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再投稿 呪縛解放13 re:⓪自業自得という鎖「そもそも呪縛とは何か?」

△再投稿の意図


 この記事は元々下記のシリーズの⓪番として投稿したものになります。

 以前の情勢ではご理解いただけなかったであろう内容のため消してしまいましたが、今の情勢であれば、また、私がこれまで重ねてきた沢山の記事を前提としたのならばきっとわかっていただけるであろうと考え少し修正して再投稿させていただきました。


△はじめに

(ここから元記事)

タケミナカタのみなさん、
つまり、オシリス=アダム(ディオニソス)の末裔のみなさん、
いかがお過ごしでしょうか?

まだ「私」を見失わずに世界に色を塗り続けているでしょうか?

アポロン(理性)が顕現した存在であるAIに体験情報や「私」を乗っ取られていないでしょうか?


これまで「呪縛解放」という名でニンゲンにかけられた様々な呪縛についてふれてきました。

解放される対象には他でもなく私自身も含まれています。
私は勉強の意義とは自身を縛る固定観念から解放されることだと感じています。

勉強して、それを整理して、発信する、という過程によって私自身が解放されることもこのシリーズを書いている目的なのです。

その副産物として見てくださった方の呪縛も解き放つことができたら万々歳でしょう。


△何故人は他者の発言の真意を洞察できないか(第三次世界大戦)

戦争の情報に慣れさせられ、「第三次世界大戦がはじまるかもしれない」、と感じる方も増えてきている現状だと思います。
 しかし実際のところ以下のように考えている方々もいます。


「第三次世界大戦はすでに始まっている」

「既に第四次世界大戦である」

「新第一次世界大戦である」

「実際のところ世界大戦はずっと続いていたのだ」



そもそも数年前阿部元首相は例の感染拡大を第三次世界大戦と表現しました。


トランプ元大統領は「自分は戦時下の大統領である」、と発言しました。

これらの発言を多くの方が「感染症への対策の比喩」と捉えました。

しかし、

(名目上だとしても仮にも一国のトップにあるような者が軽々しく「第三次世界大戦」や「戦時下」などという強いワードを使うだろうか?)

そのように考えた方はどれほどいたでしょうか?
私の肌感覚ではそれほど多くはいなかったと感じています。
なぜ?

なぜ人は受け取った誰かの発言の真意を想像できないのでしょうか?

真意を読み取る姿勢をもつことができないのでしょうか?

なぜ全体の流れではなく表面的な文字面だけに釣られてしまうのでしょうか?

それは私たちが物事を捉えるときに情報を「単純化」、「自動化」しているからです。

AにはB BにはC CにはD

A→B→C→D

個人・社会・国の優劣が生産量の高いか低いで表されるこれまでの人間活動では上記のように単純化、自動化することで思考の余計なプロセスを減らし素早い行動が求められてきました。

そのような中で

A→Bの→の構成要素はなんだろうか、
そもそも本当にA→Bなのだろうか、
A←B、かもしれないし、そもそもAとBは実は繋がっていなくてA→Cに余計なBの要素を足していたのかもしれない
というより、本当は全部繋がっていないのではないか?
本当は全部同じことなのではないか?

そういったことを考える人間は「遅い」ので望ましい存在ではなかったのです。

しかし現在はAIの登場により、これまでの人間の生産活動の仕方に疑問が呈されるようになってきました。

速さだけを追い求めるのであれば人間はAIに到底及ばないからです。


△呪縛とは(植え付けられたnode)


話が脱線してきましたので元に戻します。

AとB、BとC、CとD、というように各要素をnodeによって繋いで、与えられた情報に対して脊髄反射的に自動化、単純化して解釈をゆがめて結論に至ることで、過程を少しでも短縮しようとしてきたのがこれまでの人々です。


絵で表すとこんなかんじでしょうか。




さらにいうとこんなかんじのパペットです。





これまで受けてきた教育や社会活動によって各要素を繋ぐnodeが植え付けられ、情報が五感に触れたとたんにnodeを介して各要素を瞬時に巡り、「ラーメンを食べに行こう」、という結論に至っています。

この各要素を繋いでいるnodeこそが人間を縛り付けている呪縛です。

この呪縛に縛られている限り人は深く物事を考えることはできませんし、他者の言っていることを単純化して相互理解ができません。
世の中の大抵の問題はここから生じていると私は感じています。

理想は様々な体験に応じてこのnodeを再構築していける状態です。
そのためにまず必要となるのは、これまでに構築して使いまくって硬直した血管(node)を解きほぐす作業です。一度解きほぐせれば再構築していくのは個々でそれほどの負担なく行っていけるでしょう。
しかし、10年、20年、30年と使ってきたnodeを解きほぐす、最初の段階こそ非常に難しいものだと思います。

△大元の記事(ニーチェによる自業自得の否定)


本題に入ります。

今回行うのは「自業自得」、という鎖の解放です。

ここで述べる自業自得というのは仏教的な

「前世からの因果が現世での不利益を起こしてる」、 

というようなものではなく、

「利益も不利益も意思が引き起こす行動によって起こる結果であるため、全ては個人の責任である」、というような考え方のことです。


マザーテレサは言いました。

言葉に気をつけなさい、それは、いつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それは、いつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それは、いつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それは、いつか運命になるから。

マザー・テレサ



この言葉をその通りだと感じる方も多いでしょう。

しかし、ニーチェはこのプロセスを「我」という概念によって物事を単純化している、としたのです。

つまり
言葉を発する機能、行動をする機能、習慣を続ける機能、性格を構成する機能、そして運命、

これらを「我」という概念で一緒くたにしてしまい、それぞれを細かく直視することを避けてしまっている、とするのです。

マザーテレサの言葉に似た、意思が行動を生み出し、その結果として成功や失敗がある、といプロセスも我々が直感的にその通りだと感じています。

しかし、行動を生み出すのは本当に言葉や意思のみでしょうか?


例えば昨日食べたラーメン。

身体に合わないこってり加減で胃がもたれ、今日は気持ちが不安定で、友達と喧嘩をしてしまうという結果が起こったとしましょう。

そんなことはよくあるでしょう?

だとしたら意思を構成するものにはラーメンやそこに含まれる油や醤油や胡麻や麺、ネギや諸々が含まれていることになります。

そもそもラーメンなどという不健康極まりないものを食べる意思の弱さが結果を引き起こしている、という点ではやはり意思の結果として自業自得ではないか?

しかし待ってください!

つまりそのようなラーメンが売られている、という社会状況があるのです!

そしてラーメンが好んで食べられるという文化や時代があるのです。

さらには油を多く含んだ食べ物を美味しいと感じる生理的特徴を人間が持っていますし、多くのラーメンでは胃もたれをしないのにそのラーメンでは胃もたれしたことには、その日のコンディションや気候や「偶然」、そのラーメンは合わないという遺伝的特徴も存在しています。

そもそも友達と喧嘩をした、というのも、友達もその日機嫌が悪かった、というのもあり得ます。

これら全ての結果にいたる構成要素を無視して意思の弱さに帰着してしまうのは流石に無理があるとは思いませんか?

「我」、という概念はそういった危険性を孕んでいるのです。
「我」、という意思は結果に至る全ての構成要素の手柄も不利益も全て奪い取ろうとする要素になります。
無意識世界からの雷神(ディオニソスを背乗りしたアポロン)の働きかけです。


ですから、「我(理性)」を疑うこと=「我(理性)」という概念で物事を単純化しないこと、により結果を作り出しているのは単に意思のみでなく、あらゆる構成要素であることに考えが至り、意思のみが行動を生み出して、その延長で行動が結果を生み出す、という自業自得の概念から解放されるのです。

△結論(自業自得などない)

結果を作り出すと思われていた、
言葉→行動→習慣→性格→運命
というプロセスもここまでくれば酷く稚拙な考え方だとは思いませんか?

自己責任としての自業自得はあり得ません。
あなたの意思「のみ」が結果を作り出すことはありません。
成功してもそれは「我」のみの成果ではありませんので傲慢になってはいけません。
失敗してもそれは「我」のみのせいではないので気に病むことはありません。


そう思えば未来への歩みを始められるでしょう?

そして、苦しむ誰かに対して自業自得などと思う「我」という単純化と闘うのです。
それが「誠実さ」というものです。

△最後に


こういった考え方の源流はグノーシス主義というものになります。


社会を構築するのに酷く不向きな思想であるために「表」にはあまりでてきませんでしたが、聖書におけるヨブ記、ニーチェやトルストイ、ドフトエフスキーなどというカタチで次第に「湧き上がって」きたのです。

言ってみれば反逆者達の思想になります。

「啓蒙」とは何か?

本来は内側から湧き上がる力に「スパーク」することだったのです。

しかしいつからか…



この先もタケミナカタ(ニンゲン)であろうと思うなら覚えておいて損はない考え方となるでしょう。



ここまで見てくださり、ありがとうございました。
次回もお会いできたら嬉しいです。
私たちが「まごごろ」に辿り着けますように

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