「諏訪信仰を伝えたい!」①八ヶ岳の伝承を人類の起源と併せて考えてみる
▽はじめに
前回の記事はこちらから
今回の記事では八ヶ岳の伝承、「浅間(せんげん)様」と「権現(ごんげん)様」の背比べについて触れていきたいと思います。
人類の起源などとのタイトルは大仰に思えるかもしれませんが、どうぞ最後まで読み進めていただければと思います。
今回もどうぞよろしくお願いします。
▽諏訪信仰と縄文に関する概要
諏訪信仰を語るとき多くの人々がまずは縄文時代に触れることになると思います。
これは縄文人たちのライフスタイルである狩猟採取と、諏訪大社上社の狩猟にまつわる祭祀形態が結びつけられるからです。
例として、
・御頭祭(おんとうさい 正式名称、大御立座(おおみたてまし)神事)
毎年4月15日に行われる神事で鹿の頭をはじめ、大量の贄を神前に捧げます。
現在では剥製を使っています。
江戸時代後期に各地を旅して周り、その見聞を後世に残した菅江真澄(すがえ ますみ)氏。
彼は諏訪にも訪れ、この御頭祭を記録しています。その記録を元にした展示を下記の「神長官守矢史料館」にて見ることができます。
・蛙狩神事(かわずがりしんじ)
毎年1月1日に行われる神事。
諏訪大社上社本宮を周辺を流れる小川から採った蛙を串刺しにして生贄として神に捧げます。
これに関して(というより他の神事に関しても)、動物愛護や現在の価値観から批判の声が多くあります。
話がかなり脱線してしまいますが、私が諏訪について触れる大きな理由の一つでもあるので少しこの辺りについての「視点」を共有させてください。
▽現代の価値観に合わない生贄や神事について
祭りと神事は元々同じものでした。
古の人々にとっての祭りとはなんだったか。
それを考えたとき、カオス(混沌)とコスモス(秩序)のバランスをとるためのものであった、とする考えがあるのです。
人間の奥底には元来からの攻撃性や暴力性を備えています。秩序の中では発散されることのないそれら(穢れ)をカオスに没入することによって発散させ、清めらることによってまた秩序の中に戻っていく。
このときのカオスとは、ドラッグや乱行や生贄を含みます。そこに没入してしまったら戻ってこれないと感じてしまいますが、それはカオスとコスモスの橋渡しをする存在、神官やシャーマンと呼ばれる存在がそれを可能にしていたのです。
私の記事を継続して見てくださっている方であれば、この「カオス」というものが「真実の世界」や「現実の世界」といった「裏」の一部であることがわかると思います。
そしてこの時の「神官」や「シャーマン」という存在を村上春樹氏は著作の「1Q84」の中で「パッシヴァ(知覚するもの)」と「レシヴァ(受け入れる者)」として表現したのです。
これが私がユング心理学と、それを日本に広めた河合隼雄氏を度々記事にしている理由でもあるのです。
つまり、人間の持つ「攻撃性・暴力性」と「秩序」を両立させるシステムとして古の人々は「祭り」をしていた。
では現代の私たちが「攻撃性・暴力性」とどのように向き合っているか、という問題になりますが「それらを見ない・存在しない・あってはならない」として対応できた気になっているのです。
しかしそれは目を逸らしているだけに過ぎず、変わらずに存在し続ける「攻撃性・暴力性」は陰湿さを伴って、もしくは溜め込んでいた分大きな力となって顕現し始める、ということです。
誹謗中傷やいじめ、虐待、もしくは自傷行動というような民間レベルから、革命(テロ)といった形でも。
あまり認知されていませんが革命とテロは同根にあるものという考えがあるのです。
それが成功すれば革命と呼ばれ、
失敗すればテロと呼ばれる、ということです。
さらに言えば、秩序に戻す神官やシャーマンが存在していない中でカオスに突入した結果、攻撃性や暴力性は歯止めが効かなくなってしまうのです。
これらは一つの視点でしかありませんが、ここで何が言いたいかといいますと「見ないふりするな」、ということです。
古に戻ってこの記事でいう「祭り」を再興するべきだ、などと言いたい訳ではありません。
「そんなのよくない!」などと言っても「攻撃性・暴力性」はあるのだから、それらとどのように一人一人が向き合っていくかが大事ではないか、ということです。
そうでなければ何度だって同じ歴史を繰り返してしまうではないですか。
この世界に残っているものは全て意味があるから残っている、という原則に立てば諏訪信仰における残酷性もあなたに考える機会を、自らの攻撃性・暴力性と向き合う機会を与えるために残ってきたとも考えられませんか?
だから蛙を殺してもいい、などとは言えませんが、せめて残ってきた意味に寄り添う姿勢を持ってもいいのではないか、と思うのです。
▽話を戻して
話が本当に脱線してしまいました。
元に戻します。
諏訪信仰が縄文と結び付けられるのは祭祀形態のみに限りません。
諏訪郡一帯に見事な縄文土偶が多数発掘されており、特にこの記事の八ヶ岳では縄文文化が非常に栄え、以下のような国宝に認定された土偶も発掘されているのです。
縄文時代に関しては今後に任せるとして、そのような八ヶ岳には非常に興味深い伝承、「浅間様と権現様の背比べ」があります。
内容は以下のものとなります。
▽浅間様と権現様の伝承
昔々富士山を神体(肉体)とする女神・浅間(せんげん)様と八ヶ岳を神体とする男神・権現(ごんげん)様が言い争いをしていました。
その内容は「どっちの方が背が高いか」でした。
見かねた阿弥陀如来様は背比べの方法として、両者の間に包をかけ、水は高い方から低い方へ流れるだろう、という方法を提示しました。
水は権現様から浅間様へ流れていきました。
権現様(八ヶ岳)の方が浅間様(富士山)よりも背が高い、ということです。
この結果に不服だった浅間様は権現様を強く蹴りつけました。
その衝撃で権現様の体はバラバラに砕け現在のようなギザギザの形と高さになってしまいました。
悲しんだ権現様の涙が溜まって諏訪湖となったといいます。
※いくつかある伝承のパターンの一つをお伝えさせていただきました
▽八ヶ岳は富士山よりも標高が高かった?
この伝承について興味深いお話があります。
およそ25万年前八ヶ岳の標高は3400mで、10万年前に今と同じ2805m(阿弥陀岳)、2899m(赤岳)になったといいます。
そして富士山に関しては、その時はまだ2700m程度。約1万年前ほどから火山活動を始めたことで後に現在の高さにまでなったというのです。
つまり、伝承のように八ヶ岳の方が富士山よりも標高が高い時期が確かに存在していた、ということです。
この伝承と事実の一致は「偶然」なのでしょうか?
▽現在の学説としてのホモ・サピエンス
事実と伝承の繋がりをもっと深く探るために、今現在の学説としての私たちホモ・サピエンスが日本へ至るまでの歴史を見ていきましょう。
私たちホモ・サピエンスの発見されている中で最も古い人骨はおよそ30万年前から20万年前のもので、これをもってホモ・サピエンスの出現とするのが通説となっています。
およそ20万年前にホモ・サピエンスの一度目の出アフリカがあったことが発掘された人骨からわかっています。
しかしそれは限られた地域にすぎず、世界各地にまで住み着くようになる移動は5万年前と考えられているのです。
日本においては遺跡数の急増からホモ・サピエンスはおよそ3万8千年前の渡来が考えられています。
そういった遺跡の中でも特に興味深いのが、富士山南東の井出丸遺跡です。
発掘された黒曜石に伊豆諸島の神津島産のものが見られるのです。
このことから日本に渡来したホモ・サピエンスがこの頃には既に航海をしていたということがわかります。
考えてみればそもそもこの頃には日本が既に大陸と海で分断されていたので、人が住んでいる時点で航海によって入ってきたことは確定的であるのです。
ここまでが現在の学説になります。
日本にホモ・サピエンスが渡来したのが3万8千年前であるならば、八ヶ岳の方が富士山よりも高かった時代(一万年以上前)を我々のご先祖様が観測していて、それが伝承として残ってきたこともおかしな話ではないのです。
▽伝承に残った不可解な点
しかし、この伝承においては不可解で興味深い点がまだあります。
それは八ヶ岳である権現様が浅間様に蹴られて身体が砕けたために現在の形・高さとなった、という部分です。
つまり、約1万年前
富士山はあくまでも自身の火山活動によって標高が高くなっていった結果、八ヶ岳の標高を超えたわけであって、八ヶ岳がそこで砕けたわけではないのです。
これに関して後世の火山活動や崩壊を当てはめることが現実的な見方ではあるでしょう。
例えば西暦888年に起こったとされる、八ヶ岳大月川岩屑流の発生。
八ヶ岳が富士山より高かったという伝承が元々あって、現在はそうではない理由付けをその後に観測された八ヶ岳の限定的な規模での崩壊をもって行った、ということです。
しかし、これはあんまり「おもしろくはない」ですよね?
私が記事を書いている理由は、読んでくださるあなたに世界をもっと深く味わっていただくためであります。
ですからあえてここでは20万年前の古阿弥陀岳火山の大崩壊を設定しましょう。
▽伝承が20万年前のことを語っているとしたら
先ほど述べたホモ・サピエンスの世界展開の歴史。
これに沿って考えれば、およそ20万年前はほとんどのホモサピエンスがアフリカで生活しており、八ヶ岳(古阿弥陀岳火山)の崩壊を観測することなどできるはずもありません。
その上でも敢えて背比べの伝承の権現様の崩壊を20万年前のものと結びつけようとしたとき、以下の2つの説を考えることができるでしょう。
①骨や遺跡が見つかっていない、というだけでホモ・サピエンスがおよそ20万年ごろには日本に存在していた。
②もしくは私たちとは別のニンゲン種が日本で生活していて、およそ3万8千年前にやってきた私たちと共存するに至った。
そして別のニンゲン種達が観測した、「八ヶ岳の崩壊」という事実を私たちに伝え、それが伝承として残った。
もしくはその両方。
実は現在、分子生物学の発展で発掘された人骨から遺伝子情報を読み取ることが可能となっています。
それによると、およそ80万年前、私たちホモ・サピエンスへと繋がる分岐がアフリカで起こり、その後別のニンゲン種との明確な分岐がおよそ64万年前に起こったと考えられています。
つまり、発掘されている最古のホモ・サピエンスの人骨、30万から20万年前と、「明確な分岐」の間には30万年程の「空白」があり、この区間の人骨が見つかっていない、というだけでホモ・サピエンスがもっと前に各地に進出していた可能性は捨てきれないのです。ですから②に関して「ありえなくはない」ということになります。
そして現生人類の多くは、別のニンゲン種であるネアンデルタール人の遺伝子を数%保持していること、これは分岐前の遺伝子を保持しているということではなく、交雑によってであることも判明しているのです。
さらにはネアンデルタール人に限らず、デニソワ人との共生の痕跡も判明しているのです。つまり①に関しても「ありえなくはない」ということになるのです。
▽伝承と事実
ここまで見てきた通り、そしてこれに限らず、「伝承」と「事実」の繋がりは現時点ではあながち「偶然」とも言い難く、いずれは伝承が現実として私たちに提示される時がくるのかもしれません。
これは神話や民話、御伽噺に関しても例外ではありません。
ギリシャ神話におけるトロイア戦争。これはあくまで神話、「絵空事」であるとずっと考えられてきましたが、考古学者シュリーマンによる発見と、その後の考古学の研究により紀元前1300年~1190年ごろに存在したことが現在わかっているのです。
「現実」と「絵空事」が交わり始める感覚を覚えませんか?
ところで何故こういった発見が現在、次から次へと私たちに提示されているのかとても不思議だとは思いません?
それは「コスモス(表)」と「カオス(裏)」が交わり始めているからなのです。
どうやらこの世界は、私たちが学校で教わったよりもずっとずっと「広くて」、「高くて」、「深い」ようですよ。
それを受け止めるための「優しさ」にあなたは辿り着くことができるでしょうか。
自由に自由に舵を取って
もっと遠くへ鳥になって
自由に自由に舵を取って
もっと高くへ星になって
▽最後に
最後まで読んでいただきありがとうございました。
よろしれば今後ともよろしくお願いします。