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つかみどころのない世界の解像度を上げるために

ぼくは幼い頃から、「言葉は不便だなあ」と感じてきた。「人間はどうやったら言葉を使わずに、テレパシー的なもので感覚をそのまま共有できるようになるんだろう」なんてことをよく思っていた。(「言葉」というと広義になるけど、ここでは、いわゆる日常的にぼくらが使っている言語のことを言っている。)

ぼくたちは自覚的にも無自覚的にも、五感・六感を使ってあらゆることを感じている。映画を見たり、音楽を聴いたり、香りを嗅いだり。そこらへんの道端を歩いていても、景色や空気から、日常的にあらゆることを大量に、自分なりに、捉えている。

ぼくは “感じる” とは、「世界を自分なりに捉えること」で、 “世界” とは「自分の感じ得ること」だと思っている。

つまり、人は皆「自分」として生きているのだから、自分の実感の得られないことは、いくら現実に存在すると言われても、その人にとっては「無い」も同然だよねということ。たとえるなら、別の惑星に宇宙人が文明を開いていたとしても、人類がそれを認知しなければそれは無いも同然だし、文字通り知ったことじゃない。だけど、誰かが宇宙人文明の存在を知っていて自分がまだ知らないだけなら、将来的にはそれを知る可能性がある。つまりそれは「自分」に影響してくるので、世界は「自分の感じ “得る” こと」だと思う。換言すれば、自分に影響を与え得る存在が世界、ということになる。

とんでもなく抽象的な話をしているけど、べつにぼくはただ世界の定義づけをしたいわけではなく、コミュニケーションには言葉ほど不適合なものはないのかもしれない、ということが言いたい。なぜなら世界は目に見える形がなく、つかみどころがないからだ。

「言葉」は、自分の感じたことを他者に伝えようとするときのコミュニケーション手段として、絵や音楽や光よりも利便性に優れていると思う。言葉には一語一語に意味が明示されているからだ。絵や音楽や映像、あるいは匂いでも他人に何らかのメッセージを伝えることはできるけど、言葉ほどムラなく明確に指示や意味を伝えることはできない。

だけど言葉は、世界を捉えて、ありのままに表現するという意味ではまったく適していないと思う。それは一語一語に意味が明示されすぎているから。本来的に捉えどころのない世界というものを表現するのに、言葉はその表現可能性が限定的すぎる。

ぼくたちは理性的なり本能的なり、五感・六感を通して多角的、多面的、また個人的に世界を捉えているはず。その表現方法は限定されるべきじゃないのに、感じたことを既存の「言葉」という表現方法に落とし込んだ瞬間に、良きにつけ悪しきにつけ、世界を狭小に歪曲して捉えてしまうことになる。言葉はそれだけ限定された表現方法で、解像度が粗い。その点、絵や音楽や映像は、一つひとつの色、音、光に明確な意味があるわけではない分、表現の自由度が高い。

世界は複雑で壮大で、つかみどころがない。そんな世界を、言葉という膨大かつ意味の限定的なツールを使って表現することは難しいし、至極面倒な作業だ。

でも、だからこそ、ライターのような言葉を専門的に扱う仕事が必要となる。ネットワークで世界が狭くなり、コンテンツが溢れ、価値観多様な現代では、“人の内側にある何か” を的確に伝えるための言語化力は、ことさら重要な力になる。

表現方法として、言葉はとても限定的なもの。だけど世の中をもっと鮮明に、人の内側にあるものをなるべくそのまま外に出したい。だから、ぼくは言葉を鍛える。

至極抽象的だけど、言葉の持つ表現の「可能性」と「限界」の両面。その狭間にあるジレンマと、書いたり話したり、言葉を丁寧に扱えることの魅力についての話。


ライター 金藤 良秀(かねふじ よしひで)





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