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Dについて③「プラトン」啓蒙とは何か👁「洞窟の住民たちへ」

「古事記と言霊」という書籍をご存じでしょうか?


タイトルの通り言霊について述べたもので、古事記はアメノミナカヌシからスサノオまでの計100柱の神々で言霊の用法について書き表している、という主張をしています。

こういった言霊の思想は太古の日本で用いられていて、傷を癒したり、物を浮かせたりすることすらできたとされます。

その技術は白村江の戦いでの敗戦により公から抹消されてしまいましたが一部の者たちによって引き継がれ、主に南朝(大覚寺統)系の者たちが現代に提示する形となりました。

それらの真偽はさておき、古事記と言霊に書かれる内容として興味深いのは

・古代の人々が五十音の一文字一文字に適切な心理作用(概念)を割り振り振ったこと

・それを元に単語を構築していったこと

・その技術を暗号として残すためのものが古事記の神生みの段であること

・その内容として五十音一文字一文字に神々を当てはめていること

これは正しく以下の記事で私が触れた、「りんご」という箱(クラス)に🍎の概念(プログラム)を組み込むことで、「りんご」を宣言すれば他社と意思疎通ができる、という主張と重なり、またこれまでの記事で述べてきた通り「概念」がそもそも神である、という主張とも重なるのです。

一方でこのことに対する危険性についても述べました。

時間経過の中で箱に組み込まれていた概念が自然に、もしくは意図的にもすり替わってしまうこと。
元々は組み込まれていなかった意味が付随すること
元々組み込まれていた意味が削られてしまうこと
他の言葉と混同されること

そして、概念から顕現する意味の多様さを隠れ蓑として「核」となる「本質」が見えなくなってしまうこと。




このシンボルを見てあなたは何を連想するでしょうか?
インターネットの普及により都市伝説や陰謀論が広まったことでアイルやメイスを連想する方も多いことでしょう。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フリーメイソン

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イルミナティ

これはプロヴィデンス(摂理)の目と呼ばれておりその起源については諸説あります。
一般的な言説の一つとして「啓蒙思想」の象徴であるとも考えられています。

なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、啓蒙時代のヨーロッパにおいて啓蒙思想の立場をとる団体が好んで使用したシンボルであり、フランス人権宣言の上部にシンボルが描かれているのも、基本となる考え方が啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来するためである。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フリーメイソン

故に啓蒙主義が発端となって起こったフランス革命やアメリカ独立戦争に関する事物にこのシンボルが見られる、ということです。

フランス人権宣言
アメリカ1ドル札



概念から顕現する意味の多様さを隠れ蓑として「核」となる「本質」が見えなくなってしまうこと。

アイルとメイスの関係については触れませんが、上記の「隠れ蓑」について考えたとき、「啓蒙(意味)」こそが「アイル(概念)」そのものであるということが言えます。

どういうことか。

彼らについて理解を進めるためにプラトンによる洞窟の「たとえばなし」を取り上げましょう。

……地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。……壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。……

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/洞窟の比喩 『国家』第7巻の記述

洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/洞窟の比喩 解説


イデアとは

「イデア」という言葉は「見る」という意味の動詞「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、つまりものの「姿」や「形」を意味している。

プラトンは、イデアという言葉で、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。プラトンのいうイデアは幾何学的な図形の完全な姿がモデルともとれる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イデア


あまり言ってる意味がわからないと思うので誤解を恐れず私の解釈を述べさせていただくと、

洞窟に縛られた人々というのは私たちのことであり、縛られた私たちが見ている影とは「迷信」のことであるのです。

ここでいう迷信とは「霊柩車が通り過ぎる際には親指を隠していないと親の死に目に立ち会えない」というようなものに限らず、以下の記事で述べたものも含みます。

・行政指導と天下りにより政治が会社の運営に介入する。
国民は安定を求め独立心も競争心もない。
完全な社会主義国であるのにも関わらず、学校で「この国は資本主義だ」と教えられたから資本主義であるとされる。
実体と合っていなくても権威ある者がそう言えば「そういうもの」だとされる。

・ただの紙切れが黄金の代わりになり、代わりであったことさえ忘れ去られても世界を回し続ける。

・小中高を卒業し、就職もしくは進学、30代前後で婚姻し、子どもを育て上げ、60代まで働き、余生を好きに過ごすことが人生の成功であり、それができなければ失敗…。


もちろん実際にはこれらに裏付けとなる仕組み・理論や思想、そして「秩序」が続いてきたという実績があるのですが、多くの人々にとってはそういった裏付けを意識することはなく「そういうもの」という迷信に成り下がってしまっている、ということです。


そういった「迷信(影)」を照らし出すことで人々にイデアを認識させる「存在」が啓蒙(アイル(照明派・光明会))である、ということです。


このとき影が照らし出された先の物語についても想像を広げてみましょう。

影(常識や秩序と表現しましょう)が照らし出されたことでそれはただの思い込みにすぎないと認識した人々は、その秩序の上に君臨していた権威についても疑いを持つようになり、それに対する攻撃が起こることが考えられます。

それは荒々しさを増し、血が洞窟内に撒き散らされることになります。
カオスの到来です。
以下の記事で述べた通りカオスは神官やシャーマンというような存在がコスモス(秩序)との橋渡しをしており、彼らの権威が保たれていたのならば人々はコスモスへ戻ってこれます。


しかし啓蒙がその権威を迷信とみなし彼らから神聖さを剥奪している場合、人々はコスモスへ戻ってこれなくなると考えるのです。

人々は迷信の上に成り立っていた秩序を否定し、全く新しいシステムを構築しようとし始めます。

これらの動きに対して反対の立場を表明する層が現れることも想像に難くないでしょう。
そういった層は以下のような発言をするのではないでしょうか

「政策の真の当否は、やってみればすぐにわかるとはかぎらない。最初のうちは「百害あって一利なし」としか思えないものが、長期的には実に有益な結果をもたらすこともある。当初の段階における弊害こそ、のちの成功の原点だったということさえありうる。
 これとは逆の事態も起こる。綿密に考案され、当初はちゃんと成果があがっていた計画が、目も当てられない悲惨な失敗に終わる例は珍しくない…
 政治の技術とは、かように理屈ではどうにもならぬものであり、しかも国の存立と繁栄に関わっている以上、経験はいくらあっても足りない。最も賢明で鋭敏な人間が、生涯にわたって経験を積んだとしても足りないのである。
 だとすれば、長年にわたって機能してきた社会システムを廃止するとか、うまくいく保証のない新しいシステムを導入・構築するとかいう場合は、「石橋を叩いて渡らない」を信条としなければならない」

エドマンド・バーク フランス革命の省察

こういった対立が正にフランス革命で起きたのです。

王政やカトリックによる伝統的社会の廃止(王という存在そのものが罪であり、それゆえに王は処刑されるべきである)を訴える急進(革新)派が議会の左に座ったことで「左翼」と呼ばれ、

あくまで王を建てた上での改革を訴えた者たちが議会の右に座り「右翼(伝統や慣習の保守)」と呼ばれるようになったのです。

今現在日本で言われる「左翼」と「右翼」とは随分と毛色が違うように思えませんか?

ちなみにお伝えすると、「右翼」に関しては

時間経過の中で箱に組み込まれていた概念が自然に、もしくは意図的にもすり替わってしまうこと。
元々は組み込まれていなかった意味が付随すること
元々組み込まれていた意味が削られてしまうこと

が起きています。

「左翼」に関しては

概念から顕現する意味の多様さを隠れ蓑として「核」となる「本質」が見えなくなってしまうこと。

が起きています。

この恐ろしさから目を逸らしてはいけませんよ。

ここまで見てきてご理解いただけると思いますが、「啓蒙」と「左派(革命)」は密接に絡み合っています。そしてそれに対するアンチテーゼとして「右翼(保守)」思想が生まれた、というのはある意味で「右翼」も「啓蒙」を起源としている、ということなのです。

このように右翼と左翼の核となる概念を探っていくと一旦はフランス革命に行き着きます。

しかし、実のところさらに奥に潜っていったとき、ディオニソス(欲望)とアポロン(理性)に行き着くのです。

このことは後に詳しく述べましょう。

少し早計であることは重々承知でさらに深いお話をします。

啓蒙という光が迷信という影に実態がないことを暴き出す、ということでしたが、そもそも「実態」とは何なのでしょうか?

これに対してプラトンは「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」と述べたわけです。

ずっとずっと私が述べてきたこと。

真実とは脳と感覚器官が知覚できる周波数の制限をやめた世界。

ここは「真実の世界(無意識)」の箱庭である「現実(無秩序)」の仮想世界である「社会(秩序)」である、ということ。

啓蒙が人々に導く先は無意識(無)への回帰、つまり自我の消失であるということです。

何故か?

争いを無くすためです。
争いは自我が起こすものであるからです。

こういった話をあなたは極論だと感じるでしょうか?
問題はあなたが極論だと感じるものを権力者も極論と感じるとは限らない、ということです。

実のところ私が本当に皆さんと一緒に考えていきたいことがこのことで、

「人間とは本当にそこまでしなければ争いを止めることができないのだろうか?」

ということなのです。

ぜひともあなたと一緒にその答えを模索していきたいのです。

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