名方命の母の奴奈川姫、高志国)に逃れた、故に東海に逃れた息子は武渟川別(ヌナカワワケ)の名を持つ。

前回の記事の孝元天皇の系図では長髄彦と意富那毘という尾張氏の祖が重なります。尾張氏の祖神が高倉下(天香久山)でこの神は天津甕星命と同一と以前考えたため繋がります。

▽孝元天皇の御子達の系図を読み解く

孝元天皇には伊香賀色謎命(イカガシコメ)以外にも埴安神(ハニヤスヒメ)、欝色謎命(ウツシコメ)がいます。欝色謎命と孝元天皇の子に稚日本根子彦(開化天皇)ら大彦、少彦男心、倭迹迹姫がいます。

上記で述べたように大彦は長髄彦と同心円上にいる存在であるため、長髄彦と系図が重なる意富那毘に置かれます。名前的には大国主にあたる存在でしょうか。
これら故に他の欝色謎命の御子達も伊香賀色謎命側の系図に重ねられるものと考えます。

その時、少彦男心は彦太忍信命(饒速日)と考えます。そして名前からして少彦名命にあたるでしょう。饒速日は天稚彦と以前考えました。この辺りは次回で深掘りします。

倭迹迹姫は山下影姫、か葛木高千那姫、もしくはその両方を表すと考えます。

宇摩志麻遅命(ウマシマジ、味内宿祢、味鋤高彦根命(古事記における迦毛大御神(かものおおかみ)))が事代主の名を奪い神武天皇を引き入れて娘を嫁がせたと考えているため、ウマシマジ、もしくはその子にあたる人物が開化天皇→崇神天皇へと繋がっていきます。

本来、事代主は高倉下で、建御名方命にもなる、と考えています(この意味は後にわかると思います)。そして、竹内宿禰としました。この竹内宿禰に成り代わったのが味内宿祢(味鋤高彦根命、開化天皇)。その味内宿禰が息子を応神天皇として即位させたことになります。この応神天皇は開化天皇の子、崇神天皇でもあり、神武天皇でもある、ということです。

応神天皇については1313年成立の八幡宇佐宮御託宣集に、辛国(朝鮮半島)に八流の幡とともに天降り、日本の神となったとあります。素戔嗚が新羅へ行き、子供たちと紀伊国へ戻ってきたことがここに繋がります。八流の幡とは秦氏と考えていいでしょう。

▽崇神天皇

崇神天皇は書紀において御間城入彦五十瓊殖天皇の名で、御間城(みまき)とは朝鮮半島にあった倭国の領域の任那(にまな)になります。任那入りした者、という称号は三韓征伐を行った武内宿禰(この竹内宿禰は宇摩志麻遅命)達と繋がるでしょう。
 崇神天皇は大彦の娘で武渟川別の妹の御間城入姫を皇后として垂仁天皇を産んでいます。武渟川別は高倉下(天香久山)に比定されることは上記で述べ、その妹に御年神様がいることを以前の記事で書きました。この御年神を御間城入姫に比定します。そして、御間城入姫とは別の崇神天皇の妃に尾張大海媛がいます。この尾張氏の姫ですが、尾張氏の祖神が高倉下のことから、実際は御間城入姫と尾張大海姫は同じと考えます。そうしたとき、崇神天皇と御間城入姫(尾張大海姫)の子に八坂入彦、という人物がいます。この八坂入彦の娘、八坂入姫という人物が景行天皇の皇后になっています。

 「諏訪旧跡忠」という資料には建御名方命の妻で諏訪大社下社の御祭神である八坂刀売命には八坂入姫という妹がいる、ということが書かれています。他の書物には八坂刀売の妹に八坂及命がいて諏訪大明神の側妻であったとあります。このとき八坂入姫=八坂及命として、この諏訪大明神は景行天皇ということになります。そうしたとき、孫に市隼雄(いぢはやお)という、建御名方命の息子、出早命(いずはやお)と名のよく似た人物がいることの説明がつきます。

景行天皇は子のヤマトタケルを恐れて各地に派遣しますが、このヤマトタケルの物語も前述の東国に逃れた者たちと同心円上の物語になると考えています。
ヤマトタケルは小碓(こうす)の名を持ち、兄に大碓(おおうす)がいます。大碓は美濃へ派遣され、ヤマトタケルは東国へ派遣されたわけですが、物部守屋の子、雄君が美濃へ逃れ、武麿が諏訪、他の一族郎党がさらに東へ逃れていることが同じ物語です。

▼出雲口伝とは

▽私の古史古伝に対する考え

 私はこれまで記紀及び関連書物、伝承を暗号と考えて紐解く中でいわるゆ古史古伝と言われるものは使ってきませんでした。
 古史古伝というものは記紀神話とは内容が大きく異なる口伝や書物のことで偽書と一般的に捉えられるものです。


竹内文書、
宮下文書、
九鬼文書、
ウエツフミ、
ホツマツタエ、
契丹古伝、等々

 何故これらを暗号解読に使ってこなかったのかというと、
「使う必要がないはず」と考えていたからです。
 記紀や先代旧事本紀、各風土記などはそれぞれの成立背景があるように伝えられていますが、実際のところ編纂者は同じようなグループです。また各地の伝承は聖のような者が記紀等に合うように補足伝承を作成、調整、伝播して江戸時代までかけて作られたもの。故にこれらの情報だけでだけで解けるように作られているはずと考えていたためです。

 そうして私は記紀神話の暗号を解いてきたのですが、その内容は「出雲口伝」と呼ばれる古史古伝と大きく一致します。故に出雲口伝だけは暗号解読には使わなかったものの、時折記事に名前を出させていただいていました。

ここから出雲口伝の内容をお伝えします。

▽徐福の渡来

 出雲口伝とは大国主の子孫を自称する産経新聞社の富當雄氏が発表した内容で紆余曲折あった末に當雄氏の息子の斎木雲集(ペンネーム)氏が書籍として発表した内容になります。

 出雲には主王(大名持)と副王(少名彦)の家系があり、彼らはインダス文明を築いたとされるドラヴィダ人の末裔であるといいます。彼らは縄文人達と平和に暮らしていました。ある時、渡来系で出雲国造の祖、天穂日命(あめのほひ)が大陸から徐福(秦の始皇帝の子孫を自称)の一団を呼び込みます。この一団を饒速日や素戔嗚と呼んだといいます。彼らが連れてきた海童達が主王と、当時の副王であった事代主を殺害します。これは徐福の一団が王族に成り代わるためのものであったと考えられます。出雲の人々は各地に散らばり、その中には事代主の子、建水方富彦(たてみなかたとみひこ)もいて信濃へ逃れて続出雲王朝を建てました。その他の一派には近畿(大和)に逃れた者達もいて、後に大和までやってきた徐福(饒速日)の子孫、天村雲を初代大王として磯城王朝(海部)が建てられたと言います。

▽磯城王朝の有力家系(大王、尾張、登美)と神武(物部)東征

 大王家は登美家(事代主の子孫)から妻を娶り、養育も出雲王家が行っていたため、彼らは徐福の血を継ぎながらも出雲の王であるとの意識が強かったそうです。

磯城王朝には有力な勢力が3つありました。
大王家
 前述の村雲の家柄
尾張家
 徐福一族の一派。高倉下を祖とし、分家は紀伊国造になる。
登美(富)家
 出雲副王であった事代主の子孫たち。

この3勢力は次第に険悪になっていったそうです。そんな折、第一次物部東征(記紀における神武東征が起こります)による戦乱が起こります。

この物部の一団も徐福からの流れの一族で筑後に勢力を張っていた者たちです。熊野に上陸して、この勢力に登美家の加茂建角身(かもたけつのみ)が味方につき案内したと言います。最終的に彼らは三輪山西南の磐余の地に住み着きます。故にこの地の物部の指導者を磐余彦(イワレヒコ、神武天皇の和風諡号)と呼びました。またこの筑後物部政権をウマシマジともしました。実際はウマシウチ宿禰で第二次物部東征の人物の名をここに入れ込んでいる、と言います。

▽孝霊天皇、孝元天皇

大王家の7代目、フトニ王(孝霊天皇)この物部勢力から逃れて吉備に移ります。この地を拠点に出雲の残存勢力を攻撃し始めます。結果、残っていた西出雲王国が降伏、ここに大和からやってきた加茂人が住み着いたといいます。この一連の戦いを第一次出雲戦争として、出雲国造が記紀編纂に口を挟み、八十神とオオナムジの神話として入れ込ませたといいます。オオナムジが西出雲王国、フトニのやその子、吉備津彦等が八十神です。

一方、物部東征後の大和ではクニクル(8代孝元天皇)が大王となり物部から皇后、妃を迎えて妥協します。ただ、銅鐸祭祀の大彦(フトニの子)や尾張家と武神信仰の物部との間でいざこざが見られるようになり、次第に対立していきます。大彦は根拠地のソネ山にちなんで長髄彦の名が与えられます。この大彦vs物部+ハニヤスヒコの対立の末、大彦は北へ総退却。三島(高槻)、琵琶湖東南岸、北陸と移り住んでいきます。尾張一族も追い出されて紀伊、三島、丹波、伊勢湾岸沿いへ移住しました。これらの対立はモモソ姫が全国的に宗教的人気を得ることで収束したと言います。雲州氏はこのモモソ姫を卑弥呼と考えています。
東に逃れた尾張勢力を大彦の息子ヌナカワワケとして阿部家となる。記紀は大彦とヌナカワワケを追いやった話しを崇神天皇が四道将軍として派遣したことにしている。

この後、大和では物部の血を持つオオヒビ王(開化天皇)が物部勢力と協調したとあります。

▽第二次物部東征、崇神天皇と豊姫

 3世紀初頭の九州に豊王国があり、四国の土佐まで進出していた。中心地は宇佐であり、宇佐神宮を建てた。ここに宇佐神宮の神主家の伝承も絡めて話されます。宇佐神宮は月の女神(月読尊)信仰で月に住むウサギからウサギ神社とはじめは称した、といいます。ここに筑後の物部イニエ王(崇神天皇)がやってきて大和を攻めるために宇佐家の豊玉姫と連合を組みます。これは第一次の物部東征がモモソ姫と三輪山の太陽信仰でうやむやになった経験から、次は太陽信仰に対抗するための月信仰を求めたのだといいます。
イニエと豊姫(豊玉姫)は記紀ではニニギとコノハナサクヤ姫として書かれている、といいます。
イニエの重臣には物部彦布都押(ひこふつおし)がいて、古事記の作者はヤマトの磯城王朝と結びつけたとあります。物部彦布都押は紀伊国造家の山下影姫を娶り、物部武内彦をもうけた。この人物がタケシウチ宿禰であるといいます。タケシウチは魏書(いわゆる魏志倭人伝)で「載斯烏越(さいしうえつ」として書かれます。豊姫、イニエ王は自分達がヤマトであると偽って魏と交易し、それにより手にした銅鏡を東征の折に各地の豪族に配ったといいます。この権威により豪族たちを取り込んでいこうとしたのでしょう。当のヤマトの磯城王朝もヤマトへ亡命していた呉の工人に三角縁神獣鏡を作らせようとしますが青銅の地金が不足し、親しかった武内宿禰に頼ります。武内宿禰はイニエ、豊姫連合での自分の扱いを不満に思っており、元々の自分の実家である紀伊国へ青銅とともに一族郎党を連れてやってきました。

武内宿禰は山城国宇治に住むウマシウチノ宿禰にも連絡して、いざというときは自分に味方するように、と頼みました。


一旦ここでやめておきましょう。
これまで私がしてきた考察と多くの部分で一致することをご確認いただけたでしょうか。私は出雲口伝の内容に関してはごく一部のみしか知らない状態で記紀神話の解読をはじめました。その後にこの口伝を読ませていただき、やはり記紀神話はそれのみで解読できるように作られていることを確信しました。

▽777 星を祀る者たち

 最初に渡来した饒速日から磯城王朝、東征の物部含め徐福の一族は7を神聖視する星(北極星)信仰の一族でした。7は3(陰、精神)と4(陽、物質)の統合を表します。
7月7日この日は七夕とされ、饒速日の弔い期間は7日7夜であります。
そして、昔は七夕の願いは梶の葉に書いたといいます。
梶の葉紋は諏訪大社の神紋であります。そうしたとき、御柱祭が数え年で7年に1度であることも合点がいきます。

左は下社、右は上社



これらのことは全て物部守屋に繋がります。

磯城郡、村屋坐弥冨都比売神社

 この摂社の物部神社は物部守屋の子で丁未の乱後に美濃へ逃れた雄君が一時逃れてきて、その子である押勝が跡取りのいなかった社家の養子に入り室屋姓として現在まで続くと言います。祭神は御炊屋姫、宇麻志摩遅命で、物部守屋を配祀します。
この摂社の別名を市杵島神社と呼びます。
市杵島姫は元伊勢籠神社の絵馬において饒速日(火明命)と夫婦のように書かれる神様です。

そして,物部神社では現在7月7日に弁天祭が行われています。

彦星とは饒速日命(建御名方命(物部守屋)、
織姫とは市杵島姫(八坂刀売命?)をさしたのかもしれません。
もっと言うなら天忍穂耳命と栲幡千千姫命のことと考えます。

▽去年見た夢

夢の中で私は誰かから講義を受けていました。
地球の絵を見させられ、その地球の上下に円が書かれていて、上の円は輪廻、下の円は逆輪廻であると教えられました。
その夢のことが気になり調べたところ、夢の中で見た絵と酷似している画像を見つけました。

地球の回転の軸の線上に北極星があるのですが歳差運動により長い年月をかけて北極星にあたる星が変化するそうです。現在の北極星はこぐま座のポラリス。
前回の北極星は5000年前のりゅう座のトゥバンであったとのこと。そして、2万6千年後はベガ、織姫の星となるようです。

▽終わりに

見てくださりありがとうございました。今回は長丁場だったのでどれだけの方が最後まで見てくれるのだろうか、と心配になってしまいます。
自己紹介の方で触れましたが、このシリーズは⑩で終わる予定です。ここまで見てくださる方には感謝、感謝です🥲。

シリーズは上記から。

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