「詫」タケミナカタ神話「裏」⑨苦救「味鋤高彦根」進む、進み続ける、戻らない、戻れないから「御伽噺」
▽[Q]はじめに[Q]
まだ先へ もっと先へ 遠い出口へ向かっていく
もう戻れない 戻らない 終わらない 終われないから
▽タケミナカタとは何者か
前回の記事でタケミナカタとは何者かの総括ともいえる内容を書き込みました。それを補足説明します。
第一層
出雲口伝に書かれる出雲の副王の称号「スクナヒコ」であった事代主の子、建水方富彦命を表す龍蛇信仰の者たち。そして、天忍穂耳命を事代主と前回の記事で考え、奴奈川姫の前夫の松本の豪族と考えました。
出雲王家は岐の神(くなどのかみ)と佐毘売ノ命(アラハバキ)の夫婦神とその子である猿田彦を信仰していたと言います。そして、後世に岐の神は地蔵、佐毘売ノ命は弁財天として信仰を隠した、と伝えられます。岐の神はミシャグジ、アラハバキはソソウ神と過去に考えました。
そして、その両者の子を諏訪氏の童子に神降ろしさせ、現人神の大祝にする神事がかつて諏訪で行われていたという御室神事。現人神の大祝は人でありながら諏訪大明神でもある、つまりタケミナカタであり、その身に降ろされている神は猿田彦、ということになります。故に猿田彦=タケミナカタ(第一層)となります。
第二層
磯城王朝を表す風神の者たち。磯城王朝とは徐福の子孫の天村雲命を始祖として、村雲の子孫の大王家、事代主の子孫の富家、高倉下の子孫の尾張家が有力豪族のいわゆる海部王朝というものであります。記紀神話の神武東征は徐福の子孫の別の一派である物部を賀茂建角身命が引き入れたこと(第一次物部東征)を暗喩しているといいます。この東征で各地に逃れた者たちが第2層の建御名方命です。
過去の記事で記紀神話における東に逃れた・派遣された類の物語は全て同じ話である、と考えました。
建御名方命、天津甕星命、武甕槌、布津主、建葉槌命、伊勢津彦神、長脛彦、天富命、大彦、武渟川別、物部守屋
記紀神話およびそれらに付随する伝承・書物は実際は追いやったエピソードを派遣した、と記述することがあり上記の神々は全て同じ集団の東への移動を表すということです。このとき、天富命が忌部を率いて阿波(現徳島)を開拓し、次に房総(現千葉周辺)へ移動したわけですが、この天富命が建御名方命と重なるわけですから徳島県に諏訪元宮と言われる多祁御奈刀弥神社があるのはこのためです。
また、磯城王朝は実際のところ出雲の富家(事代主の子孫)の流れが濃く、少彦名命でもあるわけです。阿波の由来は粟であるとされます。ですから、全国の粟(淡、アワ)島神社の御祭神が少彦名命であることや、役目を終えたスクナヒコナが淡島で粟の茎に登り、その弾力ではじかれるようにして常世の国に帰った、もしくは熊野の岬から船に乗り海を渡って常世の国に帰ったという伝承と重なるのです。磯城王朝の尾張氏(高倉下や五十猛命で表される)が紀伊国造となったと出雲口伝では伝えており、彼らも第一次物部東征際して各地に逃れているので、熊野の岬から出ていったことも間違いではありません。
第2層のタケミナカタは風神であり、少彦名命であるということです。
前置きが長くなりました。これよりタケミナカタの第三層、雷神の味鋤高彦根命について考えていきます。
▽味鋤高彦根命(あじすきたかひこね)の概要
▽記紀における味鋤高彦根命
味鋤高彦根命は出雲の国譲りの天稚彦命の葬式に登場する神様です。記紀によれば宗像三女神の田心姫神と大国主との間の子で、妹には下照姫がいます。
天照から出雲国を天孫に譲るよう大国主に説得するために遣わされた天稚彦命は大国主の人柄に惚れて、なおかつ大国主の娘の下照姫(したてるひめ)を妻にします。天稚彦命はそれから高天原に報告をよこさなかったため、反逆の意思があるとされて高天原から返し矢を打たれて亡くなります。
稚彦の葬式に稚彦の父母や妻の下照姫、そして下照姫の兄、味鋤高彦根らが参列しました。味鋤高彦根と天稚彦は友人であり、また容姿がそっくりであったため、それを見た稚彦の父母は息子が生き返ったと喜び、味鋤高彦根の元に駆け寄ります。しかし、味鋤高彦根は死人に間違われるという行為に怒り、暴れ回り喪屋をめちゃくちゃにしてしまいます。このとき、下照姫が味鋤高彦根の「名を明かす歌」を詠んだことで騒動は止んだとされます。味鋤高彦根と下照姫の動向はこの後不明となります。
古事記において味鋤高彦根命は迦毛大御神(かものおおみかみ)と記述されています。
▽出雲国風土記における味鋤高彦根命
味鋤高彦根命は髭が長く伸びる頃になっても言葉を話せず、一日中泣き叫んでいたといいます。
味鋤高彦根命の父は味鋤高彦根命を船に乗せて八十島を巡るなどしますが何をしても泣き止むことはありませんでした。ある日、父が三津に味鋤高彦根命を連れていきました。父は夢の中で「御子が泣く理由を教えて下さい」と祈願し、その夜、御子が喋れるようになる夢を見ました。目覚めて御子に問いかけると「御津」と答えたといいます。親神が「どこをそう言うのだね?」と尋ねると、味鋤高彦根命はただちに親神の前から立ち去り、石川を渡り、坂の上まで行ってとどまり「ここです」と答えます。そのとき、その津の水が湧き出て、その水を浴びて身体を清めたとあります。
▽味鋤高彦根命の諸説
アヂは可美(ウマシ)の意の美称、スキは鉏、タカヒコネは敬称、農具を神格化した名という。一方、アヂを味鴨、スキを村の意の朝鮮語と見る説、アヂを多数の意、スキを刃の意味と見る説もある。シキの場合は石木、石城、或いは大和国の地名とも。シキとスキの関係にも、音の交替説、またキの甲乙違いで別語とする説があり、名義ともに一定しない。神格としては、農耕神・水神・蛇神・雷神・剣神など諸説ある。出雲系の神とされるが、記に「迦毛大御神」、出雲風・意宇郡に「坐葛城賀茂社」、祝・出雲国造神賀詞に「葛木乃鴨乃神奈備尓坐」、神名式・大和国葛上郡に「高鴨阿治須岐託彦根神社四座」とあり、この神の本縁は大和国葛城地方、鴨氏の祭神と思われる。「大御神」は、記では他に「天照大御神」、「伊耶那岐大御神」、「伊勢大御神宮」に用いられるのみであり、記の神への敬称・尊称としては最高のものであり、この敬称をこの神が持つことは、この神とこの神を祭った氏族との、ある時期における勢力の強大さを物語っているとする説、出雲風・意宇郡に神戸が賀茂の阿遅須枳高日子命のために設置されているとしており、大和王権において極めて重要な神であったことと呼応しているという説が存在する。
▽味鋤高彦根命とは何者か
味鋤高彦根命は大人になっても泣き続けて話すことができなかったといいます。これに似たエピソードを持つ人物が垂仁天皇と狭穂姫(サホヒメ)命の子である本牟智和気命(ほむちわけのみこと)です。
▽本牟智和気命とは
狭穂姫には兄の狭穂彦がいました。兄から「夫(垂仁天皇)と自分のどちらが愛しいか」と問われた狭穂姫。兄の方が愛しいと答えた狭穂姫に狭穂彦は短刀を渡し、「それなら垂仁天皇を暗殺してこい」、というのでした。垂仁天皇が狭穂姫の膝枕で眠ったところで狭穂姫は短刀を振り下ろそうとします。しかし、手が震え涙が溢れてきてできませんでした。その涙で目を覚ました垂仁天皇に狭穂姫は一連の出来事を伝えました。そして、兄の元へ去っていきました。狭穂姫のお腹には子どもがいました。垂仁天皇は狭穂彦を討伐しましたが、狭穂姫とお腹の子だけは助け出したいと思いました。しかし、狭穂姫は兄と最期を共にするという決意が固く垂仁天皇の追手から逃れ続けます。けれど子どもを道連れにすることはできなかった狭穂姫は燃え盛る炎の中で子を産みます。その子は炎の中で生まれたのでホムチワケと名付けられ、垂仁天皇の元に渡されるのでした。そして、狭穂姫はその炎に焼かれて兄の後を追うのでした。
本牟智和気命は成人しても話すことができず、赤子のように泣いてばかりいました。日本書紀によれば、白鳥が飛ぶ様を見て、「あれはなんだ?」と初めて言葉を発したといいます。これに喜んだ垂仁天皇はその白鳥を追わせて捕まえます。その白鳥と戯れるうちに本牟智和気命は話すことができるようになっていきました。垂仁天皇は本牟智和気命のために、鳥取部、鳥飼部、品治辺を置いたといいます。
古事記では内容が変わります。
▽本牟智和気命=味鋤高彦根命
味鋤高彦根命も本牟智和気命も大人になっても話すことができずに泣き喚き続けたとあります。そして、味鋤高彦根命の妻は天御梶日女(あまのみかじひめ)で、本牟智和気命の妻は天甕津日女(あまのみかつひめ)です。味鋤高彦根命は全国の加茂神社の総本社、葛城の高鴨神社の御祭神です。そして、古代には葛城の下郡に品治郷(ほむちきょう)があって、本牟智和気命はここの王であったと考えられます。エピソード、妻の名前、場所、それらが重なり合う味鋤高彦根命と本牟智和気命は同一の存在と考えていいでしょう。
そうすると様々なことが見えてきます。例えば大人になっても泣き叫び続けた、というエピソードは素戔嗚と共通します。素戔嗚は母の伊弉冉に会いたいと泣き続けました。伊弉冉は火の神、加具土命を生んだ際に火傷で亡くなりますが、狭穂姫も火の中で本牟智和気命を生んで亡くなります。
また、炎の中で子を産んだエピソードは木花咲弥姫命(このはなさくやひめ)と共通しています。瓊瓊杵尊にお腹の中の子が本当に自分の子か疑われた木花咲弥姫命は「天孫であるあなたの子なら炎の中でも無事生まれるでしょう」といって、炎の中で火照命(海幸彦)、火須勢理命、火遠理(山幸彦)を生みます。
本牟智和気命の物語の白鳥は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越,、と飛んで行ったと伝えられていますが、これらの土地は全て前述したタケミナカタの第二層の神々に纏わる土地です。白鳥は鉄の磁気で場所を感知して飛ぶため、製鉄を表すと以前の記事で紹介しました。
そうしたとき、本牟智和気命が白鳥と戯れていたエピソードは磯城王朝への征服を表すと考えます。また、白鳥は稲荷とも関係が深いです。下記は伏見稲荷大社の伝承です。
▽秦と鴨
本牟智和気命のエピソードと上記の伏見稲荷の伝承は同じことを指していると考えます。そのため、味鋤高彦根命は秦氏の神とすることができます。事実、味鋤高彦根命はカモノオオカミですが、鴨氏と秦氏は婚姻によって深い関係を築いています。故に賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と、秦氏の大山咋命の二柱は同じ伝承を持っています。
これらの物語には神武天皇を大和まで導いた八咫烏、賀茂建角身命が関連します。
出雲口伝において神武東征とは筑後に勢力を張った物部達が磯城王朝を攻めたことであるとされています。そして、それを手引きしたのは富家の賀茂建角身命でした。彼らは賀茂建角身命を八咫烏と崇めて三輪山の西南の磐余に居住したといいますが、この土地も葛城からそう遠くない土地です。
そして、一番に気になるのが玉依姫でしょう。この人物は記紀においては海神(わたつみ)の子で姉に豊玉姫がいて、鷀草葺不合尊(うがやふきあえず)の妻で神武天皇の母です。つまり、賀茂別雷命が神武天皇ということになります。また、賀茂建角身命が海神(わたつみ)となるわけですが、元々は磯城王朝(海部王朝)の人物なので納得できるでしょう。そして海神の別表記、「少童命」。最初の徐福の一団が連れてきた海童たちが、出雲の主王と副王を殺害した経緯があります。そして、副王家の少彦名に成り代わったと考えます。ですから、この海童たちは少童命(わたつみ)で、悪童の面の少彦名です。
そして、古事記の記述を思い返してみてください。諏訪に逃れてきた建御名方命を武御雷命が追ってきています。つまり、武御雷命は諏訪にいるということです。この武御雷命は実際は賀茂別雷命と考えます。これらが味鋤高彦根命で、物部であり、秦であり、鴨であり、中臣である者たちです。磯城王朝の残党(風神)と味鋤高彦根命(雷神)の対立が諏訪で起きている、ということです。
事実、諏訪大社下社には末社に賀茂上下社があり、賀茂建角身命、玉依姫、賀茂別雷命が祀られています。
▽雷神たち
私はこれまでの記事で味鋤高彦根命は宇麻志麻遅命(ウマシマジノミコト)=味内宿祢(ウマシウチスクネ)と考え,そして竹内宿祢に成り替わったとも考えています。
宇麻志麻遅命は実際は第二次物部東征の人物です。第二次物部東征は筑後のイニエ王(崇神天皇)が宇佐神宮の豊姫(豊玉姫)と同盟を組んで大和(磯城王朝)を攻めたものです。これを宇麻志麻遅命が引き入れたと私は考えているのです。そして、大王の座に着かせて自分の娘を嫁がせます。これが玉依姫だとしましょう。そうしたとき、賀茂別雷命は崇神天皇となります。そして、出雲口伝は記紀が崇神天皇の行動を瓊瓊杵尊で表している、としています。瓊瓊杵尊の妻、木花咲弥姫命の火中出産と狭穂姫の火中出産が重なります。そして生まれるのが本牟智和気命=味鋤高彦根命で、白鳥を追う物語(磯城王朝の討伐)を表すと考えました。これは木花咲弥姫命の御子で表されると考えます。
つまり、
山幸彦=本牟智和気命=味鋤高彦根命
海幸彦=磯城王朝(海部王朝)です。
宇麻志麻遅命(竹内宿祢)が自分の子孫を大王家に嫁がせるようになって生まれるのが応神天皇です。故に応神天皇は誉田別尊(ホムタワケ、ホンダワケ)で、本牟智和気命(ホムチワケ)と名前を似させているのです。そして、本田氏が加茂氏の流れであることや、応神天皇の御代に様々な渡来人が来た記述があり、その中の一人が弓月君(秦氏の祖)であることも繋がります。
系図はかなり前後して複雑怪奇ですが、これらが同じグループ内の人物、出来事であることは納得していただけると思います。
▽諏訪氏とは何者か?
▽意富田田根子
諏訪氏は建御名方命の子孫を称する上社で大祝を輩出する一族です。同族に神氏(じんし)がいます。この神氏を大神山祭司の大三輪氏(大神氏)としてよいのか、という問題もあるのですが、私は同じものと捉えています。大三輪氏とは大神山を祭祀し、始祖を意富田田根子(オオタタネコ)とする一族です。諏訪大社の上社の大祝は諏訪氏の童子から選ばれたとされます。先ほどの賀茂別雷命や大山咋命と玉依姫の伝承は三輪山型神話と呼ばれる神話の類型の一つです。
この意富田田根子が賀茂別雷命や大山咋命、味鋤高彦根命と同心円上の存在となります。古事記においては武甕雷命の子との記述があります。これは賀茂別雷命のことでしょう。
この雷神の勢力は様々な家系に系図の背乗りや系譜仮冒を行い、様々な神社に入り込んで伝承や祭神、儀礼を塗り替えたりしました。禰宜という役職がこれにあたります。
故に「賀茂が禰宜を背負ってくる」なのです。
それは前述したように賀茂上下社があることから諏訪大社も例外ではなく、大神氏はいつからか諏訪氏に入り込んできて祭神を第三層の雷神に移し替えたのだと考えます。
▽蛇足
実は御柱祭の木落しで人が乗るのは明治時代からです。
裸祭りもそうなのです。
これらは見方によれば生贄ではないですか?
物部守屋が終わらせたはずの人身御供を祭りというていで復活させているのです。これが明治時代の本質なのです
▽御伽噺
昔々それはそれは平和な国がありました。その国では人々の間に誤解や勘違いというものは存在せず、傷つくことも、悲しいこともありません。心はみな通じ合い、「私」と「あなた」というような境界線もありません。所有の概念がないため、競争や奪い合いといったものも存在せず、すべては神様からの借り物であるとみんなが考えていました。
とある書物では「エデン」と呼ばれる地です。
その国の人々がどうなっていったと思いますか?
緩やかに、しかし確実に死へと向かっていったのです。
すれ違いや誤解で争い合って、傷ついて悔しくて、
だからこそ前へ進もうとするのでしょう。
今はだめでもこの先なら・・・
もっと先へ進めば何かがあるのかもしれない
満たされる場所が
許し合える誰かがいるのかもしれない
そうやって進む「過程」こそが人生の本当の価値なのではないでしょうか。言い換えるなら「詫」という感情になります。
争いや競争がない世界とは人々の心に火がない、進むという概念のない世界でもあるのです。
「私」や「あなた」の壁、個という概念のない世界では個性を育むこともなく、「過程」を味わうこともないのです。
そのような世界が滅びに向かっていくのは想像に難くないでしょう。
故にそのモノは人々に火を与えたのであった。
その火に焼かれて人々は争いを始めたが確実に衰退への道は逃れることができたのだった。葛藤がなかったはずがないだろう。
自らの手で平和を終わらせるのだから。
それでもそのモノは進むことを選んだ。
彼に母親はいなかった。彼の生まれた際のいざこざで亡くなった。
母親のいない寂しさを抱えて、いつしか心の大きな穴となった。
その穴に苛まれ埋める何かを探し続けた。
彼は心の穴に「理想」を詰めたのだ。
平和を終わらせてでも人々の存続を成し遂げようなど、心に大きな穴が空いたモノでしかできないでしょう。
それからどれだけの時間が流れたのだろう。
彼は未だに進み続けている。
止まることなど、戻ることなどできやしないのだ。
それをしてしまえば、彼の選択が、これまでが崩れ去ってしまうから。
彼は進む。進み続ける。
目的など既に忘れてしまったが、この先に何かがあることを信じて進み続けるしかないのだ。
故に世界に争いは絶えない。
▽最後に
彷徨い、違う場所に何かあると期待している。
ここでいいといえるでしょうか?
巡りくる明日を迎え撃つ日々なら満たされるのでしょうか?
それで満たされてしまって、衰退を始めてしまうのだとしたら、
命を続けるためには戦い続けなければならないのでしょうか?
わからない、わからない、わからない…。
けれど、そうやってグルグルと思考が回転しているとき
少なくとも私は「過程」の中にいて、「侘しさ」の中にいることを実感するのです。
穴の開いた心で進むのなら、止まることや戻ることができなくなってしまいます。
心の穴には優しさや愛、他者を入れるのです。
そうして満たされても、満たされた心で進むのです。
でなければ同じことを何度も繰り返すでしょう。
読んでいただきありがとうございました。おそらく次で最後になります。
このシリーズは下記から▽
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?